特に愛鷹のコートは日差しを避ける場所がほとんどなく、常にコートの上の灼熱状態の場所に居なければならない。
今日の夕方のニュースでは、全国的に「熱中症」の患者が増え、中には亡くなった方もいるということを告げていた。
老人集団(ほとんどが後期高齢者)であるワレワレの集団は特に注意なのである。
(写真の花は先週撮った「ムラサキツユクサ」)
特に愛鷹のコートは日差しを避ける場所がほとんどなく、常にコートの上の灼熱状態の場所に居なければならない。
今日の夕方のニュースでは、全国的に「熱中症」の患者が増え、中には亡くなった方もいるということを告げていた。
老人集団(ほとんどが後期高齢者)であるワレワレの集団は特に注意なのである。
(写真の花は先週撮った「ムラサキツユクサ」)
六月の中旬なのに全国的に「猛暑日」の地点が多く見られるのだ。(全国一は甲府の38.2℃だということである。)
幸いなことに我が御殿場は気温が30℃に届かず、チョイと暑いかな程度なのだが、先が思いヤラレル今年の夏である。
明日は水曜テニス、老人は特に注意だ。
歳を取ると、暑さにたいしての身体の順応が鈍く、馴れないまま戻ってくると身体の方は何が何だかわからなくなってくるのです。
チョイと前まではこんなことは思ってもいなかったのだが、これが現実だ。
これからは「御殿場の天下」ですな。
右の写真は、昨日「秩父宮記念公園」で撮ったバラである、「花海棠(はなかいどう)」にもよく似ているが「秩父宮記念公園」のバラ園にあったので、たぶんバラなのだろう。
ただ、「花海棠」も中国原産のバラ科の植物らしいので、本当は何なのかワタシにもよく分からないのである。
さて、今「咲き乱れる」と書いたが、「咲くこと」に関してもう一つの似た表現に「咲き誇る」というのがある。
早速ネット検索をしてみると、「咲き乱れる」とは「たくさんの花が一面に咲いている様子」、一方「咲き誇る」のは一輪であっても複数であっても「周囲を圧倒するほどの存在感のある花が咲いている様子」だという。
つまり、威圧感があるのが「咲き誇る」、ないのが「咲き乱れる」ということだ。
記念公園のバラは威圧感はなかったなあ。
そろそろ紫陽花かと思って出かけたのだが、「紫陽花の花」は、まだほとんど咲いておらず、目についたのが「ドクダミの花」であった。
「ドクダミの花」を見ると思い出すのが、北原白秋の歌 である。
静岡県の軽井沢である御殿場は、これから素晴らしい季節となるのである。冬寒いのだから、このくらいの恩恵はないとね。
ここのところ、「深夜にネットサーフィン」を続けている。
家族が寝静まってからヘッドホンを耳にあててジャズを聴く、これですなあ。
この先、土曜日、日曜日までは雨降りの予想が出ているが、なんと来週の火曜日以降は、三十℃超えの真夏日が続くということである。
ちょっと前に「梅雨入り」だと言っていたのに、やはり異常気象はこれからもずっと続くのだろうか。
すべての若者がそうではなかろうが、極端な例として、結婚式場での「三十分結婚式」というプランがあって、金額も七万円程度で行なうことが出来るらしい。
当然、披露宴の食事などは省略されるのだろうが、良い悪いは別として「とうとうここまで来たか」である。
一日をほぼ「無駄な時間」で過ごしているワタシなんぞ、これから一体どうしたらいいのだろう。
蜂のように刺されることはないと判断して行なった動作なのだが、生徒にしてみれば「有り得ない」行動だったのだろう。
イマドキの若者は虫も触れないのか?
雨は降らないと困るが、降り過ぎても困る、実にやっかいなもののようだ。
六月は「水無月」と書くが、雨が多く「水」があるはずなのに「水」の「無い月」と書くのはこれ如何に。
「水無月」語源の有力な説は、「無」の字は助詞であり、「~の」という意味だという説である。したがって「水無月」は「水の月」、つまり「水が豊富にある月」となるのである。
なるほどね。
この暑さは夏なのである。
暑くはあるが、暑いことを覚悟して空き家になっている沼津の実家まで、草取りに出かける。
あまり草茫々となって、近所から苦情でも出たら困るからだ。
しかしながら、暑い時期の草取りはやりシンドイなあ。
面目ねえ、これは完全にワタシの記憶違いである。
では、何故このような記憶が残っていたのだろう。これはまったく分からない、ただ単にワタシの思い込みなんだろうね。これが歳を取るということなのです。
彼の印象をつらつら考えてみるに(個人的にはあまり興味のある人物ではなかったが)、ミスター(ミスターだけで誰であるか通じてしまうのはすごいなあ)があの有名な「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残した引退のセレモニー時に居た場所が、東京の府中にあった友人の下宿であったことくらいだろうか。
これは今年の梅雨なのであろうか。
今、三年生の古典では「徒然草」の「あだし野の露消ゆるときなく」という教材を講義しているのだが、そこには「命長ければ恥多し。長くとも四十に足らぬほどに死なむこそ、目安かるべけれ。」と書かれている。
「目安かるべけれ」とは、「見苦しくないだろう」という意味だが、「人は長生きすると恥をかくことが多くなる、四十までには死ぬべきだ」と言っているのだ。(おおー、兼好はすごいなあ。)
当時は人生五十年の時代なのであろうが、確かに歳をとってくると「恥」は多いのです。
うかうかしているとスグ七月、七月には期末テストと古典講座が控えている。
そろそろ準備をして行かねばと考えるのであるが、年々準備が億劫になって行くのである。
ところで億劫とは何か?
「億劫」とは、「面倒くさくて気が進まないこと」、簡単な言葉に直すと「やる気がおきない」という意味の言葉である。何かをすることがわずらわしく、実行する気にならないさまを表現する。読み方は「おっくう」が基本であるが、「おっこう」と読むこともある。
これは仏教用語から来た言葉で、「億劫」の「劫」は仏教において長い時間の単位を表す言葉、昔のインドでは「カルパ」と言われ、その漢字「劫波」、さらにこれを略したのが「劫」だという。さらに「劫」の億倍が「億劫」であり、それほど長い時間を表す言葉が「億劫」ということだ。
さて、その答えは「火星」であるのだが、20キロといえば、高さ20000メートル、想像を絶する高さだ、そしてその裾野はなんと600キロメートルにも及ぶそうだ。
もっとも、はるか昔の日本にも高さ10000メートル級の山が、穂高連峰あたりに存在していたらしいので、「なるほどな」である。