2016年11月30日水曜日

久し振りのテニスじゃ。

凡そ一ヶ月ぶりの水曜テニス。
まだ膝の痛みは治っていないのだが、身体の中に変なモヤモヤ感があり(身体を動かすことにたいする渇望の塊)、これを運動することにより、何とかはき出そうと無理をして動いてみたのである。

いざ、運動してみると膝の方も心配していたほど痛みはなく、今日のところは無事終了することができた。
ただ、この膝の痛みは「調子こいて」運動したためであり、ここのところはシッカリと戒めなければならないだろう。

N西での授業は、センター対策の問題演習に入っている。
センターテストまであとひと月半。
いよいよ追い込みである。
生徒諸君もそれを自覚してか、かなり真剣に問題を解いている。
皆、がんばれよ。
がんばれよ。



2016年11月29日火曜日

カルピスソーダ 濃いめ

「カルピスソーダ」濃いめPET500mlカルピスソーダ「濃いめ」という清涼飲料水を飲んでみた。
近所のスーパーに山積みされていた商品である。
炭酸飲料フリークのワタシとしてみれば、「おおーこれは試して見なければ」と早速購入したのだ。

この製品、ワタシ自身が色に惹かれたというかなんというか、かなり濃い感じの白である。
色の濃さは製品には直接関係ないのかもしれないが、インパクトは強いものである。
飲んだ感想はというと、「それなりに濃い」である。
炭酸がやや弱いのが気になるが、ブレンドした人はこれがベストだと思ったんだろうね。

会社のコマーシャルによると、通常のカルピスソーダの二倍の乳成分を含み、隠し味にはハチミツを加えているのだそうだ。

ふーん、そういうことか。
もっとも味というものは、味覚の個人差があるので、何をもって「濃い・薄い」を決定するのかは、はっきり分からない。
きっと、自分が「濃い」と思えば「濃」いのだろうね。

2016年11月28日月曜日

40代

今晩7時のトップニュースは、「歌手のASKAが覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕へ」というものであった。
このところ、元野球選手のK、元女優あるいは元男優と違法薬物での逮捕者が続く。

ニュースの解説でも言っていたが、これらの人物に共通する点は、皆40代ということだ。

何故分別盛りの40代なのだろうか。
この国はやはり相当病んでいるのだろうか。
国の中心となって働かなければならない世代、それが40代であるはずなんだがね。

2016年11月27日日曜日

メンタリティー

相撲中継を見ていて思うこと。
スポーツ全般に言えることなのだが、相撲ほどメンタルに左右されるものはないだろう。
気持ちの強さが肝心なのだ。

昨日優勝した横綱鶴竜のなんと落ち着いていたことか。
それに比べ、一昨日の大関稀勢の里のふがいなさ。
仕切の前から目が宙を浮いているようで、終始落ち着きが感じられなかった。

稀勢の里という力士は本当に不思議な力士だ。
横綱三人を圧倒的な強さでやっつけたかと思うと、次の日は自分の取り口を忘れ、重要な星を落としてしまう。
ここ一番に実に弱いのだ。
精神的な面が如何に問題であるかということだろう。
もう、相撲の稽古をするよりどこかの禅寺にでも行って、座禅でもする方がよっぽどよいのではないか。

皮肉なことに、今年の年間最多勝は稀勢の里だという。
優勝のない年間最多勝力士は、過去には一人もいないということでもある。


2016年11月26日土曜日

案山子

以前、富士宮に出掛けたときに撮った案山子である。

道路脇の畑に何か変な人達がいるなと思いながら通過したのであるが、よくよく見るとその人達は動いていない。
こりゃあ人間ではないなと、道を引き返してみた。

おおー、案山子じゃ、案山子。
最近の案山子はスゲエナーと感心しながら、何体かの案山子を撮ってみた。

この案山子、着ている服を見ると、どうも鳥よけの案山子ではないような気もする。
服がずいぶんオシャレなのだ。
してみると、アートか?
でもアートであるならば、説明があるだろう。

とうとう、訳の分からぬまま帰ってきてしまったが、今でも鳥よけかアートかは謎である。

2016年11月25日金曜日

老いる都市

三年生の小論文指導をする中で、いささか考えさせる文章があった。
昨日の小論文では「日本経済新聞」の「老いる都市」という記事が問題文となっていた。副題として「都心に潜む限界集落・効率と安全両立に苦慮」とある。

離島や山村ではなく、東京都に65歳以上の高齢者が過半数を占める「限界集落」が現れている。
JR赤羽駅に近い、東京都北区桐ヶ丘、日中でも人影まばらなこの地は住民約4800人の51%が65歳以上。
「隣のおじいさんが最近家から出てこない。」
「隣がごみ屋敷に「なっている。」
地域の高齢者相談窓口には年間1万件を超える相談が舞い込む。
単身世帯が4割もあり、区と自治会は高齢者の孤独死やトラブル防止へ見守り事業に力を入れる。

うーん、人ごとではない。
ワタシが現在住んでいるところも(ここは決して都会ではないが)、周りはワタシと同年代か若しくは歳上の世代である。
あと10年後の状況を想像すると、多少の「ぞっと感」を禁じ得ない。


2016年11月24日木曜日

鶏焼き肉

朝、自宅を出る時にはうっすら積もった程度であった雪が、御殿場では昼前後に五センチ以上となったようだ。
気温も御殿場地方は零度以下になったそうである。
昨日も言ったが、まだ十一月ですぜ。

東京の都心では、十一月のこの積雪は五十四年ぶりとか。
何はともあれ、今シーズンの冬が思いやられる雪であった。

夜、「秘密のケンミンショー」という番組をみていると、伊勢松坂の「謎の鶏焼き肉」を特集していた。

松坂と言えば、松坂牛であるが、「鶏焼き肉」とは驚きである。
「鶏焼き肉」とは、若鶏などに味噌だれ(勿論赤みそです)をつけて焼く食べ方であった。
ここに登場する「味噌だれ」がミソなんですな。

うーん食ってみてえ。




2016年11月23日水曜日

エヴァンスの七不思議

File:Undercurrent.jpeg
天気予報によると、今晩は静岡県東部の山間地では雪とのこと。
ん?
雪?
まだ十一月ですぜ。
というわけで、午前中に娘の車のタイヤ交換、そして自分の車の自爆修理からの引き取りと、結構忙しい時間を過ごした。

午後は一転、ジャズ三昧。
今日のようにどんよりした日は、ビル・エヴァンスに限る。
この間TUTAYAからレンタルしてきた「Undercurrent」を聴いてみた。(写真はアルバムのジャケット)
中山康樹がこのアルバムの紹介の中で、こんなことを書いている。
「エヴァンスの七不思議のひとつに、なぜエヴァンスが演奏するスタンダード・ナンバーは恥ずかしくないのか?が挙げられる。つまり、エヴァンスの場合、スタンダード・ナンバーが漂わせる年寄り感、それを聴くときにうっすらと感じる気恥ずかしさがない。エヴァンスが若い世代に抵抗なく受け入れられる要因を求めるなら、これではないか。すなわちエヴァンスが演奏するスタンダード・ナンバーは加齢臭や時代色を感じさせず、今現在の音楽として、新しく、かっこよく響く。」

中山康樹が言っているのは、古いものを新しいものとして置き換える能力が、エヴァンスは抜群であるということなのだろう。
ワタシも教員として斯くありたい、と思う今日この頃である。

2016年11月22日火曜日

津波警報

富士霊園まで紅葉を撮りに行ってみた。
富士霊園は春の桜はよく知られているのであるが、秋の紅葉もなかなかなのである。
隠れた名所とでも言うのだろうか。

さて、紅葉と言えばモミジ。
モミジといえば紅い葉をイメージしがちだが、富士霊園には黄色の葉のモキジがそこそこある。
そして、これが結構良い味を出しているのだ。
霊園のモミジは黄色にカギルのである。

早朝に地震あり。
震度は5弱、震源が福島県沖だということで、東北地方では津波の警戒警報が出た。
不覚にもワタシは寝入ってしまっていて、地震があったことも知らずにいた。
震度自体がそれほど大きくなかったようで、建物が壊れる等の被害はほとんどなかったが、やはり怖いのは津波、気象庁のほうも即座に対応したようだ。

津波に関しては、前の津波被害の教訓がしっかり生きているのだろう。



2016年11月21日月曜日

すべからく

写真は富士宮安養寺の鐘楼。

古文や漢文で使用する副詞に「須く(すべからく)」という語がある。
三年生の教科書では、「俊頼髄脳」という作品の中に、「すべからくは、知らざれば許しつかはすべきなり。」の例あり。

文法的説明をすると、サ変動詞の終止形「す」+推量(当然)の助動詞「べし」の未然形「べから」+接尾語「く」となる。

このようにこのように接尾語「く」をつけて名詞化する語法を「ク語法」という。
本来は「すべきであること」という名詞句になるが、副詞的に用いられて「当然」とか「ぜひとも」の意味になったのだそうだ。
したがって、意味は「するのが当然」、これをもう少し分かりやすくするならば、「当然すべきこととして」となるだろう。

ただし、最近は「すべからく」を「すべて」の意味で使用する例が増えていて、(この意味ではあきらかに誤用であるのだが)これも「すべて」の意味で定着してしまうような気がする。











2016年11月20日日曜日

五百羅漢

御殿場でもあちらこちらの紅葉が目立つようになってきた。
今年は例年と比べると、よく紅葉しているようである。

写真は以前富士宮で撮った石仏である。
石仏というよりも、石で作られた仏の弟子、あるいは石で作られた僧とでも言った方が良いのかも知れぬ。
昨年、川越の喜多院というお寺で同様の写真を撮ってきたのであるが、ここの石像は「五百羅漢」と言っていたような気がする。
おそらく、この富士宮の石像も「五百羅漢」なのであろう。
(五百にはとても足りないが。)

「五百羅漢」の「羅漢」とは阿羅漢の略。
煩悩を殺す意の梵語で完全に悟りを開いた、小乗仏教の修行者だという。

やはり完全に悟りを開くと、顔にもそれが表れるようだ。
裏表のない実に素直な表情をしている。




2016年11月19日土曜日

二年生への講習

先日自爆した車のフロント部分である。

写真で分かるように、ダメージを受けた面積はそれほど広くはないような気がする。
しかしながら、この状態だと、ダメージを受けた部分だけの修復はままならず、フロントのパネル全体の交換となるのだそうだ。
酷い話だぜ。

まあ、このブログに敢えて写真を出すことによって、自分への戒めとすることにしよう。

本日の土曜講習は、二年生の講師のピンチヒッターも兼ねていたので、三時間のロングバージョンとなった。
二年生とは今までまったく授業の接点がなかった。
したがって、初めてのスリルを味わうこととなったのだが、これはこれで緊張感があり、なかなか面白い。
ただ、二年生を二時間講習した後に、三年生のいつもの顔を見てホットしたのは何であろうか。


2016年11月18日金曜日

小指の骨折

N西は球技大会であった。
主に、三年生のサッカーとバスケットボールを見ていたのだが、サッカーなどは皆上手いよなあ。
昔に比べ技術が確実に向上している。
やはり、小さい頃からサッカー教室なんぞで鍛えているし、世界のサッカーの試合を多く見ているからなんだろうね。

そう言えば、自分も高校三年生の球技大会でサッカーをやっていた。
クラスが決勝まで進み、ゴール前の混戦からワタシの出した足にボールが当たり、それがそのままゴールとなり、クラスは優勝した。

ワタシは思いもよらぬヒーローになったのだが、家に帰ると足の小指の痛さが半端でない。
翌日、病院に行って診てもらうと、小指の骨が見事に折れていたのである。
どうもゴール前の混戦の時に、誰かの足がワタシの足に強い衝撃を与えたようだ。

うーん、なんか痛い思い出だけが残っているなあ。

2016年11月17日木曜日

人は何故生きているのでしょう?

この間、図書館から借りてきた本の中に、白川密成(みつせい)著「空海さんに聞いてみよう」というのがあった。
著者である白川密成は四国の栄福時の住職だという。

まあ、言ってみれば、弘法大師空海の言葉によって人生を紐解こうといった体裁の本である。

例えば、
「人はなぜ生きているのでしょう?」
の問に対して
「ご飯を食べているからです。」
の答えが用意されている。
うーん、なかなかやるな。
無論、これは空海の言葉そのものだ。

夫れ人は懸こに非ずといふは孔丘の格言なり。
皆食に依ってつて住すといふは釈尊の所談なり。
然れば則ち其の道を弘めんと欲(おも)はば必ず須く其の人に飯すべし。

(人たる者はぶらさがっているにが瓜ではないとは孔子の格言であり、人はみな食によって生きる者であるとは釈尊の説くところである。したがって、その道をひろめようと思うならば、必ずその人々に飲食を与えねばならぬ。)

答えは明快であった。
「人はなぜ生きるのか?」
「ご飯を食べているから。」
物理的な根拠をあげて、聞く人を納得させている。
さすが空海だね。




2016年11月16日水曜日

「参ったなあ」

廊下で生徒から質問があった。

「いやー、参ったなあ。」という時の「参った」は、何故「参る」を使うのですか?

古文に出てくる「参る」は、「行く」の謙譲語で「参上する」という意味が多く、生徒の質問した「降参する」の意味はない。

因みに「参る」を古語辞典で引くと

①参上する。
②出仕申し上げる
③入内申し上げる
④参詣する。
⑤(何かを)して差し上げる。
⑥差し上げる(与える)
⑦「食ふ」「飲む」などの尊敬語。

とあり、これで見る限り、生徒がいうところの「降参する」の意味はない。

つまり、古語を使用していた時代は「降参する」の意味はないので、「降参」の意味が登場したのは、現代語、つまり口語の時代になってからのことと考えられる。

さて、「参る」について古語ではなく、口語(現代語)の辞書には次のようにある。

A到着(帰着)点を尊い所と認めた場合の移動をいう言語。
B劣位(と認める状態)に立つこと。

うんうん、ここでやっと納得がいく言葉が出てきた。
古語の①から④を見ればわかるが、①から④は、口語の辞書のAにある「到着点を尊い(身分の高いところ)と認めた場合の移動」のことである。
そして、「到着点を尊いと認める」ことが、自分を「劣位」に立たせることなのだ。
自分を劣位に立たせること=(相手に対して)参ってしまう(降参しまう)ことなのである。





2016年11月15日火曜日

ショック

ショックである。
車をぶつけてしまった。
こんなことは今までなかった。
ショッピングセンターの駐車場から道路へ出ようと、車を動かした途端にゴツン。
駐車場の外灯にぶつかってしまった。
有り体に言うと、目の前の外灯が見えなかった、つまり意識に入ってこなかったのである。
こんなことは「ありえねえ」ことなのだ。

これは経済的に痛いのであるが、もっと痛いのは精神的なダメージである。
目の前のものが見えなかったのだ。
これが老化というものだろうか。

せめてもの救いは人身事故ではなかったこと。
もしこれが人身事故だったら、こうと思うとゾッとする。
しかし、こんなイージーミスをしてしまうとは。
このショックからは当分立ち直れそうがありません。

2016年11月14日月曜日

狗張子(いぬはりこ)

今夜はスーパームーン(見かけの大きさ・明るさが約1.3倍の月)だという。
残念ながら静岡県地方は雨天ゆえ、せっかくのチャンスをものにすることはできなかった。

三年生の授業ではセンターテストに向けての問題演習が始まった。
今日は平成二十年の古文の問題であった。
近世の仮名草子から浅井了意の「狗張子」。

播磨の国から摂津まで旅をしてきた福島角左衛門は、喉の渇きをいやそうと、一軒の家に立ち寄る。
貧しそうな家の中から出てきたのは上品で優美な女性、彼はこの女性に一目惚れして思わず言い寄ってしまう。
しかし、彼女はこれを強く拒否、行商に出た夫を十年間も待ち続けているという身の上を語る。
角左衛門は自分の不謹慎な行動を後悔、恥じて食べ物を置いて立ち去った。
さて、翌日女性の家に書状を忘れたことに気づき、取りにもどる途中、葬列に出会う。
なんとそれは女性が待ち続けていたはずの夫の葬儀であった。
そして、例の女性も実はすでに死んでおり、昨日の女性が幽霊だったことを知る。
すべてのことを理解した角左衛門は、感激のあまりその葬儀から後の法要までの処置をして、都に上って行く。

まあ、言ってみれば「怪奇譚」であるが、「雨月物語」で代表されるように江戸時代ってえのはこのような怪奇な話が人気があったようだ。



2016年11月13日日曜日

ペンタトニックスケール

天気は実に良かったのであるが、膝の痛みがまだ残っており、引きこもりを決め込み家で過ごした。

こういう時には音楽鑑賞に限る。
そこで、以前に購入したマッコイ・タイナーの「Remembering John」というアルバムを聴いてみたみた。
「John」とは、勿論「ジョン・コルトレーン」のことである。
このアルバムはマッコイ・タイナーに大きな影響を与えたコルトレーンに捧げたものだ。

マッコイ・タイナー、彼は1960年代にコルトレーンカルテットの一員として、世界中にその名を轟かせた。
当時、誰もしたことのないペンタトニックと4度和音を多様するプレイスタイルを築き上げたのである。

ペンタトニックスケールとは5音音階のこと。
(一般的なドレミのメジャースケールは1オクターブが7音で成り立っている。)
Cメジャースケールの場合はド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ。
これがCメジャーペンタトニックになると、ファとシが消え、ド・レ・ミ・ソ・ラとなる。
ようするにクセのある2音を除いて5音にしてしまうのだ。
5音にすることによって、大抵のコード進行にフィットしてメロディーもシンプルで美しくなるという。

ワタシは音楽の専門家ではないので、よくは分からないが、7音よりも5音のほうがジャズにおけるアドリブの自由度が増すということなのだろうか。

何れにしてもマッコイ・タイナーのピアノは、美しくて力強いのである。






2016年11月12日土曜日

タイブレーク

WBCの強化試合、日本対オランダというのを観てしまった。
「観てしまった」というのは、この試合、6:30から始まり、試合終了がなんと午後10:30分なのである。
試合時間4時間だぜえ。

最初は地上波の放送で観ていたのだが、時間内に収まらず、BSで続きを観た。
これがまたイライラする展開で、九回を終わって8対8なのである。
ここで諦めてテレビから離れたら良いのに、その後、今回初めてのタイブレークというやつまで観てしまった。
タイブレークとは、特別ルールであり、ノーアウト一二塁から始めるスタイルである。

結局、日本が9対8でさよなら勝ちをしたのであるが、おおー疲れたである。

2016年11月11日金曜日

肺炎の予防注射

肺炎の予防注射に行ってきた。

今、盛んにコマーシャルでやっている「肺炎は日本人の死因第三位、亡くなる方の95%は65歳以上です。」というやつである。


正確に言うと「高齢者肺炎球菌ワクチン定期接種」というらしい。
さらに正確にいうと「ニューモバックスNP(23価肺炎球菌爽膜ポリサッカライド)」だという。
この接種は、65歳から5年ごとに接種するのだと。
ただし、5年後に定期接種にするかどうかは、厚生労働省ではまだ決めていないのだそうだ。
今後の様子をみながら、定期にするか止めてしまうかを判断するのだと。
これはテイノイイ人体実験かもしれないな。

何でも良いが、これでワタシも立派な「高齢者」となったわけである。

高齢者かあ。

このワクチン結構高額であり、今回も御殿場市の補助があるものの、4200円が自己負担である。
個人の負担が4200円ということは、このワクチン一体幾らなんだろうね。
負担金は、各市町村によって異なるが、多いところで5200円、少ないところで2000円ということである。




2016年11月10日木曜日

安養寺石仏

富士宮の杉田というところに「安養寺」というお寺がある。
先日BSプレミアムで放送している「心の旅」を見ていると、この「安養寺」がでてきた。
山門前に石仏があり、映し出された石仏が実に魅力的であった。
これはカメラを持って行かねばと、ワタシは十里木街道をひと越えして、出掛けたのである。

「安養寺」は現在は曹洞宗のお寺であるようだが、784年開創、開創時の宗派はよく分からないが、その後1231年に臨済宗、そして1528年に曹洞宗となったそうである。

だいぶ複雑な歴史があるようだ。
石仏の方も複雑な来歴同様、「おおー、これは素晴らしい。」と思うのもあれば、「なんじゃこれは。」というのもある。

チョイト悩んでしまう「安養寺」であった。



2016年11月9日水曜日

アメリカ大統領選挙

アメリカの大統領選挙で共和党のトランプが当選した。
各テレビ局のニュースの見出しが、「世界に衝撃」とか「まさかの番狂わせに」とか、「これは異例である」感満載の見出しであった。
「トランプショックで相場大荒れ、円高株安で我々の生活への影響は」とも。
それほどこの結果は、日本にとってもインパクトのあるものだったのである
どうも日本政府も、クリントンで間違いないと思っていたらしく、政府のあわてぶりも漏れ聞こえてくる。

アメリカ国民自体も、コレは意外な結果だったようである。
トランプ勝利、裏を返せば、現在アメリカが如何に病んでいるかということなのだろう。
クリントン大統領では今までの生活を変えることはできない。
多くの国民が、先の見えない閉塞状況からの脱出を望んでいた。
その結果が今回のトランプ当選のような気がする。

2016年11月8日火曜日

漱石の妻、鴎外の妻。

昨日週刊誌を見ていると、夏目漱石の妻、森鴎外の妻という記事があった。
高校において、二年生の現代文で漱石の「こころ」、三年生では鴎外の「舞姫」を教材として扱い、その生い立ちについては流石によく理解はしていない。

漱石の妻、中根鏡子は漱石とは見合い結婚をした。
漱石が見合いの席で口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑う、裏表のない鏡子に好感をもったのだそうだ。
ただ、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、たびたび寝坊をしていたという。
後の漱石の精神的な病を考えると、このくらい大らかであったほうがよかったのだろう。

一方、鴎外の初婚は赤松登志子という女性であったが、長男の於兎(おと)出産後に離婚する。この離婚の原因については諸説あるようだが、鴎外が登志子の器量が好きになれなかったというのもある。彼女は面食い鴎外の好みには合わなかったというのだ。
その後、鴎外は41歳で23歳の荒木茂子と再婚。
こちらは、美人で芝居好きだったそうだが、悪妻としても有名だったという。

漱石にしろ鴎外にしろ、いろいろタイヘンだったようだね。








2016年11月7日月曜日

ポリティカル・コネクトレス

ポリティカル・コネクトレス(政治的正しさ)。
今日の夜のニュースに出てきた言葉である。

明日はいよいよアメリカの大統領選挙の投票であるが、その選挙の中で、共和党候補者トランプの支持者が民主党を批判するために使われていたのが、ポリティカル・コネクトレスという言葉だ。

政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐの表現である。
この言葉、ポリティカル(政治的)の部分がミソなのである。

人種の坩堝といわれるアメリカでは、差別や偏見にかなり気を遣って発言しなければならない。
アメリカのベースであった白人層にとっては、頭で分かっていても、これはかなりストレスが溜まることなのだ。
政治的、つまり表面的には正面切って批判できない公正とか公平というあり方が、今の白人層を圧迫(有色人種や移民などに仕事を奪われている)している。
そして、その不満の受け皿がトランプ候補者なのだという。

我々日本人から見て、かなりヘンテコなトランプ候補者が、あのような人気を保っているのは、そういうことなんだよね。








2016年11月6日日曜日

薊(あざみ)

写真は御殿場「時之栖」の裏山で見つけた薊(あざみ)である。
このような時に、このような所に咲くとは知らなかった。
辞書には、山野に生じる多年草。
キク科の植物で、葉のふちにとげがある。春・秋に、紅(紫)色の花を開くとある。

NHKの夜の番組で、福島の原発を廃炉にするための費用について、その調査報告がなされていた。
廃炉費用は、な、なんと13.3兆円だという。
責任を負うべき東電の総資産が10.8兆円ということだから、これは東電に責任はとれない。
当初、事故があった場合にその負担はすべて東電が負うことになっていた。
その東電が責任をとれないのである。
では責任はどうなるのか。

国は当然東電の肩代わりとして、国民の負担を考えるということになる。
仕組みは簡単だ。
我々の電気料金を値上げすれば良い。

原発とはトンデモナイ代物。
それでも懲りない国は、まだ他の原発を稼働しようとしている。


2016年11月5日土曜日

胸突き八丁

模試の監督で学校まで出掛ける。
三年生にとっては「胸突き八丁」であろう。

さて、受験生諸君、「胸突き八丁」の意味は分かったかな?
かつて富士登山で頂上まで八丁(約八七三メートル)のところという意味で、険しい道の称。
頂上間近の急傾斜のこと。
広義では、物事の成就する手前の一番苦しい時を指す。

今日も朝から夕方四時まで模試、さらに明日も今日の続きがある。
大学生になるためには皆一度は通る道とは言え、タイヘンだよね。
ワタシが高校生の頃は、模試というもの自体がほとんどなかった。
それはそれでタイヘンだったのですがね。

2016年11月4日金曜日

ひいひい言いながら階段を降りる。

靱帯損傷なのだろう。

以前にもこの感覚はあった。
運動をしていて、急激なターンであるとか、ジャンプした折の着地で強い負荷が与えられると、靱帯を痛めてしまうことがあるそうだ。
面倒くさいのは、完全に痛めてないこと。
いわば中途半端に痛めてしまったことである。

前回痛めた時には整形外科の病院に行き、CTスキャンまで撮った。
結局「無理に動かさないことが第一」ということで、病院に通ってストレッチをすること、さらに変な水を購入してそれを飲むことと、妙な指示をされ、「この病院は怪しい」と、通院を中止、以後なんとはなしに治癒してしまった経験がある。

この損傷、靱帯が切れるなど、身体を動かすことができないのなら、入院・手術をして完治をめざすのだろう。
しかしながら、今の状況は、立てと言われれば立てるし、歩けと 言われれば歩ける。
ただ、足に力を入れて立つのが痛いし、階段を降りる時など悲鳴をあげて降りねばならないのだ。

もうこうなったら、気持ちだけでも負けないようにしよう。
と、何だか訳の分からない精神論をかますワタシであった。

2016年11月3日木曜日

何もないところにこそ意味がある。


「何もない伊藤若の魅力」という記事が新聞に載っていた。
f:id:h-idayu:20160124084457j:plain江戸時代(1700年代)に京都の町中(まちなか)に特異な才能が出現した。鳥や魚、虫や植物を博物学的な精密さで写しとりつつ、現代のグラフィックデザインを先取りするような目の覚める色彩と奇抜な配置で鮮やかに描き出した絵師伊藤若である。(途中略)ときに、若というこの不思議な号は中国の古典「老子」の一節に由来するという。「大盈(えい)は沖(むな)しきが如し、其の用は窮まらず。」意味は「「大きく満ちているものは何もないように見えるが、その働きは無限である。(再び略)。彼の絵には空疎な抜けがある。しかし、その間には、世界を支える働きがある。つまり、若沖の絵とその名が暗示することは、何もないところにこそ意味あるという真実なのだ。ワタシも、この「何もないところにこそ意味がある」には、大いに感動した。思えば写真を写す際にも、「何もない」部分は重要な部分となる。極言すれば、空間を活かすか否かによって、その写真の善し悪しは決まってしまうように思えるのですがね。

 


2016年11月2日水曜日

左膝のダメージ

左膝のダメージがいつまでも残っていて、快復の兆しが見えない。
このダメージは前任校のN東時代に負ったものだが、致命的な状態にならない代わりに、完全な治癒もままならないのである。
実に厄介なダメージだ。

今回の痛みの原因は、かなりハッキリしている。
前回、前々回と水曜テニスでかなり張り切ってしまったからである。
「身から出たサビ」というか「年寄りの冷や水」というか、何れにしても、膝に許容範囲以上の負担をかけたからである。
情けないこっちゃ。

ところで、年寄りの冷や水の意味はというと「老人が年齢にふさわしくない危険なまねや、出過ぎた振る舞いをすること」。
年寄りが、強がって冷たい水を浴びたり飲んだりして、無理をする言動をいう。
さらに、こうとも言える。
年寄りが、自分の年齢も考えずに無茶をすることは健康によくないことから、それを自虐的に言ったり、周りががたしなめたりするときに使うとも。

2016年11月1日火曜日

ひざ枕

どの番組であるか、しかと覚えてはいないのであるが、「ひざ枕」という言葉はおかしいと言っていた。
確かに「ひざ枕」は、「ひざ」を枕にするのではなく、「腿(もも)」を枕にする行為である。
「ひざ」とは足の関節部分であり、「膝小僧」とか「膝が笑う」といった言葉は、足の関節部分のことを言うである。
「ひざ」を枕にすると、これは少々痛いのではなかろうか。

とは言ってみたものの、少々「ひざ」が気になり、辞書で引いてみた。
①ももとすねが続く関節の部分の前面。
②(すわった時の)ももの上側。

辞書では「関節」以外にも「ももの上側」の記述があったのだ。
なるほどね。
そう言えば、「ひざを抱える」なんてえ言葉もあるよな。
「ももの上側」でも良いのだ。

さて、話は「ひざ枕」に戻るが、「ひざ枕」とは、二人(男女でなくても良いが、できれば男女)のうちの片方が正座に近い体勢で膝を折り、もう片方がその膝に頭をのせて、身体を横ににする体勢をいう。
膝を枕代わりにする例は、古くは「万葉集」の歌にも見られるそうだ。
この体勢を取ると、必然的に二人は接触することとなり、無防備なた体勢?となるため、お互いに心を許している愛情表現とみなされることが多い、ということである。

うーん、納得、納得。