2017年10月31日火曜日

「ずんぶり浸る展」雑感②

テーマが同じ四回目の展覧会ともなると、展覧会自体にどうしてもマンネリ感が出てしまう。
それは我々が意識してもしなくても出てしまうのであろう。
そこで考えた。
まず、中日(なかび)の二十一日に「フレッシュ・コンサート」と銘打って、この春N西を卒業して音楽大学に進したOGに演奏をお願いした。

効果は抜群、多くの観客の方が見え、会場に何かひとつピリッと締まった感じが生まれた。
演奏してくれたOGに感謝である。

我々自身もマンネリ化打破に、いくつかの努力はしてみた。
書のSさんは、かつて自身の個展で使用した大作を切り取り、その切り取った部分を利用した一発勝負の作品を作成した。
またロウケツ染めの技法を使った作品も展示した。

一方ワタシは、学校という教育現場をベースにしている展覧会としては、ぎりぎりのエロティシズムを出してみた。
さらに、これは一体何が言いたいのか、そんな「考え落ち」ともいうべき写真も作ってみた。
まあ、努力としては微々たるものであろうが、来年への展望もこれによって出てきたような気がする。




2017年10月30日月曜日

「ずんぶり浸る展」雑感①

「ずんぶり浸る展」雑感①

最後の二週は雨に祟られてしまった。
雨というよりも台風に祟られてしまったような気もする。
20日・21日の21号、そして28日・29日の22号、台風は土曜日、日曜日になるとやって来て「ずんぶり浸る展」の邪魔をしていったのである。
14日の土曜日も雨降っいたことを考えると、これはもう天の嫌がらせとしか思えない。
何か我々は悪いことでもしたのだろうか。
身に覚えはないのですが。

ただ、悪天候にもかかわらず、会場にいらしてくれた皆さんには感謝、感謝である。
まだ観客数の正確な数字は出ていないが、悪天候のことを考えると、かなり健闘したような気もする。

2017年10月29日日曜日

「眉」そして「ずんぶり浸る展」の終了



「眉」

まぶたの上部か、ほぼ眼窩上縁に弓形に密集してはえる毛。ヒト以外の動物では見られず、汗が目にしたたるのを防ぐといわれる。
毛は短く、あまり長くならない。

写真は、前述した「あまり長くならない」を完全に否定した石仏(富士宮のお寺)である。
五百羅漢のひとつだと思われるが、「眉」が顔の部分を通り越して胸のあたりまで伸びている。
ここまで伸びるとこれはもう呆れるしかないね。

書はやや薄い墨で書かれている。
下に「目」があり、上にはまさに「眉」そのものラインが見える。

さて、今日の「眉」で螺旋階段ギャラリーの作品もすべて終了した。
何はともあれ(ワタシは何はともあれが好きなのです。)第四回の「ずんぶり浸る展」も無事終了した。
今回の総括は、また後日ということで。
本日は何はともあれ、疲れたのです。




2017年10月28日土曜日

「腕」

「腕」

「腕」とは
①人や猿の肩から手首までの部分。(腕が長い)
②物事をする能力。(腕の見せ所)
③腕の力。(腕にものを言わせる)
④道具などで、横に突き出た部分。(腕木⑤動物の前足や、タコ・ヒトデなどの物をつかむ働きをする器官。

古くは肩から肘までを「かいな」、肩から肘までを「二の腕」ともいう。

写真はN西で、毎年六月に実施するクラス写真の撮影である。
それぞれのクラスでそれぞれのポーズをとる。
写真は業者が来て撮るのであるが、それを横から盗み撮りしたものである。

書の方、「腕」という字の「月」偏が、「指」の「手」偏と異なり、上下左右の力強さを感じる。
やはり、指よりも腕の方が太いものね。


2017年10月27日金曜日

「指」

「指」

ウィキペディアによると、「指(ゆび)」とは、人間の身体の一部で、手や足の末端部にある突出部、中に関節のある骨格を含む。さらに、相同な構造は四肢動物全般に見られ、四肢の形成の初期から存在する物である。
と、こう書かれている。
フーン、ちょいと理屈っぽいな。

「指」に関してのワタシの最大の疑問は、「指」には「手へん」が付いているのだが、「足」の「指」にも「手へん」が付いているのは何故だろうということである。
(英語などのゲルマン語や中国語では、手の「ゆび」と足の「指」を区別しているそうだ。)
日本語では大和言葉としての「ゆび」が手足両方を指しており、昔から特に区別はしていないようなのだ。
うーん、分からん。

さて「指」の写真は、筝曲部が御用邸でおこなった野外演奏から。
指と指の間に筝の弦を挟んだポーズは、何となく魅力的である。

書は「手へん」の下の横線が特徴的である。
素人のワタシには、とてもマネできませんな。


2017年10月26日木曜日

「掌」

「掌(たなごころ)」

語源由来辞典によると、「たなごころ」の「た」は「手」の交替形(音韻交替によって生じた語形)で「手」を「た」と読む言葉には「手向け(たむけ)」とか「手折る(たおる)」などがある。
一方、「な」は「の」に当たる準体助詞で、「たな」は「手の」を意味し、「たなごころ」は「手のこころ」を意味する。

さらに、「掌」の字は「尚」と「手」をくっつけた字であり、「平らに広げた手のひら」を表した会意・形声文字なのだそうだ。

まあ、要するに「掌」とは「手のひら」のことであり、「手のひら」は「手のこころ」なのである。
そりゃあ、「手の甲」と比べると、「手のひら」の方が「こころ」は有りそうだよね。

さて、写真は体育祭でのカットである。
後ろで手を組んでいるのだが、このポーズ自分でやってみると、意外に厳しいポーズである。
完全な手のひらというわけではないが、オレンジ色との対比が面白かったのでこの写真とした。

書は、会意・形声のとおり「平らに広げた手のひら」のイメージである。
さすがに書道の先生だね。


2017年10月25日水曜日

「項」

「項(うなじ)」

「うな」とは、首や首の後ろの部分を指す言葉である。
「うなづく」や「うなだれる」もこの「うな」に由来するという。
「じ」は「尻(しり)」で「後ろ」を意味する。
したがって「うな=首」、「じ=後ろ」ということなのであろう。
これあくまでも推測でしかないが。
一方漢字の「項」は、「頁」が「頭」、「工」が「まっすぐ貫く」の意味で、「頭と背の間をまっすぐ貫いた首」を表すのだと。

写真は何年か前のN西の卒業式に撮った写真である。
卒業生を送り出す担任は、着物をきて髪を所謂「アップ」にする。
そして「アップ」にした時に現れるのが「項」である。

書は、(これは勝手な想像で本来の意味とは異なるが)左にある「工」が「顔」、そして右にある「頁」が「髪」のように見える。

見えてしまえばこっちのものなのです。



2017年10月24日火曜日

「頬」

「頬」

身体の一部をテーマとするこの企画であるが、「頬(ほお」となると「人間の顔」の一部分となるので、写真での表現がなかなか難しい。
「頬」だけ撮った写真なんていうのは、極めてツマラナイのだ。
一晩悩んだ結果、「おおー、そう言えば以前、富士宮のお寺で撮った石仏に、頬に特徴のあるやつがあったぞ。」ということを思い出した。
「これじゃ、これじゃ」と壁に貼ってみると、書との組み合わせもなかなか良かったのである。

書はやや薄い墨で表現している。
顔のパーツで比較的地味なのが「頬」だ。
目、鼻、口などと違って、決して前に出たがらない。
如何にも控えめなのである。
これが「頬」なんですな。

2017年10月23日月曜日

「髪」

我らが記念館には屋上まで続く螺旋階段があり、その螺旋に沿って打ちっぱなしの壁がある。
「ここを使わない手はないよね。」
我々はこの壁に目をつけ、そこを第二のギャラリーとした。

初回の「ずんぶり浸る展」ではさすがに間に合わなかったが、二回めには風とか花などの「自然」をテーマに、三回目は喜怒哀楽などの「感情」をテーマにした。
テーマの条件は、漢字一字で表せるもの、そして何らかの関連性があるものである。

今回は、そのテーマを「人間の身体の一部」とした。

本日の作品は「髪」。
書は髪の「しなやかさ」を表現している。
ある意味自由自在だ。
美しくもあり、恐ろしくもあるのが人間の髪の毛である。

一方写真は「つややかさ」でいってみた。
「つややか」とは「艶やか」と書く。
「艶」とは、物体が光を受けた時に目に映じる、表面の滑らかさの印象だと言う。
さあ、この写真で「艶やかさ」は伝わっただろうか。

2017年10月22日日曜日

「うたふもののよろこびは力いっぱいに自分の眞實をうたふことである」


「うたふもののよろこびは力いっぱいに自分の眞實をうたふことである」

山頭火52歳、遠く信州に眠る江戸後期の俳人・井上井月(せいげつ)の墓参の為に東に向かう。井月は元長岡藩士。武士を捨てた放浪俳人で乞食井月と呼ばれた。しかし、信州に入ったところで肺炎となり緊急入院。墓参は果たせなかった。この秋、日記に「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記す。1935年(53歳)、第三句集を刊行。

このフレーズは句ではない。
書道教師のSさんによる山頭火の文章からの「切り取り」である。
おそらく彼は、「力いっぱいの自分の真実」を表現したかったのであろう。
今回のメインの作品であるのと同時に、彼の魅力である「力強さ」を十二分に発揮した作品でもある。

さて、写真はその「力強さ」に同調すべく、N西体育祭の一場面切り取ってみた。
本当はA3サイズの作品なので、このブログにも大きく載せたいのであるが、個人の顔が表現されているゆえ、このへんが限界である。
右の二つの写真は一年生、高校に入学してから二か月、まだ初々しさが残る表情をしている。
また左のふたつは上級生となる。
上は肩を組んで応援歌を歌っている場面であり、下はクラス対抗リレーのバトンタッチの場面である。

今回で展示室作品の解説は最後となる。
次からは螺旋階段の作品の開設をしようと思う。

2017年10月21日土曜日

「月も水底に旅空がある」

「月も水底に旅空がある」

これも「草木塔」からの句である。
山頭火の心がフッと休まる瞬間の句なのであろう。
しかしながら、単語ひとつひとつには簡単にイメージが湧く(月や水底や旅空)のであるが、これをくっつけて全体でみると、うーん、なかなか難しいのである。

書の方は「ロマンチシズム」でとらえた。
文字を逆の「く」の字にして三日月を表現している。
線もデリケートそのものである。

写真もとらえ方の基本は同じだ。
太陽の光と異なり、月の光は「青」を感じさせる。
そして淡くて優しい光だ。
水底とは当然「湖」の底である。
以前、御殿場の東山湖で日中撮った写真を使ってみた。
勿論、陽の光では絵にならないのでパソコンをいじって全体を「青」に変えたものである。

本日はフレッシュコンサートあり。
N西の卒業生でK音大に在籍している大学生カルテットである。
ピアノのYさんシスターズ、クラリネットのOさん、ソプラノのNさん今日は雨の中ご苦労様でした。
御蔭で会場も大変盛り上がりました。

2017年10月20日金曜日

「この道しかない春の雪ふる」

「この道しかない春の雪ふる」

「草木塔」からの句である。
「草木塔」とは晩年に山頭火自身が自選した句集だ。
したがって、比較的世に知られている句が多い。
この句も「長門狭」という小見出しのあとに続く句であり、よく知られた句でもある。

・春寒のをなごやのをなご一銭持つて出てくれた
・さて、どちらへ行かう風がふく
◎この道しかない春の雪ふる

と続く。

書は力強さを「ウリ」にしている。
「この道しかない」と言い切った力強さだ。さらに春の雪を薄墨で表現、文字も二行に分け、さらに左右に角度を持たせ「道」感を出している。

写真は御殿場に降った雪である。
静岡県ではあまり見られない雪だ。
「春の雪」ということで、雪の下に見えている土により「春」感を出してみた。
また足跡を強調することで「この道しかない」を表現してみた。

2017年10月19日木曜日

「送電塔に風がある雲雀のうた」

「送電塔に風がある雲雀(ひばり)のうた」

山頭火昭和八年の作である。
データ検索をしてみても、この句については「総集編」としか出ていない。
きっとあまりメジャーな句ではないのであろう。
山頭火の、ほとんど知られていない句を俎上にのせてしまうのが、我々の「ずんぶり浸る展」なのだ。

書は雲雀が舞い上がっていく様子を、また額の上下も濃い青にして空を表現している。
筆のタッチは、あくまでも軽いタッチだ。

写真はワタシの好物「送電塔」をなるべく下からあおるようにして撮ってみた。
こうすることにより、青い空を撮ることが出来るからだ。画面の半分は白い雲であるが、この雲が入ったことにより、雲雀の舞い上がる青空がより強調されるのである。



2017年10月18日水曜日

「荒海へ脚投げ出して旅のあとさき」

「荒海へ脚投げ出して旅のあとさき」

写真は何年か前の離任式で撮ったものである。
この写真を今回展示するにあたり、生徒に見せたところ、「先生、エロい。」と言われてしまった。
確かに離任式に来ていた卒業生の脚(太腿)を撮ったものであり、「エロい」ことは否定しない。
ただ、ワタシの意図は離任式にミニのリクルートスーツで来ていた卒業生の「危うさ」を表現したかったのである。それが「荒海に脚投げ出して」なのだ。
高校生活という、ある程度世間からガードされた時代はもう終わって、君たちはこれから「荒海」に出て行くのだよ。

さて、書のほうは左下の薄墨に注目である。
ベースとなっている紙は、Sさんの個展が今年の二月に開催され、その時に使用した大きな作品の一部を切り取ったものなのである。
この部分というものが、今回の「荒波」に変化した。
「旅のあとさき」を表現するのには必要十分な舞台装置だ。
尚、この作品は左に目を移すと、ちょうど海が見える位置にあり、借景も生かされた作品でもある。

山頭火の句集「草木塔」、「柿の葉」の項に「日本海岸」とあり、さらに「昭和十年十二月六日、庵中独坐に堪へかねて旅立つ」とある。

2017年10月17日火曜日

激レアさんを連れてきた

深夜番組評論家?のワタシが最近注目している番組に、テレビ朝日の「激レアさんを連れてきた(毎週月曜日の夜十一時半頃から)」がある。
この番組は「超レア体験をした人」の体験談をとことん聞きまくる番組である。
テレビ朝日のアナウンサー弘中綾香と、漫才でおなじみオードリーの若林の掛け合いが秀逸であり、一度見ただけでハマってしまった。


昨日の激レアさんは、13歳から家出期間40年以上 1人で生き抜いた超野生児であった。「13歳で家を飛び出したらそのまま飛び出しっぱなしで43年間も行方不明だった人」のカズマさん。

家出して43年も野山で暮らしたカズマさん、家出のキッカケは「あんころ餅をつまみ食いしての説教だった。
学生服のまま家を飛び出し、足尾銅山へ向かった。そして、家族で迎えににやってきたのは愛犬だけであった。足尾銅山の近くには一人暮らしに最適な超優良洞窟があり、カズマさんはそこに住みついた。
寝床や簡易トイレ、焚火の水蒸気で洞窟には岩盤浴の効果もあったという。
食料が尽きたカズマさんは、カタツムリやヘビなど何でも食べていたが、タヌキだけは可愛すぎて食べることができなかったとも。





2017年10月16日月曜日

「水音しんじつおちつきました」

「水音しんじつおちつきました」

写真というのは空間を切り取る作業である、それに対し、書は空間を埋める作業だ。
この一見逆の作業をして生まれた作品がひとところに並ぶと、所謂「化学変化」を起こす。
「化学変化」というのは、英語だと「chemistry」というらしい。
そして「chemistry」には、「触発」だとか「相性」の意味もあるという。
つまるところ我々二人の作業は、この「化学変化」によるところが多いのである。

写真は体育館前の水道の蛇口、その蛇口から水玉が落ちる瞬間を撮ったものだ。
一方書の方は、水の落ちる軌跡を表現したようなタテナガの書である。

水玉は下のコンクリートに落ちたとたんに音を立てる。
聞こえるか聞こえないかの僅かな音だ。
我々は、その水玉の落ちるまでの軌跡と音を想像するのである。

句は「草木塔」の「其中一人」の中から。



2017年10月15日日曜日

「炎天の稗を抜く」

「炎天の稗を抜く」

だいたい「稗」なんてえものは、「ひえ・あわ」と、話に聞いたり本で読んだことはあっても、実感としてはまるで分からないものであった。
そこでワタシの最初にした作業は、「稗」が如何なるものかのネット検索である。
その後、何とか「稗」の姿を理解したが、「さて、ではこの植物はどこにあるのだろうか?」となった。
ずいぶん探したのだが簡単には見つけられず、ある時コスモスを撮りにいったついでに、コスモス畑を見渡してみた。
「おおー、ひょっとしたら稗?」
コスモス畑の片隅にそれらしきもの。
家に帰って、撮った写真とネットでの写真を見比べる。
百パーセントの自信はないが、たぶんこれであろうと思われるのが左の写真である。
現物はカラーだが敢えて白黒にしてみた。

書の方は、力強いタッチの筆である。
稲の傍では雑草となってしまう「稗」を意識的に力強く表現したそうだ。

「草木塔」昭和十年、山頭火53歳の作である。

「ずんぶり浸る展」も一週間が経過した。
本日の来場者。
N西の同僚であったTさん、いつもバックアップしてくれるSさん、F高時代の教え子Mちゃん、G南時代のS子さん、N東時代のSさん、毎年見にきてくれるN西の卒業生Tさん、Nさん、Noさん、中学の同級生Gさん、何だか今日はいっぱい見えたなあ。
みなさんご来場ありがとうございました。





2017年10月14日土曜日

「影もはつきりと若葉

「影もはつきりと若葉」

写真は御殿場二の岡神社境内にある大きな木だ。
神木というわけではなかろうが、威風堂々した大きな木である。(残念ながら木の種類は分からない)
木の幹から空に向かって目線を上げると、若葉がくっきりと見えた。
幹の皮を黒くつぶすようにして撮ったのだが、これが意外と「影」感が出た。
納得の一品である。

書の方は、大胆にも真ん中で紙が切断されている。
真ん中で切断することによって、若葉の「明」と影の「暗」を際立てたようである。

昭和九年の句だろうと考えられる。
「病みほほけて信濃より帰庵」の詞書あり。

〇閉めて一人の障子を虫が来てたたく
◎影もはつきりと若葉
〇ひよいと穴からとかげかよ


本日は書のSさんがお休みゆえ、午後から会場に到着したワタシのお客さんすべてであった。
F高時代の教え子、Tさん、Nさん、また富士で同窓会やりましょう。
テニス仲間であり、ワタシの人生の師匠、K先生、雨の中ありがとうございました。
二月の入院時にお世話になった看護師Sさん、今度はテニスでね。
N西の教え子Sさん、いつも来ていただいて恐縮です、遠路はるばるご苦労様でした。





2017年10月13日金曜日

「あれこれ咲いて桜も咲いている」

「あれこれ咲いて桜も咲いている」

書は「あれこれ」に力点を置いている。
普通、書というのは中心に集まるような形で表現するが、わざと字を散らして「あれこれ」感を出したそうだ。

写真は、小山町にある「富士霊園」である。
「富士霊園」と言えば、このあたり桜の名所でもある。
この写真を撮った時は、ちょうどお彼岸の時期で、お墓には色とりどりの花が供えられていた。
そして、お墓の向こうには桜。

この写真では分かりにくいが、最近の墓石は、なかなか凝ったものも多く、墓石には苗字の代わりに「絆」とか「橘」とか「桜」などと彫ってある。

墓石もあれこれ咲いているのである。

この句も「其中日記」昭和八年三月二十六日の項に表出されている句だ。

落し物をした、――拾ふことあれば落すことあり、善哉々々。
一人となつて、千鳥が鳴くのを聞いた、やつぱりさびしい。
ねむれないから本を読む、本を読むからねむれない、今夜は少々興奮したのだらう、とかくしてまた雨となつたらしい。
鼠が天井を走る、さても辛棒強い鼠かな、庵主に食べる物がなくなつても、鼠には食べる物があるのか、不思議だな。
敬君がヒヨを一羽拾うてきた、打たれてまだ間がないと見えて、傷づいた胸がぬくかつた。

△西田天香さんの息子、本間俊平さんの息子、共に不良ださうなが、考へさせる人生の事実だ。
 あれは九州といふ春の山また山
・うららかな、なんでもないみち
・林も春の雨と水音の二重奏
・かろいつかれのあしもとのすみれぐさ
 ママとよばれつつ蓬摘んでゐる
・藁塚ならんでゐる雑草の春
◎ あれこれ咲いて桜も咲いてゐる
・春はまだ寒い焚火のそばでヨーヨー
・みんなかへつてしまつて遠千鳥

2017年10月12日木曜日

「お山しんしんしずくする眞實不虚」

「お山しんしんしずくする眞實不虚(しんじつふこ)」

昭和十四年四月二十二日・鳳来寺山拝登の時の句だ。
「眞實不虚」とは「般若心経」の第十八章にある文言である。
単純に考えれば「真実に嘘はない」ということになる。
ただこれでは何を言いたいのかよくわからない。

「真実に嘘はない」のは「すべてが真実」であるからなのだろう。
「すべてが真実」であることを実感できないのは、これが真実これが嘘という「こだわり」を持っているからである。
したがって、自分の「こだわり」を捨て去れば、「真実も嘘」もなくなるのである。

さらに、「眞實不虚」は「能除一切苦」にかかるフレーズだとも言う。
「能除一切苦」は、すべての苦しみを取り除くことだろう。
そうに考えると、「こだわり」を捨て「真実も嘘」もなくなれば、すべての苦しみから解放されるのである。
山頭火はしんしんと静まりかえる山の中で、一体何を思ったのであろうか。

さて、書の方は右の平仮名を主にした部分と、左の漢字の部分に分けて書かれている。
真ん中の空間が何とも言えない味を出しているのである。
これが彼が常に口にしている「間」なのだろう。

一方、写真は石仏にしてみた。
御殿場の「とらや工房」の庭にあった石仏だ。
画面では二体で写っているが、実はこの石仏、ひとつの石に二面で彫られた珍しい石仏なのだ。
最初は左の石仏だけを展示しようと思ったのだが、「真実不虚」という言葉から、これは二面の方がフィットすると考えて、小さい額に入れて二体にしてみた。
背景の緑も鮮やかなのである。

2017年10月11日水曜日

惰性

今日は水曜テニスで疲れたゆえ、「ずんぶり浸る展」紹介はお休みである。
加えるに、先週の土曜日より、日曜日、月曜日と三日間、朝から晩まで会場にいたので、腰が痛いのです。

さて、夜のテレビ番組「笑ってこらえて」という番組で、スタッフがそこそこ高い山に登り、「あなたは何故山に登ってきたのですか?」と問う企画があった。
今晩は奈良県の金剛山(標高は千メートル以上)が舞台だったのだが、早朝山頂にいた老人グループの中に、連続3400回以上金剛山に登り続けている老人がいた。
スタッフが聞く。
「何故あなたはそんなに毎日金剛山に登って来るのですか?」
老人が答えた。
「まあ、惰性だな。」

素晴らしい答えだ。
ワタシのこのブログも、今年の脳神経外科に入院した時以外は、五年以上毎日書き続けているのだが、考えてみればこれも惰性のような気がする。

2017年10月10日火曜日

「横顔の美しいジャズ」

「横顔の美しいジャズ」(昭和五年作)

この句はワタシがどうしても入れたかった句である。
個人の写真ゆえブログ上で表現することは出来ないが、日本の古典的な美人とでも言うのだろうか、実に写真映えのする顔立ちである。
まさに「横顔の美しい」がピッタリなのだ。

さて、実はこの句、去年も提示したのであるが、書の方で拒否されてしまった。
おそらく、書には不向きなフレーズであるし、書担当のSさんが「大のジャズ嫌い」なのもその原因である。
無理は分かっていたのだが、ワタシは諦めきれず、今年も断られるのを承知で提示した。
するとどうだろう。
今年はオーケーがでたのである。
きっと、Sさんの頭の中にはひとつのプランがあったのであろう。

で、右の書となる。
黒く塗られた背景の中に白とピンク。
しかもジャズはアルファベットである。
彼の頭の中では、オシャレなジャズバーが浮かんだと言う。

この作品、我々の自信の一品となったのである。






2017年10月9日月曜日

「水底の太陽から釣りあげるひかり」

「水底の太陽から釣りあげるひかり」

書は蝋(ろう)の上を黒色で塗り、蝋の部分の色を弾くというロウケツ染めの手法だという。
蝋の白さが際立つ。

写真は御殿場にある人造湖「東山湖」(ブラックバスなどを釣る有料釣り堀のよう)での釣り人を、逆光で撮ってみた。クリックして拡大すると分かるが、中央やや上に、釣り竿を持った釣り人がいる。
まさに太陽の光を釣り上げているのである。

この句も前日同様「其中日記(八)」からである。
昭和十年八月十八日には、次のような記述がある。

八月十八日 新秋清明。

初めてつく/\ぼうしが鳴いた。
 青葉かげお地蔵さまと待つてゐる
 蟻の行列をかぞへたりして待つ身は暑い
 バスのほこりの風にふかれて昼顔の花
・炎天下の兵隊としてまつすぐな舗道
 行軍の兵隊さんでちよつとさかなつり
・釣りあげられて涼しくひかる
◎水底の太陽から釣りあげるひかり
・ゆふなぎおちついてまた釣れた


2017年10月8日日曜日

「山かげふつとはためくは鯉幟」

「ずんぶり浸る展」の二日目。
今日からボチボチ作品解説をして行きたいと思う。

「山かげふつとはためくは鯉幟」

書は「鯉幟」に、はためく鯉幟の勢いを持たせたいということである。
風が無ければデレンとだらしなくなってしまう鯉幟。
一方、風をはらめばその姿はまったくの別物となる。

写真はその風をはらんで、勢いよくはためいている姿だ。
全体を写すと面白みに欠ける。
ここは思い切って寄って撮ってみた。
それによりある程度の迫力は出たような気がする。


この句は「其中(ごちゅう)日記」昭和十年四月二十五日の作である。
日記には次のように記されている。


自己克服、いひかへれば過去一年間の、あまりに安易な、放恣な、無慚な身心を立て直さなければなりません、……アルコールでさへ制御し得なかつた私ではなかつたか。……
松蝉がしきりに鳴きだした、あの声は春があはたゞしく夏へいそぐうただ。
半日、椹野川堤で読書、一文なしでは湯田へ行けないから。――

・うぐひすうぐひす和尚さん掃いてござる
・なんとよい日の苗代をつくること
・山はしづかなてふてふがまひるのかげして
◎山かげふつとはためくは鯉幟
・岩に口づける水のうまさは
・若葉したゝる水音みつけた

2017年10月7日土曜日

「ずんぶり浸る展」のオープン

「ずんぶり浸る展」のオープンである。

午後2時よりN西高芸術科音楽教師による「オープニング・コンサート」。いつもながら観客を魅了するコンサートであった。
帰りがけに記念館の職員から本日の入館者は、97人であったことを告げられた。去年以上の入りである。

コンサートの開演に先立って、N西の校長や記念館からの挨拶、さらに我々二人のオープニングトークと続いたのだが、こちらも皆それぞれ好評であった。

何はともあれ、今日来ていただいた、N西関係者、元同僚、教え子の皆さまに感謝申し上げます。



2017年10月6日金曜日

オープニング前夜

明日はいよいよ展覧会「ずんぶり浸る展」のオープニングである。

毎年この時期になると(去年までは九月開催)落ち着かない日々が続くのであるが、今年は不思議にその感覚がない。
これが慣れというものか、あるいは怠惰なのか。

何れにしろ明日からはマチガイな展覧会は始まる。

2017年10月5日木曜日

からだいきいきプログラム

御殿場市から「からだいきいきプログラム(特定保健指導)のご案内」という文書が以前郵送されてきたのだが、「面倒くせえなあ」と無視していると、二回目の文書が送られてきて、指導をを受けるつもりはないかの質問、これも「受けるつもりはない」と返答したところ、次は電話で直接是非受けてくださいなとのこと、ここまで言われてはしょうがないわいと、結局本日市の保健センターまで行くはめになってしまったのだが、直接指導に当たった担当者の趣味が、テニスとスキーだという、思いがけず話が盛り上がってしまい、まんまと次の指導を約束させられるはめとなったのだが、うーんこれはあちらの作戦か?(今日は長い一文でまとめてみました。)




2017年10月4日水曜日

ラブライブ!サンシャイン‼

土曜日からの「ずんぶり浸る展」準備のために、芹沢光治良記念館まで出掛ける。

記念館に行って驚いたことひとつあり。
なんと記念館の入館者が、一日で百人を超えたことがあったのだそうだ。
その理由はアニメ「ラブライブ!サンシャイン‼」。

このアニメは沼津が主人公と関係の深い場所であり、アニメファンの聖地巡りとして、沼津が注目されたのだそうだ。
さらに、そのファンの沼津観光のひとつに、光治良記念館があり、ここを訪れたファンのインスタグラムから一気にネットで拡散したのだと。

そりゃあそうだ。
記念館の建物は、日本でもトップクラスの建築家の作品である。
訪れた人間はかなりのインパクトを受ける。
そもそもワタシだって、展覧会を始める切っ掛けは、この建物の素晴らしさなのだから。

2017年10月3日火曜日

賽銭の「賽」

お寺と神社をテーマにしたテレビ番組をみていると、「賽銭」のことについて言っている場面があった。

「賽銭」の「賽」とは、「お返し」の意味があるということであった。
へー、「賽銭」というのは「お返し銭」なんだ。
とまあ、こう思ったついでに漢和辞典を引いてみた。
漢和辞典にはこうある。
①神にお礼の祭りをする。
②競争する。
③まさる。
④終わる。

なるほど、「お礼の祭り」が「お返し」なんだね。

さて、この番組では「おみくじ」は引いた後どうすべきかについてもコメントしていた。番組によると、引いた後の「おみくじ」は、家に持ち帰るのがベストだと言うことである。

2017年10月2日月曜日

I Shot The Sheriff

ユーチューブを見ていると、エリック・クラプトンの直近のコンサートが表示されていた。
コンサートのタイトルは「Last Live Performance」である。
日付が2017年の9月18日となっているので、本当に直近だ。

エリック・クラプトンは、1945年の3月30日生まれなので、現在72歳だろうか。
72歳でロックコンサートとはスゴイにはスゴイが、さすがに往年のパワーは無くなっている。
ちょうど、演じていた曲にヒット曲の「IShot   The  S
heriff 」があり、10年前の同曲の演奏を比べてみると、その差は明らかとなってしまうのだ。
うーん、残念。

しかしながらクラプトン、72歳ですぜ。






2017年10月1日日曜日

宙を舞う稲藁

日中、写真を撮ろうとウロウロしていたところ、藁を束ねた「稲藁干し」の風景にであった。
まあ、この風景は御殿場ではそれほど珍しくはないのだが、写真をよく見て欲しい。

写真部分をクリックして大きくすると、左の上空に稲藁が舞っているのが分かる。
しかも二つも舞っている。

これも写真で分かると思うが、幾つかある束ねた藁は、そこそこの大きさがある。その束ねた稲藁が宙を舞っているのだ。
風は、ほぼ無風状態であった。
不思議だ。
しいて言えば、竜巻の小さいものが稲藁を巻き上げたということが考えられる。

距離がそこそこあったので、確認はできなかったが、何とも妙な光景であった。