2012年7月31日火曜日

あら なあに


面白い看板があった。
「あら なあに」である。
何の食べ物屋かわからないが、食べ物屋であることは確かである。
「あら なあに」という言葉からして、イタリアンではないかと思う。「アラナーニ」とカタカナにしてみると、それはよく分かる。
まあ、何にしろ食べ物屋だろう。

もっとも、「闇なべ」みたいに、中に何が入っているのか分らず、とんでもないものが出てきて、「あら、これはなあに」
と驚くのも、また興があるのかもしれない。

さて、オリンピックもだんだん佳境に入って行くようだ。
しかしながら、格闘技の審判に関しては、どうも佳境とは言えない。
 柔道をみていると、審判などいらないのではないかと思われる。審判なしで、どちらかがギブアップするまでやれば、すっきりするだろうに。(ちょっと、過激か?)




2012年7月30日月曜日

親知らずを抜いた。

親知らずを抜いた。
先週、奥歯に何か挟まってしまったような感じがしたので、仕方なく歯医者に行ったところ、「親知らずがはえているので抜きましょう。」ということになった。
 「おやおや、とんでもないことになってしまったな。」である。
N東のI先生の仲間になってしまうではないか。
「I先生はとても痛そうだったよな。」
とびくびくしながら、歯医者に出かける。
 歯医者は待ってましたとばかりに治療器具を用意。
「痛かったら、痛いと言ってくださいね。」
「痛いにきまっとるがね。」と思いつつ覚悟を決める。
麻酔の注射をブス。
「これは痛い。歯を抜くのは、もっと痛いのだろう。」
心臓はバクバク。
歯医者が口の中にわけのわからん器具を入れて、
なにやらごそごそやっている。
 その内にグキと音がしたような気がしたかと思うと、見事に歯がとれていた。
 意外なことに、痛みはまったくなかった。
痛み止めの薬もまったく飲んでいない。
上手く抜けてくれた私の親知らずに感謝、感謝である。




 写真は須坂にあった、今時珍しい琺瑯(ほうろう)?のポスト

2012年7月29日日曜日

ダニー・ボイル


昨日の続きの浴衣柄である。
岡信孝という日本画家の着物コレクション展示から
クラシック美術館で気になった柄を撮ってみた。
五点ばかりであるが、どれも素晴らしい。
このモダンさは、今でも十分に通用する意匠である。

さて、今日(7.28)はオリンピックの開会式があった。
それ程興味があるものではないと思っていたのだが
開会式のプロデューサーが、英国の映画監督であるダニー・ボイルということでちょっと考え方を変えてしまった。

ダニー・ボイルの代表的な作品といえば、
英国の社会問題を描いた作品「トレイン・スポッティング」と
shallow・grave(シャロウ・グレイブ)」である。
シャロウ・グレイヴの方は、面白いので是非観て欲しい作品である。
なんといっても映画のタイトルがふるっている。
「シャロウ・グレイヴ」とは「浅い墓穴」という意味である。
これほど内容にピッタリした映画のタイトルはないであろう。









2012年7月28日土曜日

須坂の朝顔

昨日に続いて信州編。

長野の近くに須坂というところがある。
ここは、明治・大正・昭和初期に製糸(絹)の町として栄え、
「須坂、横浜、ヨーロッパ」という言葉が生まれるほどの繁栄を
してきたそうだ。
現在は、かつての面影をその豪壮な蔵に 見ることができる。
蔵の町屋がずっと続く旧メインストリートには個性のある蔵が並ぶのであるが、やや「遅れた感」は否めないであろう。
 もっとも、日本の代表的な蔵の町、倉敷も私が最初に訪れた時は、いまのように洗練されてはおらず、徐々に徐々に洗練されていったことを考えると、これから観光の町として飛躍していくのかもしれない。


 さて、左の朝顔は、豪商の館「田中本家」博物館というところの庭で撮った朝顔であるが、撮った時間が午後の暑い時だったので、花にあまり元気がなく、さえない朝顔となってしまった。


また、浴衣の朝顔は、「須坂クラシック美術館」に展示してあった浴衣の朝顔である。ここには、朝顔の他にも花をデザインした浴衣が沢山あったので、また後で「花のデザイン特集」でもしてみたいと思う。
須坂で「蕎麦でも。」と考えていたので、地元の人におそわった「あがれ家」(なんだか名前が面白い)という蕎麦屋に入ったところ、蕎麦屋のおやじさんが、店名と同じく面白い人で、その場にいた他の客も一緒になって、すっかり話し込んでしまった。
蕎麦は十割蕎麦で、香りのとても良い蕎麦であった。



昨日といい今日といい、感じのとても良い料理人に恵まれ、幸せな時を過ごすことができたのである。

2012年7月27日金曜日

「ワインビストロ・ベルジェ」でフレンチを食べたよ。

暑い、ニュースでも盛んに熱中症の危険性を喚起していた。
さて、そのような時であったが、私は 信州に行って来たのである。
最大の目的は、「ワインビストロ・ベルジェ」という店のフレンチを食すためである。
長野市の長野駅に程近いところに、その店はあった。
よく注意しないと、見過ごしてしまいそうな、何気ない外観であるし、また店内も5組程度しか入れないようなコンパクトな規模であるのだが、ここのフレンチは最高である。
今まで私自身、フレンチというのは、それ程興味は持っていなかった。
「あんな、ソースで誤魔化すようなものは、料理


 ではない。」くらいに思っていた。
ところがどうだろう。今回は「おお、これがフレンチか。」と感動してしまったのである。
はっきり言って、今まで私が経験した料理は、フレンチではないような気がする。
上の写真がこの店のコースメニュウなのだが、前菜を6種類の中からひとつ、また主菜も同様6種類の中からひとつ、それにデザートとコーヒーがつく。
これが本当のフレンチのスタイルであるそうだ。
二種類しか料理がないような感じがするが、とんでもない。二種類でもボリュームは十分。かなり満腹となる。
下の写真は主菜の「北海道カニのクネル、オーブン焼き」
である。
食事の終了後には、シェフがテーブルひとつひとつに挨拶に来て、料理の説明をしてくれ、またこちらの質問に対しても丁寧に答えてくれる。
コンパクトであるが故にできるサービスなのであろう。
また、店を出る際には、扉の外に出て見送るのである。
まさに王様気分だ。



此れほど充実した店だが、マスコミには
ほとんど登場することがないという。
それがこの店のポリシーなのだそうだ。謙虚であり実直そうなシェフの料理はこれからも評判を呼ぶであろう。
決してマスコミなどの影響なしで。

k                     

2012年7月26日木曜日

頼られ感


N西は終業式。

放課後、三年生が、質問というか相談というか、(内容は勿論受験のことなのであるが)とにもかくにも話しに来てくれた。教師にとって生徒が質問に来てくれることは、なかなか嬉しいことである。「自分が頼られている感」が発生するからである。これは、教師というよりも、人間であれば皆そうなのであろう。
 右の写真を見てみよう。子ザルは何か不安でも感じたのであろうか。母親の腕をしっかり掴んでいる。一方母親の方は(この写真では分かりにくいが)その子ザルの不安を打ち消すように努めて平然とした態度でいる。この顔が「自分が頼られている感」というべきものなのではないか。
 (私が母ザルで、質問に来た生徒が子ザルというわけではないがね。)

2012年7月25日水曜日

教員の不祥事

教員の不祥事が続く。
同業者として、看過できないことだと認識しているが、だからどうすべきなのかと問われると、これは何とも言い難い。所詮、個人の問題なのだ。特に猥褻事犯については、病気としかいいようがない。
 自分の欲望や、また男としての欲望があることはしょうがない。これは避けられないことである。しかしながらバーチャルの世界と現実の世界が区別できないのは、脳みそ欠如である。免職になろうが何になろうが、同情の余地はない。
 猿だって何か考えていそうではないか。

2012年7月24日火曜日

ライフセイバー

昨日までの涼しさはどこへやら。
今日は30度超の真夏日、そこで多少なりとも涼しくなるように海の写真を探してみると、なんとなくユーモラスな写真があったので載せてみた。
 2010.7のN東・海浜教室から。
この主人公が抱えているのは、サーフボードにはちがいなかろうが、スポーツ用ではなくて、人命救助用のボードなのである。勿論主人公はライフセイバーである。

2012年7月23日月曜日

ゴースト暗算

週刊誌を見ていると、「ゴースト暗算」という記事が目に入った。
これは、現役の東大医学部生が考案した暗算で、頭の中に数字を置いていくことで、2ケタの掛け算などを暗算し、大人のくたびれた脳を活性化する?ものらしい。
例えば、62×8は、まず6×8で48、次に2×8が16。そして両方を並べると4812、この数字の真ん中、8と1を足し算すると9となる。最後に4816の両側4と2の間に足し算した9を入れると492という答えになるという次第。
 最終的には2ケタ×2ケタをマスターすることが目的なのだそうだ。
 私の脳もこれから少し活性化するとしよう。

(写真は何だか名前のわからない花)


2012年7月22日日曜日

わらの犬



1970年代の映画で、サム・ペキンパー監督(サム・ペキンパーといえば当時、センセーショナルな暴力映画を製作することで有名であった。)の「わらの犬」のリメーク版を観た。今回はロッド・ルーリーという監督であったのだが、以前ほどの衝撃はなかった。
一度映画を観ているので、ストーリー(都会から田舎にやってきた夫婦が不条理な仕打ちを受けるうちに、自身がだんだん暴力に目覚めて行く。)がなんとなく分かっていたと言ってしまえばそれまでだが、どうもそれだけではないような気がする。
 タイトルの「わらの犬」とは中国の思想家、老子の「天と地は無常であり、無数の生き物をわらの犬として扱う。賢人は無情であり、人間たちをわらの犬として扱う」という語録から引用、「わらの犬」は「護身のために焼く、取るに足らない物」の意味である。


写真は昨日「あしがらの湯」で見た、紫陽花と蜘蛛の巣。

2012年7月21日土曜日

あしがら温泉



金曜日は私自身の週休日ということで、今日は小山町のあしがら温泉まで湯治に行って来た。湯治と言っても、頭と心の湯治なんだが。
 平日なので温泉の中は空き空き、ゆったりと湯に浸かることができた。
あしがら温泉は最近リニューアルして露天風呂を増設、(今日はあいにく雨天であったが )晴れていると、富士山も正面に見ることができる。

 さて、温泉から出て、さあ車に乗ろうとドアを開けようとすると、隣の車のサイドミラーに妙な虫がいるのに気づいた。カマキリのようなスタイルなのだが、カマキリのようなカマはないし、頭の形も異なっている。
 とても気になるので、家で調べたところ、この虫は「ななふし(七節・竹節虫)」、節足動物門昆虫綱ナナフシ目の虫なのだそうだ。(なんだかワケガワカラン)
 カブトムシやチョウなどが行う「卵→幼虫→サナギ→成虫」という「完全変態」ではなく、サナギの時期がなく、これを「不完全変態」というのだそうだ。

2012年7月20日金曜日

樹の顔



樹である。
以前にも書いたが、近頃、樹に凝っている。
樹を見上げる。
空がある。
空にはいろいろな色がある。
その色によって、樹の表情が変わってくる。
これがなかなか面白い。

空が曇っている時の樹は
やはり何となく冴えない顔をしている。
今にも泣きそうな顔をしている。
不満そうな顔をしている。

一体、何が不満だというのだ。

2012年7月19日木曜日

鯔背

夏に似合う言葉の中に「鯔背(いなせ)」という言葉がある。例えば夏祭りの御輿を担ぐ若者を形容する場合に「鯔背な若衆」などと使用する。
 辞書には「鯔背」とは粋で勇み肌(おとこだての気風・威勢がよく強者をくじき弱者をいたわる。任侠の気風)でさっぱりしているさま、またその容姿やそのような気風の若者、とある。
 これは、江戸日本橋・魚河岸の若者の間で流行した髪型に由来する。またその髪型は、魚のイナ(ボラ)の背に似ていることから「鯔背銀杏」と呼ばれた。さらにそこから魚河岸の若者(鯔背銀杏を結った若者)のように、粋で勇み肌の者を「いなせ」と呼ぶようになった、ということである。
 右の写真は去年の野球応援の際のタイコだが鯔背ではないだろうか。
 
 今日は怒り新党の日。
 今回の怒り新党はイマイチ。最近マンネリの感がある。
公衆トイレの話だけがややおもしろかった。男女の公衆トイレのスペースは逆転すべきではないかという話である。たしかにその方が効率がよいような気がするね。

2012年7月18日水曜日

今日の主役は写真です。











N東の学校祭(香陵祭) のDVDをO君に頼んでおいたのだが、今日それを受け取ることができた。その映像を今まで観ていたので、いささか目に疲れ。よって、本日のブログはやや控えめで行こうと思う。DVDは、そのうちN西の生徒にも見せることにしよう。
 写真は最近撮った写真の中からN西の学校祭(潮音祭)と
昨日のN東の野球応援から。



N西女子サッカー部と
N東吹奏楽部の
それぞれ後ろ姿・楽器を持つ手である。

DVDの感想は後日述べることにしよう。

2012年7月17日火曜日

野球応援

N東の野球応援に出かけた。
自分の関わりのあった三年生が出場し、応援するので、これは行かねばと、勇んで出かけたのである。
 新東名高速道路を使えば、1時間で大丈夫と思って出かけたのであるが、高速に入ったとたん事故渋滞。島田球場に到着した時には、すでに3回?までゲームが進んでいた。
 高校野球を観ることは楽しい。
今までも自分の勤務校の試合がある時には必ず観に行っていたような気がする。
 さて、N東の初戦は延長13回5対4の勝ち、ということであったが、2回戦の今日もなんと延長13回5対4である。なかなか疲れるゲームであった。(私が到着した時には、1対4で負けていたが、終盤に追いつき延長で、ついにさよなら勝ちをしてくれた。もしかしたら私は勝利の男神かもしれないな。)
 久し振りに3年生の顔を見たのであるが、みな引き締まった顔になっていて、何か頼もしい感じがした。
 

2012年7月16日月曜日

しりとり




夕方のあるテレビ番組で、「言葉のしりとり」を真剣にやると、
一体どのくらい続けることができるのだろう。」という企画が
あった。
 言学者ふたりと、黛まどか(プロの俳人)の三人で部屋
に籠もって、ひたすら「しりとり」を続ける。ぶっ続けではない
結局、40時間・5895の単語を続けたところで、(しりとりが
切れたわけではなかったが)終了した。
 言語学者とか俳人のボキャブラリーの量は大したもの
ある。
 途中、黛まどかが、うっかり「明神(みようじん)」と「ん」を
使ってしまったのだが、そこは言語学者、すかさず「ンジャ
メナ」というアフリカにある国「チャド」の首都の名前を挙げた。
「ウーン、ンジャメナなんて知らなかったなあ。」



 写真は一昨年の夏。N東の海浜教室から。
泳いでいる生徒を監視するライフセイバーである。

2012年7月15日日曜日

ミラクルボディー

NHKスペシャルの「ミラクルボディー」と言う番組を観た。
「百メートルを9秒58で走る、人類最速男、ウサイン・ボルトの走りを科学の目で徹底分析」というキャッチフレーズであった。
なんとボルトの走りはこれまでの理論をことごとく覆す特異なフォームであるという。
 なるほどフォームを見ると、身体を左右に揺らしながら走っている。その理由というのが今回のミソなのである。
 また走っている時の歩幅を測定すると右と左では、凡そ20センチも異なるということでもある。
 実はボルトは生まれながらの、脊柱側湾症であるそうだ。走ることには、不利であるはずのこの宿痾ともいうべき脊柱側湾症を、ボルトは自分の武器にしている。私も番組を観たものの、詳しい説明はできないが、簡単にいうと、この左右に揺れる動きが足の地面を蹴る力を強めているのだそうだ。自分の不利を見事に有利に転換しているのである。




(写真はN西の体育祭から)

2012年7月14日土曜日

ポピー?



6月の初めの頃、近所の花畑にポピー?がきれいにさいていた。芥子の花によく似ているような気がする。「きれいな花には毒がある。」ということなのだろうか。
 
 久し振りに中学校の同級生が集まる会に参加した。
みんな還暦過ぎた歳のはずなのだが、若い若い。
 
中学の同級生と会話していると、ふっと昔に戻ってしまう。
自分の目の前にいる友人は確かに自分と同様に歳をとった友人であるのだが、会話をしていると、現在の自分がすっかり消えてしまって、中学時代の自分が久方ぶりに顔を出してくるのである。不思議なものだ。今この歳であることが、実感できなくなってしまうのである。
 
 これが時をいっしょに過ごした友ということか。

2012年7月13日金曜日

高校振り


今朝、車の中でFM放送を聴いていると、リスナーのコメントの中「こんなことは、高校振りです。」というコメントがあった。言いたいことは、「高校以来」ということなのだろうが、「高校振り」とは妙な言葉である。明らかにおかしい。おかしいのは分かっているのだが、何故おかしいのか、はっきり説明できない。 分かっていることは、「二年ぶり」とか「久し振り」という言い方はするが、「高校振り」とは言わないだろうということだけである。
 よく考えてみると、「二年」とか「久し振り」の「久し」というのは時間の長さである。
 では、「振り」という接尾語を使うことができる時間の長さは、どのくらいからだろう。こんなことが気になりだした。
 「三日振り」は言うが「一日振り」はあまり聞いたことがない。「五分振り」も言わないだろう。だとすれば、「振り」という」接尾語が使用できるのは、ある程度の長さを持ってこそということになる。(その時間のボーダーは、よくわからないが。)
 また「ぶり」という接尾語は時間の長さだけではなく、「大ぶり」とか「小ぶり」という大きさ、「男っぷり」とか「女っぷり」などの様子を表すときにも使うのである。




写真は、前々回の神社の屋根越しの樹木である。
これで概要がある程度、理解していただけるのでは。

2012年7月12日木曜日

志賀高原の猿



去年の今頃は高原教室であった。
 三日めだったか、四日めだったか定かではないが、居残りチームを連れて、地獄谷の野猿公園にでかけた。写真はその時の猿である。目付きは結構鋭いが何となく悲しそうな顔つきである。
 野猿とは言え、餌付けをされているので、彼らの生活は安定しているに違いない。おまけに温泉つきだ。さらに公園とは言ってもフェンスがあるわけでもない。従って自分勝手に好きなところに移動もできるのだ。こんな幸せはないと思うのだが、猿は悲しそうな顔をしている。
 
この悲しさはどこから来るのだろうか。
 もしかすると、拘束のない生活というのは、意外に、悲しくてつまらないものなのかも知れない。

2012年7月11日水曜日

神木



最近、樹木に凝っている。
この写真は、富士吉田にある神社の神木だと思うのだが、神社本殿のまわりの木の枝をこのように皆、枝打ちしてしまって、とても妙な雰囲気を作り出している。
本来神社というのは、鬱蒼とした樹木の中に威厳を持った佇まいを見せて存在しているはずだが、ここの神木は、皆枝を落とされてしまっていて、裸でみんなの前に立たされているような感じなのである。

右の写真をよく見てみると、木のてっぺんのさらに上の方に白い線が見える。意識はまったくしていなかったのであるが、シャッターを切った時に、偶然、飛行機が通過して行ったのであろう。
実はUFOか?

2012年7月10日火曜日

画像チェック



画像チェック。本日よりブログに画像の添付を開始。
記念すべきファーストフォトは、今年一月の写真展より「飛行機雲と葉っぱ」である。

潔し

昨日のニュースでも今日のニュースでも、「いじめ」についてのコメントが多くあった。現場の教師とマスコミでは随分受け取り方にギャップがあるようだ。社会通念的に考えるならば、「いじめ」は立派な犯罪である。これはもっともなことである。勿論異議はないのであるが、問題は教師にとって、「いじめ」られている生徒も「いじめ」ている生徒も、自分の教えている生徒である、ということなのである。
 このことが教師の感覚を鈍らせてしまうのだ。やはり、教師の基本的な姿勢は、どの生徒に対しても公平な目で、公平な態度で接して行かねばならないだろう。どのような子であっても教師にしてみればかわいいのである。またこういう考えができない教師であるならば、これは教師をやめたほうがいいとも思う。
 ただし、「責任のがれ」だけはして欲しくない。
日本には「潔し」という言葉があるのだから。

2012年7月9日月曜日

「嘘」「隠す」

最近のニュースには、「嘘」とか「隠す」という言葉がよく見られる。東京電力の嘘、大津の中学生の自殺に関する隠しごと、本当に心の重い事件だ。当事者が言っていることの真偽は、当事者しかわからないだろう。しかしながら、疑いをもたれているのは事実だ。
 この二つの事件の背景には、どうも「責任の回避」という意識が強烈に働いているような気がする。「言質をとられる」この言葉に常におびえて当事者は発言するのだ。大きな責任か、小さな責任か分からないが、責任はあるにきまっているのに。

2012年7月8日日曜日

コクリコ坂から

スタジオ・ジブリの「コクリコ坂から」を観た。舞台は1963年、横浜にある中高一貫の学園。主人公「松崎海」(海をフランス語に訳すと、ラ・メールになるので、ニックネームはメル)は、何故か一人で洋館の下宿屋の切り盛りをしている。(理由は父がすでに亡くなっており、母は外国に出張中だから。あり得ん話だ。)
そして、この主人公「海」が取り壊し予定のある高校の文化部部室「カルチェラタン」を守るために好意を持っている「風間俊」という上級生と奔走する。ざっというとこんな話であるのだが、どうもテーマがはっきり浮かんでこない。「海と俊の淡い恋愛と、カルチェラタンに代表される古い文化を守って行こう。」とでもいうのだろうか。
 それはそうと、私が興味を持ったのは、1963年という時代へのノスタルジーと主人公「海」の着ているセイラー服であった。
 1963年は1963年というより、実際は、もう少し後の時代のような気もするが、私の学生時代の風景とかなり重なるのである。この当時は学生運動が盛んな時期であり、話に出てくる討論会も珍しい風景ではなかった。
 セイラー服もいい。(セイラー服に興味がある、などというと変なオジサンになってしまうが。)なぜセイラー服がいいかというと、私の中学校の制服がセイラー服であったからだ。これもノスタルジーからきているのかも知れぬ。
 セイラー服と言えば、N西の制服もセイラー服だ。冬服のほうは、かつて私が見ていたセイラー服のスタイルではないが、夏服は王道のセイラー服である。スカイブルーのブルーのラインも大変清々しい。このようにいつもセイラー服を見ることができる私は幸せなのかもしれない。

2012年7月7日土曜日

七夕スランプ

最近スランプである。イマジネーションの涸渇なのである。何かを書こうとするのだが頭にまったく浮かんでこないのである。授業というのは、イマジネーションなどなくても、恐らく出来ると思うのだが、文章を書くという作業はこれがないと、チョイとつらい。
 ところで、私は常々「目ですべてを行なう授業」が究極の授業であると思っている。相手が理解しているかどうか、質問があるのかどうか、すべてを相手の目で判断できる。これが究極の授業なのだ。このコミュニケーションができるなら試験などは必要がない。何故なら試験などしなくても理解しているかどうか、判断が出来るからである。
 N西の生徒もN東の生徒も、これが出来る生徒であるようだ。

2012年7月6日金曜日

天麩羅

今日の昼食は、沼津の「天春」という天麩羅屋で、てんぷらを食べた。「天春」は寿司屋と同様、カウンター席のある天麩羅屋であった。カウンター席というのは、調理をしている人間とのコミュニケーションができるので好きである。今の旬はなんだとか、かんだとか、たわいもない話をしながら時間を過ごす。西洋にはあまりない習慣ではなかろうか。
 さて、てんぷらを食べていると、またいつもの悪いくせがでてきた。「語源探索オジサン」の「この言葉の語源は何だろう。」である。
 語源バンクに曰く。てんぷらの語源は、キリスト教の宗教用語で四旬節(カトリックで復活祭の46日前から復活祭までの期間)のことを「クアトロ・テンプラシ」と言い、その四旬節には信者はキリストの受難をしのび、節食したり肉を食べずに「魚のフライ」を食べる習慣があり、その宗教用語から転じて魚の揚げ物料理のことを「てんぷら」と呼ぶようになったこと、とも言われている。しかし、天ぷらの語源については他説もあり、南蛮渡来の語としている例が多い。
おもに語形からの類推によって、
  • ポルトガル語の temperar (動詞:「調味料を加える」「油を使用して硬くする」の意。三人称単数で tempera) または tempero (調味料の意)
  • ポルトガル語 temporas またはスペイン語 témporas (斎時、斎日)の意。肉食を禁ずる期間)
などとも考えられる。
 てんぷらに関しては、あまり明確な語源はないようである。まあこういう時もあるさ。

2012年7月5日木曜日

「まる・ばつ」の話

「まる・ばつ」の話である。
日本で記号として確実に「○」が見られるのは、江戸時代にあった大阪の蘭学塾「適塾(てきじゅく)」の資料だという。従って、我々が使う「○」は少なくとも江戸時代には登場していたことになる。そしてその意味は良いこと。昔から行われていた相撲の星取表で、勝ち星が「○」負けが「●」で 表されていたことを考えると、このことは良くわかる。
 しかしながら、ここでは「×」の存在はまだ確認されていない。「×」は、まだなかったのだろうか。それでは「○」「×」はどのあたりで登場したのだろう。
 まず、 「○」や「×」は外国でも使用しているかどうか、ちょいと調べてみた。
英語圏ではレポートが手書きの場合、正解を表すのは、「レ(チェックマーク)」であり、不正解を表すのが「×(ばつ)」なのだそうだ。また、「○」については、試験でなく選択書類などの場合、該当部分を「○」で囲むという回答方法はあるということである。(正解の意味の「○」ではない)
 つまり、「○」「×」というのは、「○」の方は、」昔から日本にあった「まる」で、良いことを表しており、「×」の方は外国から輸入された「不正解」を表す「×」なのではないだろうか。さらに「×」は慣用句の「ばつが悪い」などにも影響されたのではなかろうか、というのが私の想像である。

2012年7月4日水曜日

採点だ。

今日のN西は期末テストの第一日目、答案用紙が来たので早速採点をした。(私の採点は速いのである。間違いも多いが。)採点というのは、取り掛かるまでがグズグズとしていて大変だが、やり始めると、これが結構楽しくなってくる。また達成感も得ることが出来るので、最近、嫌いではなくなってきた。
 生徒一人一人の顔を想像しながら、「ウーンよくやっているぞ。」とか「ナーンモやってないな。」とか独り言を言いながらマルつけをするのである。
 大方は平穏無事に採点は進んでいくが、マルつけをしながら突如有らぬ方向に進んでしまうこともある。
「そう言えばマルつけのマルはいつから始まったのであろうか。外国でもマルをつけるのだろうか。またマルに対してバツはどうつけるのだろうか。所謂バッテンなのだろうか。」
(これが教員の性なのであろうか。)熱心に調べ始めてしまうのだ。

この調査結果はまた明日ということで。

2012年7月3日火曜日

アゲぽよ

「アゲぽよ」とはテンションが「上げ上げ」の状態を意味する言葉なのだそうだ。主に女子中高生やギャル達が使う言葉とある。「ぽよ」は特に意味はなく「なんとなく可愛らしい」ので使用する、言ってみれば接尾語のような役目なのであろう。これが接尾語となれば、応用は簡単だ。「あげぽよ」があるのだから「サゲぽよ」も存在するのだろうし、「イヤぽよ」とか「スキぽよ」とか、いくらでも応用できる。
 今日はもう「ツカレぽよ」なので、ブログを書くのが「ツライぽよ」だ。従って、このへんで、ブログは「オワリぽよ」にしよう。

2012年7月2日月曜日

2700

「エンタの神様」という番組を観た。何故観たのかというと、6月30日付の朝日新聞の夕刊に、お笑いコンビの「2700(にせんななひゃく)」の記事が出ていたからである。それは「旬」という囲み記事であった。「旬」であるからには、今流行のコンビなのであろう。
 その記事に曰く。「右ひじ左ひじ、交互に見て、右ひじ左ひじ、交互に見て・・・・・と単調なリズムに乗せて繰り返されるフレーズと動きが、彼らの代名詞」とある。
 2700のコンビ名はアルバイトで運んでいた鉄骨が2700ミリであったことによるらしい。で、この2700が「エンタの神様」に出演するというのである。
 さて、「エンタの神様」での彼らは、クリス松村(この人のジャンルは何なのだろうか?フィットネスインストラクターということだが、よくわからん。)をサカナにして笑いを取っていた。ひとりがキーボードを弾くまねをして、もうひとりがリズムに合わせて短パン姿で踊りを踊る。(短パンにGジャン姿は、スギちゃんとかぶるなあ。両方とも短パンだけに、短命で終わらなければ良いが。)この番組での彼らの姿は、(新聞記事にも書いてあったが、)お笑いをしているのにもかかわらず何か哀愁を漂わせていた。一体この哀愁はどこから来るのであろうか。

2012年7月1日日曜日

時間をつぶす

今日テレビをみていると、次のようなコマーシャルがあって、妙に目と耳に残った。

時間をつぶすというが
ぐっと両手でつぶした気になっていても
時間はスルリとその脇を
通り抜けていたりする
人間は時間を
永遠につかまえることができないのだろうか

(ダイナム)

なかなか印象的なフレーズである。
「時間をつぶす」という言い方はよくある。
ところが、時間は、つぶしてもつぶしても永遠に存在し続ける。
結局人間は時間をつぶしきれないのだ。
こんな意味なのだろうか。

このコマーシャルのスポンサー(ダイナム)というのは、パチンコ屋さんであるのだが、なかなかである。奥が深い。
すなわち、「時間というのは、つぶしきれないのだからパチンコでもしようよ。」ということか。