2015年12月7日月曜日

この木何の木?

先週の日曜日、御殿場の高根あたりだったと思う。
どこかの会社の駐車場にあった樹木である。
これは木と、その木に巻き付いた蔦のような植物なのか?
それともこういう種類の木なのか?
最近、御殿場地方ではよく見られる風景である。

ちょうど木の横に「世界遺産」も入れることができた。
また、その「世界遺産」のさらに横には、一見縦に延びた雲も見られる。

さて、昨日の「正義の哲学」のブログについて新潟の友人から「お叱りのメール」がきた。
友人曰く


ところで、ブログの「正義の哲学」についてイチャモンを付けたくなった。
「真実」の概念の問題かもしれないが、「宗教的決断」によって「真実」が見えるというのは
まさに金目当ての新興宗教のキメ台詞のように感じる。
宗教を否定はしないが、そもそも哲学と宗教は相反する思考で、その昔ギリシャでも
殺し合いがあったくらいの関係である。宗教指導者にとって哲学は邪魔な学問だ。
ISの自爆テロも「宗教的決断」によって「真実」が見えたのだろうというのは、あまりにも
危険な書き方だと思う。自爆テロを擁護していると勘違いされる表現ですぞ。
罪の無い人がテロによって殺害されることは、「真実」によってではなくて「真実の錯覚」であると
声を大にして言うべきである。
と、まあ感じた次第です。



うーん、私の文の拙さが出てしまったようだ。
これで「自爆テロの擁護」と、とられてはタマラン、タマラン。
私はすべてのテロを支持しません。
念のため。

「宗教的決断」というのは「理性と対極にある決断」のことだ。
まず、絶対的なものがあり、その絶対者が「正しい」と言ったことは、決断者にとってすべて「正しい」ことになる。
つまり「信じて疑わない」ことだ。
正確に言えば「宗教的決断」により「真実と思わされているもの」が見えるのである。






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