ただし、ワタシのコンディションは最悪、肩は痛いし膝も痛い、おまけに先週貰ったであろう「風邪菌」が、身体の中で暴れていて、喉は痛いは咳は酷いはと、散々な目にあってしまった。
まあ、この最悪のコンディションの中でもテニスをやってしまうワタシは、なんと愚か者なのだろう。
ただし、ワタシのコンディションは最悪、肩は痛いし膝も痛い、おまけに先週貰ったであろう「風邪菌」が、身体の中で暴れていて、喉は痛いは咳は酷いはと、散々な目にあってしまった。
まあ、この最悪のコンディションの中でもテニスをやってしまうワタシは、なんと愚か者なのだろう。
花を撮ろうと思ったのだが、どうも季節が中途半端だったようで、これと言った花はほとんど咲いていなかった。
帰りがけに施設の売店に寄ると、「朝取りタケノコ」が売っていたので、迷ったのだが買って家に持ち帰る。
これで三百円なのだが高い買い物なのだろうか?
というのも、肩から背中の痛みが尋常ではなく、疲労感もあったからである。
では何故こんなことになったかと、理由を考えてみると、先週の金曜日にタイヤ交換のためにタイヤを担ぎ、土曜日・日曜日は神奈川県から孫が来たために、何度も孫を抱き上げたからではないかという結論に達した。
イヤハヤ、体力の衰えを感じる今日この頃である。
コイノボリの「のぼり」は、「幟」と書くのであるが、そもそも「幟」とは日本の古来からの風習として神社や寺院、祭礼の場など神聖なるものとして掲げられていたものなのだそうだ。
また「幟」は日本における「旗」の形式のひとつであり、長辺の一方と上辺を竿にくくりつけたものを指す。
したがって、コイノボリと言ったら「鯉」の絵を長方形の旗に描いて飾ったものなのだろうが、いつの日か分からないが、現在のような「立体的な鯉」になったのであろう。
左の写真は桜の花の向こう側にコイノボリである。
普通、桜と鯉幟は時期が少々ズレるのであるが、御殿場平和公園の鯉幟はややフライングぎみに登場してきたので、写真のようになった次第である。
「秩父宮記念公園」において無料配布していたのを貰ってきた「マイ桜」、この桜の花の中心が赤くなってきて、花の終わりを告げている。
今年もよく頑張って咲いてくれた。
玄関先の平たい鉢に植えて、何一つ世話をしたわけでもないのに頑張って咲いてくれたのである。
桜の花に感謝。
かつてはこういう時間割もあったのだが、最近はほとんど無かったので、少々モチベーションの維持に苦労した。
というのも、午前中は家の中でヘラヘラしていてチョイと早めの昼御飯、それからヨイショと学校に向かうのである。
「弛緩」から「緊張」というのは、「緊張」から「弛緩」よりも扱いにくいなあ。
ところで「日がな一日寝てすごす」の「日がな」は「一日中」の意味であるが、「日がな」の「がな」は何だろうか。
これには色々な説があるようだ。
①単なる強調、あるいは語の勢いを強める意味合い。
②「日が」に感動詞の「な」をつけたもの。
③「日長」あるいは「日永」の「なが」が「がな」に変化したもの。
インターネットでは③の用法が有力なようだが、ワタシ的には古語の終助詞「かな」の意、つまり「軽いためらいの気持ちを込めながら自分の意向や願望を実現しようすることを表す」意が気になる。
そう、「日がな」、「一日寝てすごす」のである。
今週は晴れの日が多く、水曜日以外はすべて「晴れ」なのである。
どうして週に一度の「水曜テニス」の日を「雨」にしてしまうのか、天の神様を恨む次第である。
(写真は満開時の富士霊園の桜)
三限始まりであれば、御殿場の家を九時半までに出れば良いということになり、「遅寝遅起き」をモットーとしているワタシにとっては理想的なのである。
このまま時間割が変わらないことを祈るのですがね。
2026年度から主に高校1年生が使う教科書の検定では、評論や実用文を扱う「現代の国語」で小説を掲載する教科書が急増した。申請の教科書の半数が小説を載せて合格。文科省が小説の掲載を想定していなかった「現代の国語」でなぜ増えたのか。
ワタシは「古典」ばかり教えているので、あまり気にもしていなかったのであるが、現在、国語という教科には「言語文化」と「現代の国語」というのがあって(かつては「古典」と現代文」)、「現代の国語」では報告書や法令、契約書など実用文を扱うのである。したがって、小説は古典や漢文とともに「言語文化」の方で扱われるのだ。
これは文科省の(誰が言い出したのか分からないが)高校の授業は「文学作品の読解に偏りすぎる」として、学習指導要領では「実社会で生きる力を重視する(報告書・法令・契約書の重視)」という(愚かな)考え方によるものである。
文学作品から「生きる力は学べないのか?」とワタシは今でも憤っているのだが。
さて、で最初の「小説がなぜ現代の国語に急増したのか」に戻るが、神奈川県を中心とした現場の国語教員にアンケートを採ったところ、「現代の国語」の新設については、「良かった」が15%、「良くなかった」が51%を占めたそうである。
うん、うん、神奈川県の先生たちは実に「マトモ」だ。
暑くなると言っても、現在の室温が23℃程度なので、まだまだ本当の「暑さ」ではないのだろう。
全国的に見ると、4月の中旬から夏日がやってくる今年の夏は、一体どこまで暑くなるのだろうと、今から極めて不安なのである。
昨日スタッドレスタイヤを交換したばかりなのになあ。
ただし、身体はアチコチが痛いのである。
やはり、怠惰には必ずその「オカエシ」が付いてくるのである。
人生甘くないのである。
日本国の微笑ましい文化行事だと思うのだが、この行事も年々縮小化され、やがて消滅してしまうような気もする。
そもそも体長数メートルの「こいのぼり」を大空に泳がせるには、それなりの空間が必要であるし、手間もかかってくる(例えば雨天の場合はそれを下して、どこかに収納しなければならないし、強風が吹いてきても同様の作業が必要であろう)のである。
したがって、一般家庭ではその手間を考えるとなかなか難しい。
良い文化なのですがねえ。
まあ、テニスはそこそこなのであるが、何はともあれ晴れていると、運動していても気分が良いのである。
左の写真の桜は今週の月曜日に富士霊園で撮ったものである。
以前にも書いたのであるが、今年の富士霊園は県内ニュースで「まだ間に合う桜の名所」として紹介されたためか、そりゃあもう大混雑であったのです。
さて、学校の方は授業も二日目となり、気持ち的にも身体的にも大分慣れてきたようだ。
何と言っても最後の授業が三月の初旬だったので、ブランクが大きく、ジジイとしてはその感覚をつかむのが大変なのです。
帰りがけと言ってはチョイと語弊があるのかも知れない、一度我が家の近くを通り越して富士霊園に向かうからだ。
まあ、それは兎も角、昨日県内ニュースで取り上げられ、さらに今日は天気も良かったので富士霊園は桜見物の人々でごった返していた。
桜自体は、残念ながら昨日の雨風でだいぶ花びらを散らしてしまい、ワタシも少々落胆して帰ってきたのである。
夜にかけて風雨が強まるということで、満開の桜も散ってしまうのだろう。
「万博(万国博覧会)」が始まった。
しかしながら良く分からないのが、この「万国博覧会」の正式な呼称だ。
「関西万博(関西万国博覧会)」と呼んだり、「大阪万博(大阪万国博覧会)」と呼んだり、さらにパンフレットには大きな字で「2025年国際博覧会」と書かれている。
別にケチをつけるわけではないが、「関西」と「大阪」は同じ意味ではないだろうに、さらに「国際博覧会」と「万国博覧会」も意味としては異なっているのではなかろうか。
うーん、謎だ。
この桜は「鉢植え」をすることが出来る桜なので、大変重宝している。
そして何と言っても、極めていい加減で、無責任なワタシが育てていても、こうして花を咲かせているのである。
これは「桜の花」に只管感謝なのです。
今日は試験監督ということで、教室に行ったのであるが、やはり二コマ二時間近く監督で立っているのは身体的に疲れる。
授業であれば、おしゃべりをしながら生徒の前をウロウロするのであるが、試験監督の場合は静かに黙ったままウロウロしなければならぬ。
これが結構キツイのです。
今日の疲れはこれですな。
テレビの予報は、これから雷を伴う強い雨なのだが、こちらの方は当たるだろうか。
今日も「椿」の写真であるが、ワタシの理想とする「絵のような写真」にやや近づいたのではないかと思う。(自画自賛か?)
昨日も東山湖からほど近い小さな公園で「色気のある椿」にであった。
彼女は(と書くと性差別になるのだろうか、いやいやそんなことはどうでもいい)、ファインダー越しに「ワタシを撮ってくださいな」と、秋波(しゅうは=関心を引こうとする、色っぽく媚びのある目つき)を送ってくるのである。
他の花には、あまり感じることが出来ない出会いである。
下界の春はもうピークを過ぎているのだろうが、御殿場の春はこれからなのです。
写真は人口湖の東山湖である。
釣りにはあまり興味を持っていないワタシなので、何が釣れるのかよく分からないが、ここは湖があって桜があって、さらに富士山まで登場する贅沢な場所なのである。
当然その後には強い雨。
全くもって予想できないのが(天気予報では急激な雨の予想もあった)春の天気なのである。
おかげで今日も引きこもり、そろそろ十月の写真展展に向けての準備でもと、ストックしてある写真を整理したのである。
口語文法で言うと「そうな」というのは、助動詞「そうだ」の連体形であり、形容詞「偉い」の語幹に接続しているということになる。
そして意味は「そういう様子である」のように「様態」を表しているのであろう。
つまり、話者が見たり聞いたりした人物や物の様子を直感的に述べる時に使われる主観的な判断(可能性)なのである。
まあ、「そうな」」というのは「直観的」であるし、「主観的」であるので、ワタシが好きな「いい加減な」言い回しには、持って来いの言葉でもあるのです。
逆の言い方をすれば、「エラそうな人間(あくまでもソウナ)」は「エラそうな車(あくまでもソウナ)」に乗りたがるのです。
例えばニュースなどで、閣僚が官邸で車を降りるシーンは殆どが黒塗りの高級車から彼らは降りてくる(これはおそらく公用車なのでそうなのだろうが)。
たまには裏をかいて「軽自動車」から降りてくる閣僚がいても良いだろうに。
もしも、このようなシーンが見られたなら、ワタシは拍手喝采をするであろう。
春らしい陽射しのためか、いつもより人は多めであったのだが、名物の「枝垂桜」の開花はまだチョイと早く、来園者には多少の「残念さ」の見える顔が目立った。
そこでワタシだが、ワタシの目的は「出遅れた椿」の花を撮ることだったので一応の目的は達成することができた。
右の写真は「紅乙女(コウオトメ)」という種類の椿で、大多数を占める「藪椿」より若干の遅れをもって咲く椿らしい。
言葉ではチョイと言い表せないのだが、この椿、実に「色気」があるのだ。
うーん、「「色気」があるのだ。
最近の運動は、かなりここに依拠しているので、ワタシとしてはとても有難かったのである。
それにしても読みにくいのが春の天気、三日前の天気予報によってキャンセルするかどうかを決定せねばならず、頭の痛いところなのです。
先週の火曜日以降、特に予定もなく毎日ぐーたらな生活をしている。
やはり、リズムのない日常というのは心身ともにダメージを与えるようだ。
明日の水曜テニスは是非ともやりたいものだが。