2014年10月31日金曜日

ハロウィン

世の中はハロウィンだという。
N西の国語研究室にも、お菓子をねだって何人もの生徒がやってきた。
夜のニュースを見ていると、東京の渋谷ではかつてない程の大騒ぎだとか。
へえへえ、そうですか。
である。

ハロウィンというのは、もともとイギリスやアイルランドなどの行事であり、ケルト人の一年の終わりが十月の三十一日であることによる。
そしてハロウィンにおいて、コスプレが行なわれるが、その理由は次のようだ。

ケルト人の風習では、この夜は死者の霊が家族を訪ねてくると信じられており、同時に出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面をかぶったのが起源らしい。



2014年10月30日木曜日

ベニスの商人

N西は芸術鑑賞会ということで、沼津市民文化センターにおいて演劇を観る。
演目は演劇においては、定番中の定番「ベニスの商人」であった。

シェイクスピアの原作をベースにはしているが、今日の劇団は、高校生にも楽しめるようにだいぶアレンジを加えていた。
まわりの生徒に聞いてみると、概ね好評であり、劇団の意図したところは成功したと言えるだろう。





2014年10月29日水曜日

ロケット打ち上げの失敗

久しぶりのテニスであった。
やはり、天気の良い日に野外で運動することは、気分が晴れる。

アメリカの民間会社が打ち上げたロケットが、発射直後に爆発、打ち上げが失敗したというニュースがあった。
人間は搭乗しておらず、地上での被害もなかったというので、それは不幸中の幸いなのであろうが、その損害は莫大なものとなろう。

そのニュースに関連して、ミニ衛星を作っている日本のベンチャー企業の紹介がなされていた。衛星を製作し、そこからのデータを、必要とする会社に有料で提供するということだ。
勿論、衛星はどこかのロケット(民間)に搭載させてもらうのだろうが、そのロケット選びもかなり慎重にだという。
それはそうだろう。
失敗すれば、何千万、何億の損害になってしまうのだから。

これはひとつのギャンブルかもしれないね。




2014年10月28日火曜日

「甘さ」の問題

最近、「甘さ」についての言葉で、疑問を感じることがいくつかある。
ひとつは、「このケーキ、甘さひかえめで美味しいね。」という言葉。
果たして「甘さひかえめ」はイコール「美味しい」ことなのだろうか。
糖分に関して云うと、健康面から控えることは、確かに良いことなのかも知れぬ。
しかし、それが「美味しい」かどうかは、別問題である。
「しっかり甘い」から「美味しい」ものだってあるだろうに。

さて、もうひとつは「この野菜、甘くて美味しい。」という言葉だ。
昨日もテレビを観ていると、「このニンジンは甘くて美味しいね。」などと云っていた。
これも変だ。
野菜の場合は、ケーキなどとは異なり、「甘いから美味しい」ということになる。

「甘さ」というものを、一方では「甘くないから美味しい」と云い、一方では「甘いから美味しい」と云う。
「甘さ」ってえのは、妙な言葉だね。



2014年10月27日月曜日

移り香

三年の古典では、源氏物語から「柏木と女三宮」を講義している。
何度講義してもこの部分、なかなかである。

「わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いと香ばしくて、らうたげにうち鳴くもなつかしく思ひよそらへるるぞ、すきずきしきや。」
(柏木は)やるせない心の慰めに、猫を招き寄せてかき抱いたところ、(女三宮の移り香で)とてもよい香りがして、かわいい声で鳴くにつけても心引かれ、自然と(女三宮に)思いなぞらえられるのは、好色がましいことであるよ。

光源氏の正妻である女三宮(正妻といっても源氏とは二十五歳も年が離れている)が、柏木(源氏の親友、頭中将の息子)から覗かれる場面である。
柏木は、源氏と女三宮の仲が疎遠であるあるのを知り、思いを募らせている。そのような時に女三宮を見るチャンスがあり、しかも彼女が抱いていた猫を自分が抱くことができたのである。
ここでのポイントは何と言っても「移り香」だ。
当時の高級貴族の女性であれば、当然、品のある「香(こう)」を自分の着物に焚きこめてあるだろう。
柏木は、「匂い」によって「女三宮」を感じることができる。

まさに「すきずきしきや」なのである。

2014年10月26日日曜日

紅葉

写真は二年前に撮った京都嵐山、「二尊院」の紅葉である。
さてさて、今年の紅葉はどんなものやら。

紅葉の進化的要因というのは、葉の老化に伴う非適応的な副作用であると、説明されており、長らく研究対象となってこなかったそうである。しかしながら、、1999年に北半球の262の紅葉植物と、それに寄生するアブラムシ類の関係が調べられ、紅葉の色が鮮やかであればあるほど、アブラムシの寄生が少ないことが発見されたのだそうだ。

そうか、紅葉というのはダテニ紅くなっていたわけではなかったんだね。



2014年10月25日土曜日

冬の布団の中

「枕草子」の歴史学、続きである。

そもそも、この本は「春はあけぼの」で始まり、「夏は夜」「秋は夕暮れ」と、それぞれ季節の見所を端的に記しているが、冬の描写だけがやや異なっている。
それは何故か?
を研究したものである。

結論から言うと、春の風景、夏の風景、秋の風景、それぞれが、恋する人と楽しんで見ている。
秋などは、これからの逢瀬を待つ楽しみのひと時が表現されている。
そして冬。
冬の寒さのなか、二人で布団に埋もれ逢瀬を楽しんでいるとすれば、自然の景色よりも、外で始まったあわただしい人々の動きを想像するの方が、よほど楽しいにちがいがない。

といったところか。

2014年10月24日金曜日

足でピアノ

夜BS放送のテレビを観ていると、桜木健一と吉沢京子の二人が旅番組に出ていた。

旅番組は熊野三山、(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を巡る旅であった。

知っている人は知っているだろうが、この二人桜木健一、吉沢京子といえば「柔道一直線」である。
番組のコンセプトも、おそらく「柔道一直線」の懐かしいカップルの二人旅なのだろう。
何故ここで「柔道一直線」なのかは、よく分からなかったが、もう二人とも60歳を超えたイイ歳である。
きっと、このような旅番組を観ているのは、私のような、すでにリタイヤした人間であり、若い時に観たテレビ番組のヒーロー・ヒロインが「おおー、旅をしているぞ。」といった感覚を持つことを想定したのであろう。

私の場合「柔道一直線」と言えば、、近藤正臣の「足でピアノ」ですがね。




2014年10月23日木曜日

「枕草子」の歴史学

「『枕草子』の歴史学」五味文彦という本を読み始めた。
その冒頭の記述。

兼好は身体を軸にしてものを考えたが、それに対して清少納言は、風景を軸にしてものを考えていたのではないか。

兼好の「身体を軸」とは何だろう。
「つれづれなるままに日暮らし硯にむかひて、心にうつりゆく・・・・・」これか?
これのことだろうか?
確かに「あやしうこそものぐるほしけれ。」と最後にあり、「たいへん気ちがいじみた気持ちになる。」と、人間の心(身体)を表現している。

さて、清少納言の「風景を軸」というのは、「春はあけぼの」の冒頭の表現からも推測できるのであるが、作者は言う。
清少納言の生きた時代に日本の風景観や自然観が育まれたのだと。

さらに、この本には、三つの骨組みがあり、
①どうして、「枕草子」が「春は曙」で始まるのか。
②清少納言にとって、宮仕えはいかなるものであったか。
③清少納言は仕える宮ににいかに尽くしたのか。
となる。

さてさて、まだ読み始めたばかりであるが、なかなか面白そうだぞ。

2014年10月22日水曜日

明日はドラフト会議

水曜テニスが雨降りのため、三週連続の中止となってしまった。
残念。

人間は自分性格と、よく似たペットを飼う傾向があるらしい。
それは、自分自身を擁護しているのだと。
(ほんまでっかTVより)

やはり、自分にとってもっとも可愛いのは、自分自身ということか。

明日はプロ野球のドラフト会議。
今年の大学生の中で、ちょいと異色な選手が注目をあびている。
京都大学のピッチャー田中英祐選手である。
球速が150キロ近いというから大したものだ。
また、本人がプロに行こうかどうか迷っていたときに、彼の父親がかけた言葉がふるっている。
「一度地獄を見て来い。」
(NHKニュースウオッチ9より)

すごい父親だ。




2014年10月21日火曜日

オリーブオイル

「マツコの知らない世界」というテレビ番組で「美味しい油の世界」なんてえやつをやっていた。

番組は「オリーブオイル専門家」みたいな女性が出てきて、しきりにオリーブオイルが如何に素晴らしいかを喧伝する態で進行した。
女性本人が大好きな「オイル」なので、その力の入れようは半端ではないのだが、クライマックスは、マツコ自身がオリーブオイルをテェイスティングさせられる場面。

以前、私もレストランで、フランスパンにオリーブオイルをつけて食べたことがあるが、確かに油自体に味があり、美味いのである。

しかしながら、パンにつけて美味いオリーブオイルというのは値段も高く、今回紹介された中でベスト1に選ばれたのは500ミリリットルで9000円に近い値段であった。

これは、ちょっとしたワインですな。

2014年10月20日月曜日

日帰り温泉「紅富士の湯」

先週土曜日の代休で、本日は休み。
久しぶりに山中湖村の日帰り温泉「紅富士の湯」まで出掛ける。

「紅富士の湯」と裾野にある日帰り温泉「ヘルシー・パーク(美人の湯」の大きな違いは、「ジジイ率」である。

裾野が「ジジイ率」90パーセント以上の老人温泉」であるのに対して、「紅富士の湯」は、その「ジジイ率」が50パーセント程度なのだ。
こちらには若者の姿もちらほら見られる。
また、駐車場には山梨県意外のナンバーの車が結構多いのも特徴である。
きっと、山中湖という有名観光地に立地していることが、その原因でもあるのだろう。

なにはともあれ、「紅富士の湯」は、浴槽も大きく露天風呂も気分の良い、私のお気に入りの日帰り温泉なのである。

写真はちょっと前に、職場からもらってきた「唐辛子」。
なかなか形が面白いのである。

2014年10月19日日曜日

モンゴル人ツアー

久しぶりの晴れた休日。
御殿場、平和公園まで出かける。
まだ、コスモスが咲いていないかと、多少の期待をもって出かけた。
しかしながら、平和公園のコスモスは見事に消えていた。
コスモスという花は、どこもかしこも一斉に刈られてしまう運命なのだろうか。

さて、久しぶりの平和公園であったのだが、一時姿を消していた中国人の団体が、再び姿を見せていた。
その中に、ちょいと目を引く集団があり。
皆、同じような服装をしている一団である。
家でその服装をネットで検索してみると、どうやらモンゴル人の服装のようであった。

おおー、とうとうモンゴル人のツアーまでが御殿場を訪れるようになったか。


2014年10月18日土曜日

言語と思考

「思考」とは、他の動物からは区別される人間独自の能力であるそうだ。

三年生の放課後補習において、信原幸弘「言語による思考の臨界」を講義。
その中で、筆者は言う。
言語を用いた意識的思考に対して、「言語と思考は同じだ」というとらえ方と、「両者は別だ」というとらえ方の二つがある。

後者、「言語と思考は別だ」という主張は、人間共通で生得的な脳の言語がまず存在し、それを日常の言語に翻訳して語るというとらえ方である。

確かに、無意識的な思考を認めると、「言語と思考は別だ」という主張も成り立つ。
しかし、意識的な思考においては、「思考と言語は同じだ」と考えざるをえない。

「考えることは語ること」という見方にはかなりの抵抗があるだろう。
つまり、言語が物理的な音声であり、物事を表す働きをもたないものだととらえると、「言語と思考は同じだ」という考えに違和感が生まれるからである。

しかしながら、言語や思考は他の言語や思考、知覚や行為、さらには世界とも繋がっており、一定の事態を表し得るのである。

うーん、どうだろう。
最後のキレがイマイチだが。

2014年10月17日金曜日

ヤンジー

「ヤンジー」という言葉を聞いた。
50~60代男性向けのライフスタイル誌「MADURO(マデュロ)」のキャッチコピーとして出てきた言葉だという。

つまり、「やんちゃなジジイ」で「ヤンジー」。
バブルを経験し、仕事も遊びも全力でこなしてきた「やんちゃなジジイ」たちを「ヤンジー」と呼ぶのだと。

モットーは、「金は残すな、自分で使え」である。
還暦を過ぎ、人生のゴールがぼんやり見え始める年代、その年代に「ワクワクするお金と時間の使い方」を提案するのだと。

うーん、ちょいと商業ベースだな。
どうせなら「やんちゃ」などでなく、「ヤンキー」。
「不良ジジイ」のほうが潔くて、イインデハナイカイ。



2014年10月16日木曜日

コスモス撮り

今日の授業は11時過ぎから、ということで、朝に余裕。
そこで、本年度最後のコスモスを撮ろうと思い、裾野のヘルシー・パークまで出かける。
家から15分程度、コスモス畑が見える・・・はずだった。

だったというのは、あるはずのコスモスがすべて消えうせていたのである。
畑はトラクターか何かで耕されており。コスモスのコの字もない。
畑の肥料にでもなってしまったのですかね。
さみしい限りである。
もう少し咲かせていても良かったのでは。
まあ、ぶつぶつ云ってもしょうがないが。

というわけで、本年の「コスモス撮り」は終了である。
また来年頑張ることにしよう。

2014年10月15日水曜日

家の注意書き

夜、テレビ番組「ほんまでっかTV」を観ていると、「家の注意書きの張り紙は、子供の心を痛めている。」という心理学者のコメントがあった。

張り紙のマイナス効果なのだろうか。
張り紙の多い家庭ほど、子供が心を病んでしまうのだそうだ。
経験上、口うるさい親が与えるマイナスイメージと同様なのだろうか。

この番組では、「ニュートンは万有引力発見の時、ボーッとしていた。」のコメントもあり。
人間は、ボーッとしている時に、良いアイデアが浮かぶらしい。

私なんぞは、しょっちゅうボーッとしているのですがね。

2014年10月14日火曜日

サッカー 日本対ブラジル

現在、サッカーの日本対ブラジル戦を見ているのだが、9時の時点で0対2で負けている。
失点は、何れもパスミスからの失点である。
同じミスの繰り返しというのは、どうもいただけない。
勝負事は、ミスをした方が負け。
どの勝負事もそうである。
力に差があればあるほど、それは顕著となる。
ミスを如何に少なくするか、それを実行するのが練習だ。

とは云え、ブラジルはやっぱり強いなあ。
ネイマールは凄いなあ。
おお、また1点入ったぞ。

2014年10月13日月曜日

「三四郎」

夏目漱石の「三四郎」である。

九月まで掲載された新聞小説「こころ」の次は「三四郎」だった。
「こころ」においての拭いきれない違和感、つまり、「私」にしろ「先生」にしろ、どこにも就職せずに毎日を生活している。
一体収入はどこから?
親の残してくれた遺産だけで、食っていけるのか?
を感じていただけに、「三四郎」場合は、かなり現実的で、その違和感がなく、安心して読むことができている。

本日は漱石が「現代日本の開化」で同様のことを言っている「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三百年の活動を四十年で繰り返している。」である。
三四郎が田舎から大都市東京に出てきた時の心象だ。
「自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わる事は出来ない。自分の世界と、現実の世界は一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。」

西洋が三百年かかって経験してきたことを、日本は四十年で経験しようとしている。
この異常を漱石自体が感じ、それを三四郎という田舎から出てきた学生の口から言わせているのだ。

うーん、やっぱり漱石は凄いね。

2014年10月12日日曜日

台風19号

台風19号、台風名はヴォンフォンというのだそうだ。
大型で強い台風である。
なんてったって風速25メートル以上の暴風域が、500キロというから、これはマチガイナク大型である。
先週の18号は日本列島の太平洋側を、沿うように北上していったので、大型の割には暴風を感じる地域は少なかった。
しかし、今度の19号は、日本列島のやや内側を通過しそうなのである。
したがって、右半径が陸地に食い込みながら日本列島を進むという最悪のパターンを心配しなければないだろう。
午後十時過ぎには、宮崎県の都城市で、市内の全域に避難勧告が出されたそうだ。

大きな被害が出ないことを祈るばかりである。



台風第19号 (ヴォンフォン)
平成26年10月12日21時50分 発表
<12日21時の実況>
大きさ大型
強さ強い
存在地域奄美大島の北西約240km
中心位置北緯 29度40分(29.7度)
東経 127度35分(127.6度)
進行方向、速さ北北東 20km/h(12kt)
中心気圧970hPa
中心付近の最大風速35m/s(65kt)
最大瞬間風速50m/s(95kt)
25m/s以上の暴風域北東側 280km(150NM)
南西側 220km(120NM)
15m/s以上の強風域全域 700km(



2014年10月11日土曜日

模試監督

模試監督のために出勤。
受験生も今が一番苦しい時だろう。
十月は毎週のように模試が続く。
体も心も若くなければできないことだ。
今の私に同じことをやれと云われたら、おそらく発狂してしまうだろう。
受験生はエライ。

写真は昨日の続きで、八景島シーパラダイス「海の動物たちのショー」の一場面。
イルカが観客席に投げ入れたビーチボールを、観客が突いて、次々に移動させている場面である。
これが何だか異常に盛り上がっていた。

台風19号が、日本列島に迫っている。
近年の台風は、大型化が顕著であり「スーパー台風」などという言い方も出てきた。
クワバラ、クワバラである。




2014年10月10日金曜日

八景島シーパラダイス

N西は遠足。
三年生は、横浜・八景島シーパラダイスという水族館とアトラクションを合わせたレジャー施設に出かけた。
もう十年以上前だろうか、G南高にいた時にも遠足で、ここを利用したことがあるのだが、その時に比べると、各施設がだいぶ老朽化してきているようだった。

まあ、アトラクションについてはあまり新しいと、ディズニーランドのように、乗車に一時間待ち、ということにもなりかねないので、こんなところで良いのかも知れぬ。
いただけないはレストランである。
ここまでやるのか?
といった感じで、何でも値段が高い。
結局はこういうところが、施設の衰退を招いていくのだろう。

水族館の魚や、海の動物たちのカワイラシサでのウリが十分あるだけにとても残念。

2014年10月9日木曜日

「ずんぶり浸る一日のをはり」

「ずんぶり浸る一日のをはり」

五日に終了予定だった「ずんぶり浸る」展であったが、搬出時に雨が降ってきてしまったため、七日まで延長してしまった。
記念館の皆様、ご迷惑をおかけいたしました。

さて、九月六日より、約一月(ひとつき)に渡る展覧会であったが、延べ二百人以上の来場者があり、七日に無事終了することができた。
すべての人に、感謝、感謝である。

山頭火の「ずんぶり」の句は、昭和五年十一月十一日に九州の湯布院町、湯平温泉で作られた句である。
ここでは、十句詠まれている。
二番目に「しぐるるや人の情けに涙ぐむ」
四番目に「ずんぶり浸る一日のをはり」
十番目が「ひとりあたたまってひとりねる」とあり、これで句を締めくくっている。

何れの句もほっとするアタタカイ句である。
われわれのパフォーマンスも、展覧会に携わっていただいた、すべての人のアタタカイ心によって、無事終了できたような気がする。
合掌。



2014年10月8日水曜日

「安か安か寒か寒か雪雪」

「安か安か寒か寒か雪雪」

九州のどこかの街であろう。
「安か(安いよ)、安か(安いよ)。」
年末の繁華街で売り子が必死になって何かを売ろうとしている。
しかしながら、街行く人は「寒か、寒か。」と言いながら家路を急ぐ。
そして、売り子にも街行く人にも降りかかる「雪、雪」

写真の方は、九州からはもっとも離れている北海道の札幌。
大通り公園に面したホテル前にあったブロンズ像である。
佐藤忠良という日本を代表する彫刻家の作品(リカ像)だ。
しんしんと降る雪の中にスクッと立つ姿に思わずシャッターを切ってしまった。
この像も雪の中で必死に立っていたのである。

2014年10月7日火曜日

「おとはしぐれか」

「おとはしぐれか」

「あの音は時雨か」である。

書の方は木片に書いている。
たまたま気に入った木片が見つかったので、これを活かすべく、作ったそうだ。

写真は長野県にある地獄谷野猿公苑のニホンざるである。
N東の高原教室に付き添った際、怪我をしたり、体調不良の生徒を引率して、この公苑に行った。
ここのサルは餌付けされているので、、近寄っても逃げてはいかない。

おそらく写真のサルは頭か何かを掻いているのだろうが、いかにも耳をすましているように見えた。

「おとはしぐれか」
である。



2014年10月6日月曜日

「見あぐればまうへ飛行機の空」

「見あぐればまうへ飛行機の空」

山頭火の句にしては、ずいぶん明るい、そしてモダンな句である。
そこで、句のイメージをそのままに、写真も思い切って明るくモダンにしてみた。

一昨年のN西マラソン大会に、カメラを持って出かけたところ上空をジェット機が通過して行った。
雲ひとつない空には飛行機雲。
一番上がオリジナルの写真であるのだが、それをパソコンにより加工したものである。
パソコンで加工しないことをモットーにしてきた私であるが、これが意外と好評で、これはこれでいいかと、すぐに宗旨がえを宣言してしまったのである。

さて、最初に明るくモダンと言ってしまったのであるが、よくよく考えてみると、山頭火がこの句を作った時代にはジェット機など存在するはずはなく、おそらく空を飛んでいたのは、ゼロ戦かなにかの戦闘機なんだろう。
どちらかと言えば暗い句だったのかもしれない。

まあ、それはそれ、これはこれと考えて、これで良いことにしよう。

2014年10月5日日曜日

「てふてふひらひらいらかをこえた」

「てふてふひらひらいらかをこえた」

この句も山頭火の代表的な句である。
昭和10年の日記には「死に場所を求めて旅に出る」と書いている。
旅は、甲州路・信濃路から平泉、さらに日本海側に移動、日本海に沿って福井永平寺に到着。
そのときの句に

・てふてふひらひらいらかをこえた
・水音のたえずして御仏とあり
・法堂あけはなつ明けはなれてゐる

がある。
「僕としては一つの関をくぐりぬけたと思う」と日記にあり、これまで死に場所を求めて旅をしていた山頭火は、ここで生きることについて
考えるようになった。
関をくぐりぬけた心境のもっとも表れている句が「てふてふ」の句なのである。

書では「てふてふ」の軌道を意識して表現したという。
私の写真では「いらか」を中心に表現してみた。
言ってみれば、ふたつをワンセットにして山頭火の句を表現したみたのである。


2014年10月4日土曜日

「歩きつづける彼岸花咲きつづける」

「歩きつづける彼岸花咲きつづける」

写真の彼岸花は、背景が白い雲である。
白い雲を背景にした彼岸花は映える。
いささか露出オーバーぎみにしてみた。

昔近所に住んでいたKさん一家、次女のAさん久しぶり。
G南のKさん、いつもありがとう。
写真展の同志S先生、国語科の同志だったW先生ありがとう。
沼津朝日を見てやって来てくれたIさん、ご苦労さまでした。
そして本日の最後のお客、Tさん遠くからありがとう。

今日も大勢の人に見ていただいて、感謝、感謝である。


2014年10月3日金曜日

「誰か来さうな雪がちらほら」

「誰か来さうな雪がちらほら」

書に使用した墨は、何でも年代モノであるらしい。
古墨でなければ微妙なぼけが出てこないのだと。
へぇー、素人にはよく分からないところだね。

写真の方は、ちょいと分かりにくいが、うっすら積った雪の上に足跡がついている状態を撮ったものだ。

山頭火は、ちらほら降り出した雪によって、誰かが来るのではないかと、予想しているのだろうか。


2014年10月2日木曜日

「どうしようもないわたしが歩いている」

「どうしようもないわたしが歩いている」

山頭火の真骨頂とでも言うべき句である。
昭和9年5月22日の日記。
「煩悩執着を放下することが、仏道修行の目的である。しかも修行しつつ、煩悩執着を放下(ほうか・・・・悟りを開き万事を投げ捨てる意)してしまうことが、惜しいやうな未練を感ずるのが人情である、。言い換えると、煩悩執着がなくなってしまえば、生活一人生ー人間そのものがなくなってしまうやうに感じて、放下したくないやうな弱い気を起こすのである。」とあった。

煩悩がなくなったら、人間ではなくなってしまう。
失敗がなくなったら、人間ではなkなってしまう。

酒を飲んでは失敗する破壊的な生活を繰り返す中から生まれた句でもある。

ところで、一昨日の「は」の字日記に、唐黍が「ぶる下げられている」と書いたところ、新潟の友人から「ぶる下げる」は、おかしいとの指摘を受けた。

確かに「ぶる下げる」なんてえ言葉は辞書には載っていない。当然「ぶら下げる」と書くべきなのであろう。
しかしながら、「ぶる下げる」という言葉、私には違和感がないのだ。
仕方がないので、ネットで調べたところ、「ぶる下げる」とは、どうも方言らしい。
しかも東京の方言とある。
そうか、「ぶる下げる」は方言かと、あらためて認識をしたのだが、「でも東京の方言だよね、東京の言葉は、ほぼ標準語だよね。」と、開き直る私でもあった。


2014年10月1日水曜日

「つきあたってまがれば風」

「つきあたってまがれば風」

道の突き当たりを曲がると、そこには風。
不思議な句である。
風は心地の良い風であろうか?
それとも厳しい風であろうか?

山頭火の乞食の旅からすれば、この風は後者なのであろうが、私にはどうしてもそうは思えない。
もう少し、からっとした明るい感じの風のような気がする。

写真はN東の一年生が夏に行なう海浜教室で、
遠泳のシーンである。
手前は、それを見守るライフセイバー。
左手を挙げて、合図を送っているのだが、これが何となく「つあたってまがれば風」なのである。