2013年11月27日水曜日

取り違え

今日のニュースの中に、六十年前に別の新生児と取り違えられ、貧困を強いられたとして、病院に対して60歳の男性が損害賠償を求めた訴訟の判決(3800万円の支払い)が東京地裁であった。
私自身この男性には同情するし、いい加減な措置をした病院に怒りを禁じ得ないのであるが、この話には何かもう一つ合点がいかないところがあるような気がする。

確かに、過去の取り違えがなければ、経済的に豊かな家庭で育てられ人生も変わっていたかもしれない。
しかし経済的に恵まれることが、イコール幸福であるかというと、どうも、そうではないようにも思えるからだ。
勿論「貧困を強いられた」は裁判上の已むを得ないフレーズかもしれない。

男性のコメントの中には、育てられた家庭の兄弟には可愛がられた云々という部分があった。
育てられた家族には男性も感謝しているに違いない。
もし、そうであるならば「貧困を強いられた」という理由は、やはり、育てられた家族に対して聊か馴染まない言葉ではなかろうか。

当事者でない人間がこんな事をいうこと自体が馴染まないかもしれませんがね。

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