2023年11月18日土曜日

自然

何日か前の新聞で、柄谷行人の「回想録」の記事を読んだ。 哲学者の柄谷行人(からたに こうじん)は、夏目漱石の研究者でもあるのだが、この回想録には次のような言葉があった。

「漱石の(自然)は、言葉の一般的な定義を超えていて、また文脈によって意味がかわります。文学的な言葉にはそういう傾向があると思います。」

「つまり漱石が多くの作品で描こうとしたのは、(自分ではどうしようもないこと)にとらわれた人間です。それが漱石の言う(自然)にかかわる。もともと(自然というのは、人間の外にある草木のようなものだけじゃなくて、人間の内側にもあったものなんです。これは近代になると、ただの自意識になってしまった。」

(自然)は漱石がよく使用する言葉である。

私の(自然)はすぐそこでくい止められてしまったのです。   

高校二年生の現代文の教科書には、必ずと言っていいほど漱石の「こころ」という作品が載っており、その中での重要なワード⦅主人公が 友人Kを裏切った際に、自分の良心の発露⦆として(自然)の語を使用しているのだ。

さらに柄谷は言う。

「私」というものは、外側から見た「私」と内側から見た「私」の両方を含んでいて、その二つは完全に一致することはない。そのズレにこそ、人間の存在の不思議を解く鍵があるし、漱石はそこに注目した。

これが柄谷行人の言う「自分ではどうしようもないこと」なのである。    


 

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