2012年3月31日土曜日

ミルフィーユ

離任にあたって、大勢の方からお心遣いを頂きました。皆さんほんとうにありがとうございます。
さて、その頂いたものの中に「ミルフィーユ」というお菓子があった。「ミルフィーユ」には色々なタイプがあるようだが、私が頂いたのは、パイを何層にも重ねて、それをチョコレートでコーティングしてある「ベルン」の「ミルフィーユ」である。それを食べている時に「ミルフィーユ」というのは何故「ミルフィーユ」と言うのだろうということが気になり、早速検索してみた。フランス語の本来の発音だと「ミルフィーユ」ではなく「ミルフイユ」であるそうだ。「ミル」とは、「千」。「フイユ」は「葉」の意味があるそうだ。従って「ミルフイユ」で「千枚の葉」となる。参考までに日本語の発音の「ミルフィーユ」のフランス語の意味は、「千人の女」らしい。まあそれでもいいか。

2012年3月30日金曜日

ありがとうございました。

今日は一言です。沼東で、私にかかわってくれたすべての人、ほんとうにありがとうございました。

2012年3月29日木曜日

いよいよ離任式

いよいよ離任式である。何を話すか大体イメージはできているのだが、こんなふうに準備する時に限って思うようにできないことが多い気がする。むしろ出たとこ勝負で話をすると、意外と自分の意図した通りに進むようだ。何れにしてもなるようになるのだろう。現在「怒り新党」という朝日テレビのトーク番組を見ている。これが結構面白くて、いつも最後まで見てしまうことになる。デラックスまつこと有吉なんとかの組み合わせが良いのだろう。お互いに言いたいことを言っているだけなのに。さあ、今日はもう寝るとするか。

2012年3月28日水曜日

ドルフィーのこと

エリック・ドルフィーと言う、ちょっと玄人うけするアルトサックス吹き(サックス以外にも、フルートとかバスクラリネットも吹く。)がいる。私の好きなジャズプレイヤーの一人であるのだが、このドルフィーの残した言葉はいつまでも私の心に沁みている。
When you hear music, after it is gone in the air.You can never capture it again. 「音(音楽)というものは、それを聴き終えると空中に消えてしまう、そして二度と捕まえることはできない。」
 これはアルバム「ラストデイト」(このアルバムは文字通りドルフィー最後の演奏であり、この演奏の後まもなくドルフィーは亡くなっている。)の中で、ドルフィーが実際にしゃべっている言葉であるのだが、実に含蓄のある言葉だ。生の演奏は一度きりであり、二度同じ演奏を聴くことはできない。人間の生き方もこれと同様、今生きている時間というものは二度と取り戻すことはできないだろう。だからこそ、人間はその一瞬一瞬を大事に生きるのだ。(何だか学校の先生みたいなことを言うね。)

2012年3月27日火曜日

犬に好かれたこと。

沼津N高の帰り、「さよならコンサートを。」ということで招待され、ジャズ仲間の先生の家まで行ってきた。その先生の家には犬(ポメラニアン)がいて、その犬に妙に懐かれてしまった。最初はキャンキャン吠えていたのであるが、近づいていって頭を撫でてやると、すぐじゃれついてきて、そしてその家から去るまでくっついていたのである。どうも私は犬(ポメラニアンは小型犬だが、大型犬も同じく)に好かれる体質を持っているようだ。(オレの前世は犬か?)これは今に始まったことではなく、昔からその傾向があって、友人何人かで犬を飼っている家に遊びに行くと、必ず犬に好かれるのは私であった。(オレの家族は犬か?)さらに考えてみると、人間も同様に、コイツはちょっと危ないな(凶暴だな。)と思う人間に限って、すぐ私のそばにやってくる。そして、なんだかわからないうちに仲良くなっているということがよくあった。(オレは乱暴者の係か?)どうしてじゃー。何故じゃあー。分かったら誰か教えてくらはい。

2012年3月26日月曜日

巡り合わせ

 四月からの勤め先となる沼津N高に行ってきた。N東とは違って、学校の敷地が非常にコンパクトである。広々とした敷地で生活できるN東の生徒は幸せだぞよ。さてさて、私と同じく他校から赴任してくる教員四人と顔を合わせたのだが、なんとそのうちの一人は御殿場M高の元同僚であり、二人は教え子であった。これが巡り合わせというものなのだろう。

2012年3月25日日曜日

還暦じゃ。

本日で六十歳、還暦である。還暦とは文字通り「暦(こよみ)が還(かえ)ること。」。干支がもどることである。私は辰年なので、生まれた年を入れて六回目の辰年である。還暦には本人に赤いものを贈るそうだ。(残念ながら、私は誰からも何も贈られなかった。)その意味は、「赤ん坊にもどる。」と「魔よけ。」ということらしい。確かに、六十歳を過ぎると頭は惚けて赤ん坊に近づいて行くようだし、身体はだんだん弱ってきて、魔物のような病気に襲われるのだろう。

2012年3月24日土曜日

最終講義

理数科の勉強合宿を終了した。昨夜の古典、「古今著聞集」の講義、これが現役として最後の授業であった。授業の終わりにチョークをおいて、「じゃあな。」と言って別れる予定であったが、大体が、黒板とチョークなどはなく、白板にマジックのような筆記用具を使って、つるつると滑りながら書くしかなかった。(イメージが狂ってしまったね。)これはもう台無しだと落胆しかけたところ、最後の最後にサプライズが待っていたのである。いつどこで用意してくれたのだろうか?花束が用意されていて、花束をもらってしまったのだ。危ない危ない、思わず目から熱いものが出そうになり、私はぐっと我慢したのである。息子たち、娘たち、ほんとうにありがとう。

2012年3月23日金曜日

人間力の偏差値

昨日、昨年度の卒業生で現在関西の大学に行っているKさんが訪ねて来てくれた。Kさんと私とはまったく接点のない教師と生徒であったのだが、香陵祭の有志による演劇を見て、どうしても彼女と話がしたくなり、担任に頼んで呼んでもらい、話をしたのだった。予想通りKさんは実にユニークな個性を持っており、以来何回か職員室や国研で話をした。前にも述べたが、N東の生徒の素晴らしいところは、利害関係のない(学年とか部活で何の関係もない、何の接点もない)、教師と生徒であっても、真剣にかつ楽しく話ができるところである。それだけ、人間力の偏差値が高いのであろう。言うまでもなく、Kさんとは今回もまた、楽しい話をしたのである。

2012年3月22日木曜日

2012.12.21

現在見ているテレビ番組によると、古代マヤ族の予言として、「2012年12月21日に人類は滅亡する。」というのがあるそうだ。確かに今の世の中は、おかしなことばかりで、そう言われると妙に納得してしまう。「まあ、それはそれでいいか。」と個人的には思うのだが、若い諸君はそれではすまされまい。「冗談じゃあない。」である。さて、では自分自身やり残したことは何だろうかと考えてみる。すると、これがどうも思い浮かばない。歳をとるということは、こういうことなのだろうか。

2012年3月21日水曜日

恋すてふ

理数科の勉強合宿が始まった。21日と23日は泊まりである。その合宿で講義をする無住の「沙石集」、これが結構面白い。百人一首の中にも出てくる、「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか」壬生忠見(みぶのただみ)と「つつめども(しのぶれど)色にでにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」平兼盛の和歌が、歌合せにおいて比較されることになるのだが、判定をする判者が勝ちを決められず、結局、帝に決定が委ねられる。(帝もいい迷惑だ。)しかし帝とて、簡単には決めきれず、両方の歌をそれぞれ口ずさんだところ、判者が、帝が数多くくちずさんだ和歌のほうを勝ちとしてしまう。これで、兼盛の「しのぶれど・・・」の勝ちが決定。ショックを受けた忠見は病気になって死んでしまうというストーリーだ。帝が良い和歌のほうを多く口ずさんだとは限るまいに。世の中も得てしてこんなものかも知れない。

2012年3月20日火曜日

グルーヴィー

今日はちょいとジャズのことを書いてみることにしよう。レッド・ガーランド(ピアニスト)・トリオのアルバムに「グルーヴィー(かっこいい・素敵な)」というのがある。1956年の演奏だから、今から50年以上昔のアルバムだが、これはジャズを聴く人にとっては、基本中の基本ともいうべきアルバムである。何故なら、トリオのベーシストがポール・チェンバース(おそらくこの時代でもっとも演奏が録音されているベーシスト)であり、録音がルビー・ヴァン・ゲルダー(録音の神様)であり、ジャケットデザインが(ブルーノート傑作ジャケットを数多く手がけている)リード・マイルスであるからだ。モダンジャズにおいては、その演奏(のり)の善し悪しは勿論なのであるが、それプラス録音、ジャケットデザインも評価につながる(と自分は勝手に考えている)。「自分にジャズはどうもなじまない」と言う人は、演奏・録音・ジャケットデザインのそれぞれを感じてみると良いだろう。もしかしたら、ジャズが好きになるかもしれないよ。

2012年3月19日月曜日

ジャッキー・エヴァンコ

ジャッキー・エヴァンコという、オペラやミュージカルの曲を歌う米国の美少女歌手を、今日ユーチューブで観た。美少女というよりも十一歳なので、かわいらしい少女といったところか。同じようにオペラの曲を歌うサラ・ブライトマン(英国の女性歌手)と、歌う曲、歌うスタイルがだいぶ重なっている。例えば、「オール・アイマスク・オブ・ユー」(ミュージカル『オペラ座の怪人』)とか「誰も寝てはならぬ」(歌劇『トゥーランドット』のアリア)などなど。サラ・ブライトマンは、もういい歳なのだが、それと同じようなレベルで歌うジャッキー・エヴァンコには、ほんとうに驚愕してしまう。しかも、この少女可愛いのだ。おまけに妙に色っぽい。(いやいや、別に私はロリコンではないぞ。)私同様、この少女のことをまだご存じない方は、是非検索してみて下さいな。

2012年3月18日日曜日

柿の種のこと

「柿の種」という、乾きもの(酒のつまみ)がある。ただし、「柿の種」といっても実際には「柿の種」は「柿の種+ピーナツ」のいわゆる「柿ピー」を指すことが多いような気がする。実際亀田製菓の「柿の種」という商品は「柿の種+ピーナツ」である。この「柿ピー」だが、「柿の種=種型をしたせんべい」と「ピーナツ」をミックスしたものである。(「柿ピー」の会社で一番メジャーなのが亀田製菓らしいよ。)その亀田製菓の「柿ピー」の説明がなかなかおもしろい。元々、別々の「つまみ」として販売していたそうだが、それを一緒にしてみると、これが爆発的に売れたそうだ。また、「柿の種」と「ピーナツ」の比率であるが、最初7対3(ピーナツが3)にしたところ、「もっとピーナツを増やせ。」との声。会社側はそこで、5対5にしてみた。すると、今度は「ピーナツが多すぎる。」の声。(お客なんていうのは本当に勝手だ。)そこで次に、6体4(ピーナツ4)にすると、一番評判が良かったということである。現在はこの6体4の黄金比率を守っているようだ。やれやれ、所詮人間の好みなんてアテにならないかも知れないね。

2012年3月17日土曜日

国語科送別会

御殿場の「たから亭」において、国語科の送別会をして頂きました。あのような会は予想もしていませんでした。感激です。K先生の凄技には今更ながら恐れ入ってしまいます。どうもありがとうございました。会でも述べましたが、N東の教員としての生活は、何一つストレスがなく、実に平和な時間を過ごすことができました。これも一重に、良い同僚、良い生徒に恵まれたからではないかと思います。「終わり良ければ、すべて良し。」というように、終わりが良かった私は、きっと幸せなのでしょう。

2012年3月16日金曜日

ラケットを握ったこと。

久しぶりにテニスのラケットを握った。およそ二年ぶり。初めはボールがどこへ飛んでいくのかわからない状態だったが、ストロークをしているウチにだいぶ勘がもどってきたようだ。しかしながら、寄る年波にはなかなか勝てず、ラケットとボールとの距離感がいくらか狂ってきている。また、少々走るだけで、ゼイゼイしてしまうのだった。ジジイはやだね。女子テニス部のみなさん、遊んでくれてありがとう。
 テニスが終わってから、沼津「九十九里」において管理課の送別会があった。管理課のみなさんお心遣い感謝いたします。最高のメンバーで二年間過ごさせていただきました。課長としては、ほとんど何もできませんでしたが、皆さんの力で何とか全うすることができました。どうもありがとうございました。

2012年3月15日木曜日

今日も、おー疲れた。

本日も、おー疲れたである。四時間の会議に二時間の作業。オー疲れた。還暦間近の身体には本当にこたえるのであった。還暦と言えば私の誕生日は三月二十五日なので、あと一週間、正確に言えば八日遅く生まれていれば、今の二年生と一緒に卒業できたなと、今更思うのである。残念だ。兎にも角にも今日は疲れたので、もう寝ることとしよう。

2012年3月14日水曜日

おー疲れた。

今日は1時半から8時半まで会議。さすがに疲れました。
さらに花粉がだいぶ飛び回っているようで、くしゃみと咳がひどい。参った参った。誰か励ましてくださいな。

2012年3月13日火曜日

ベーグルが好きだ。

ベーグルというパンがある。小麦粉をひも状にして輪を作り、それを発酵させ、さらに茹でて、最後に焼いたもの。外側がぱりっとしていて、中はもちもち、クリームチーズを塗りたっくて食べると抜群に美味い。私はさらにスモークチキンとゆで卵のスライス、おまけにレタスを挟んで食べるのが大好きであった。「あった」というのは、何年か前まで、ドトールコーヒーの看板メニューとして存在していたのだが、いつの間にか消え失せてしまったのだ。このメニューが消えた時、私はショックで、しばし泣き濡れていたものだ。このベーグルを販売しているパン屋は近所にほとんどなくて、「食べたい、食べたい、ベーグル食べたい。」と毎日駄々をこねていたのだが、最近、小山町のスーパーの中のパン屋が、毎週土曜日に「ベーグルの日」なるものを設定して、土曜日になるとベーグルを焼いているのを発見した。勿論、私は土曜日になると小山町のスーパーに走るのであった。

2012年3月12日月曜日

佐藤義清のこと

NHKの大河ドラマ「平清盛」を観た。その中の登場人物に北面の武士、佐藤義清(さとうのりきよ)と言う人物がいる。高貴な女性との恋愛トラブルから二十三歳で出家してしまうのだが、(これが後の西行法師である。)この人物が実にかっこいい。もちろんドラマでは、脚色してあるが、古典のいろいろな作品の中に出てくる西行も実にかっこいいのだ。京都の神護寺で荒くれ坊主をこらしめたり、鎌倉で源頼朝おちょくったりしている。極めつけは「願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という和歌だ。この歌を詠んだあと、実際に西行は桜の木の下で二月の満月の日に亡くなっているそうだ。自分の願う日に、自殺という方法でなく死ぬなんて、なんとかっこいいことではないか。

2012年3月11日日曜日

にぎり寿司は直接手で食べようぜ。

昨日、寿司懐石の話をしたのだが、懐石のメイン「にぎり寿司」がでてきた折に、まわりの先生に「寿司は箸でなく直接直接手でたべようぜ。」と勧めた。理由はいくつかあるのだが、例えばトロなどを食べるとき、箸を使うと具を下にして食べることができないからだ。志賀直哉の「小僧の神様」という小説に寿司を食べる場面があって、そこで「寿司の食べ方」が説明されている。それによると「寿司というのは舌で魚を味わう」のだそうだ。そのためには、具である魚のほうを下にして食べなければならない。これが通人の食べ方なのだ。また巻物なども手で直接持って、海苔の感触を確かめながら、食べるのがベストであろう。

2012年3月10日土曜日

懐石料理

今日は二年部の先生達と「打ち上げ」ということで、「寿司懐石」を食べた。海の見える素敵なお店であり、料理も大変美味しいものであった。「懐石」というのは文字通り「懐」(ふところ)の「石」(いし)である。「禅宗の僧が空腹を満たすために、懐に暖めた石を入れていた。」ということから「ちょっとした食事」のことを言うのだそうだ。よく「懐石料理」というが、正確に言うならば、懐石が料理の意味を持っているので、「懐石料理」と言うと「頭痛が痛い」と同様、同じことを二度言うことになってしまう。また「会席料理」と書く「かいせきりょうり」もあるが、「懐石」がお茶を楽しむ料理であるのに対し、「会席」は酒を楽しむ時の料理ということである。

2012年3月8日木曜日

ピアノは打楽器だ。

むかしむかし、クラリネットを吹いていたことがある。と言っても中学の3年間だけであるのだが。
その時、非常に不思議に思ったことが、「クラリネットは何故、木管楽器なのだろう。」ということである。「これは木で出来てはいないだろう、どうみてもこれはプラスティックだ。強いていえば口をあてるところにリードなるものがあり、辛うじて木の雰囲気はあるが、正確にいうならばこれだって竹である。(竹というのはどうも木のような気がしない。)」。さらに「となりの仲間が吹いているサキソフォンだってそうだ、あれはどう見てもキラキラ光っていて、まさに金管楽器である。なんであれが木管楽器なんだろう。」ざっとこんな案配である。そう言えばピアノも今でこそ鍵盤楽器という言い方をするが、かつて私が音楽の時間に教えられたのは「ピアノは打楽器である。」であった。楽器というものは得てしてこんなものなのかも知れぬ。

「なので」は間違っているか?

最近の比較的若い人(十代から三十代くらいまで)が、よく使っていて気になる言葉に、「なので」という言葉がある。例えば「今日は雨降りだ。なので傘を持って行こう。」といった使い方をする。文法的に言えば、「なので」の「な」は断定の助動詞「だ」の連体形、「ので」は理由・原因を表す接続助詞である。従って文頭に「なので」が来ることは明らかにおかしい。
 しかしながら、私は小言ジジイのように、「今の若者の言葉遣いは、なっておらん。」などという気は、これっぽちもない。これは言葉というものが「揺れ」(言葉の意味が共存している状態)を経て、さらに支持の多い方に移って行く現象があるだ。言葉は生きている。変化はつきものであるし、言葉の目的は、相手とのコミュニケーションにほかならない。だから、相手に自分の伝えたいことが伝われば、それで目的は達成されたことになる。こう考えると「なので」が、「そのため」のような意味で使われ、言う方も言われる方も理解しておれば、それで十分なのである。誤用の「負けず嫌い」を「負けないことを嫌う」という意味で受け取る人はほとんどいないだろう。これが言葉である。

2012年3月7日水曜日

弥生(やよい)

三月の古名を弥生(やよい)という。「弥」(いや)は、ますますと言う意味。「いやさか」の「いや」である。「生」(おい)は、生い茂るの「おい」である。「いやおい」が「やよい」となったのだ。草木が生い茂ってくる季節、これが「弥生」なのである。因みに四月は卯月(うづき)。「卯の花」の咲く月なので「卯月」、また別の説に「卯月」の「う」は「初」(うい)、「初陣」の「うい」である。つまり四月というのは一年の循環のはじまる月、「初月」(ういづき)が「うづき」となったという説もある。
 この月が誕生月である私は、昔から三月が特別な月であったのだが、今年はさらに特別な月になりそうだ。

2012年3月6日火曜日

色即是空②

「色即是空」というのは、つまり「道理」であるようだ。同じものを見たり聞いたりしても、人によって感じ方が異なる。虫の音を聞いた時に、それを心地よい音と聞くか、うるさい雑音と聞くか、それは人によって、感じ方が異なるだろう。音楽を聴く、絵を観る、こんな時にもそれぞれ感じ方が異なってくる。これが「色即是空」らしい。人は各々の欲望によってこの世の見え方が異なってくるのである。

2012年3月5日月曜日

色即是空

この間、図書館から「マンガ般若心経入門」という本を借りてきた。マンガと名乗るだけあって、解りやすいことを一番の目的に置いているようだ。まだ読み始めたばかりなので、ちょっとだけ紹介してみる。般若心経の中の有名なフレーズで「色即是空」というフレーズがあるが、この本では次のように説明している。「色」というのは精神以外のすべての外界のもの、「即」はすなわち、「是」はこれ、そして「空」とは、姿や形、実体のないこと。つまり、「我々がいつも見ている外界のものというのは、実体がないものである。」くらいの意味だろうか。とても解りやすい説明だと思う。要するに我々が意識することによって、外界のものは存在するのだ。意識というのは情報、例えば「美人」は「どのような人が美人か」の情報によって存在する。したがって、その情報が異なれば、「美人」のあり方も異なってくる。日本の美人とアフリカのどこかの国の美人は異なるということである。

2012年3月4日日曜日

目玉焼き礼賛

遥か昔学生時代に、定食屋で「目玉焼き定食」という、ご飯にみそ汁、おかずは目玉焼きのみという定食を食べた記憶があるが、これはお金がないゆえの仕方のない選択だったような気もする。腹が減って、やっとかき集めたお金で食べたのが、「目玉焼き定食」なのだ。しかしながら、その美味さ、それはもう天にも昇る心地だった。
 考えてみると「目玉焼き」という料理ほど、簡単だが奥の深い料理はないように思う。形にしろ、色にしろ、これしかないというものである。三角とか四角の目玉焼きが想像できるだろうか。ピンクとか紫の目玉焼きが想像できるだろうか。あの黄みの丸い形、あの鮮やかな黄色だから良いのである。また焼き方ひとつとってもいろいろである。、黄みをやわらかくする焼き方、かたくする焼き方。さらに、目玉焼きに何をかけて食べるのか。ソースに醤油にマヨネーズ、塩胡椒というシンプルな方法もある。味を重ねるなら、ソースとマヨネーズあるいは醤油とマヨネーズ。(私はこれが結構気に入っている。)実に奥が深いのである。
 うん、明日の朝は「サニーサイドアップ」にしよう。

2012年3月3日土曜日

酣(たけなわ)

試験問題シリーズ(2)、読みの問題「酣(たけなわ)」であるが、「宴たけなわではありますが」の決まり文句に使用されるそれである。「酉」が「酒つぼ」を表し、「甘」が「うまい」を表している。意味は①酒を飲んで愉快になるさま、②真っ盛りであるさま。その他にも副詞として「思う存分に、愉快に、はなはだ」の意味もある。「酣睡(かんすい)」という熟語があって、思う存分に睡眠をとるという意味だ。
 H高の生徒も学年末テスト終了の今、「酣睡」をしているのではなかろうか。

2012年3月2日金曜日

女子力について

最近よく聞く言葉に「女子力」という言葉がある。「男子力」という言葉は、聞いたことがないので、これは女子特有のものなのだろう。「女子力アップ」というように使用される。正確には私も理解していないのだが、料理が上手になったり、おしゃれをしたりすることなのだろうか?これは以前の言い方をすれば、「女らしさを身につける」ことになると思うのだが、インターネットで検索してみると、女性のメイク・ファッションセンスなどのモチベーションなのだそうだ。
 何故このような言葉が出てきたのか私なりに分析してみると、今時の男性は、料理を器用に作ったり、おしゃれに気をつかったりするようになってきた。女性はその警戒感から「これではいかん、女性のアイディンティティがなくなってしまう」と考えたのではないだろうか。ずいぶん乱暴な意見だが。

2012年3月1日木曜日

就中(なかんづく)

「就中」という語の読みを試験にだしたのだが、その意味は「中に就く」こと、「直前に述べた事柄について、顕著なものを一つ例示する」ことである。それでは、「中」とは何か?「就く」とは何か?と考えてみる。「中」とは「ものの内側」である。それが「直前に述べたこと」か?また「就く」とは「ある方向に進む」ことである。それが「例示する」ことか?何だか難解である。結論を言えば「就中」という漢語に「とりわけ」の意味があるということだけなのだが。
 物事というのは、あまり追求して行くとかえって意味不明になってしまうようだ。人間もそれと同様に、あまり追求すると、何だかわけがわからなくなってしまうようである。