何故出ていないかというと、家の中でやらなければならないことがあったからであるが、それにしても不健康なワタシである。
ところで、日本の人口の、およそ三分の一が高齢者であることが今朝の新聞に載っていたが(いわゆる2025年問題)、不安と言えば不安。
勿論、自分も高齢者であるので、不安の原因をつくっているのだが、そのうち何とかなるだろうでは済まないのでしょうね。
何故出ていないかというと、家の中でやらなければならないことがあったからであるが、それにしても不健康なワタシである。
ところで、日本の人口の、およそ三分の一が高齢者であることが今朝の新聞に載っていたが(いわゆる2025年問題)、不安と言えば不安。
勿論、自分も高齢者であるので、不安の原因をつくっているのだが、そのうち何とかなるだろうでは済まないのでしょうね。
「足柄県」というのは1871年(明治四年)に相模の国の西部、伊豆の国を管轄するために設置された県であり、現在の神奈川県西部、静岡県の伊豆半島、さらに東京都の伊豆諸島にあたるという。
ただしこの期間は短く、1876年に第二次府県統合により、相模の国を神奈川県に、伊豆諸島を含む伊豆の国を静岡県に合併、「足柄県」が廃止になったということだ。
「足柄県」の県庁所在地は小田原だったようだが、代官所があった韮山なので、「足柄県」のまま続いていれば、韮山は極めて重要な都市になっていたかもしれないね。
今日は驚きの展開、講座の始まる前にワタシがF高でクラス担任をしていた時の生徒が二人、面会に来てくれたのである。
F高を離れてからもう四十年?ほど。
したがって、二人とも立派な御婦人なのだが、顔を合わせてみると、過ぎ去った長い時間はあまり感じられず、昔の生徒と担任に戻っていたのである。
やはり、友人のメールは嬉しい。
さて、写真は海岸に立つライフセーバーであるが、もう十年以上前、N東高の海浜教室に付き添った際のの写真だ。
海浜教室は伝統行事であったのだが、現在は行なわれていない。このライフセーバーが不足していることもも原因の一つらしい。
炭酸飲料が飲みたくなって近くのドラッグストアまで出かけた。
レジでお金を払おうとしたのだが、最近のシステムは、レジで商品のスキャンをして別のところにある精算機で支払いをする。
要は、そこに表示された金額を支払いすれば良いのだ。いつものワタシであれば百円玉四枚をいれてお釣りを受け取るのであるが、今日のワタシはどういうわけか財布の小銭を処分しようと考え、369円の表示に百円玉三枚、五十円玉一枚、十円玉一枚、五円玉一枚、そして一円玉四枚を入れた(正確にいうと入れたつもりだった)、そしてしっかり「確認」もせず「確認」のボタンを押したのである。
するとどうだろう。
何だか入れた小銭よりも多くの小銭がジャラジャラと出てきてしまったのである。
おそらくお金を投入する際に、どこかで何か(硬貨の種類か枚数)が間違っていたのだろう。(今となっては考えるのも悍ましいのである。)
これがジジイなのである。(誰か慰めてください。)
終わったあとには、「今日も何事ごともなく終了」と、お互いに言葉を交わすのであった。
それにしても今年の暑さはいつまで続くのだろうか。
帰りがけに時の栖でシャワー代わりの温泉。
(写真は菊の花である。)
やはり、夏休み中の何もない怠惰な状況でいるより、程よい緊張と程よい運動ができることは、身体と頭の健康にはとても良いものなのだろう。
しかしながら、講座自体は心地よくできるのであるが、富士山と愛鷹山の間を通る標高千メートルの「十里木街道」で通うこと、これが最近はシンドイのです。
というのも、このブログでは毎日の統計情報を確認することができるので、「一体どこの国の人がブログを閲覧してくれているのか」ということが分かるのである。
このひと月間の統計をみると、全体で4031のページビューがあり、シンガポール2137、日本438、イスラエル176、アメリカ107、と続いている。
どうしてシンガポールの方がこれほど見てくれているのだろう?
うーん、謎だ。
本来であれば、先週ひと月ぶりのテニスが出来るはずであったのだが、先週は台風の異常な動きより、予報がなかなか当たらない、気象庁風に言えば「過去に経験のない」毎日だったのである。
さて、なんといっても久しぶりのテニスは慎重にならざるを得ない、恐る恐る身体を動かした次第である。
ひと月間怠惰な生活をしてきたワタシは、まずは前の身体に戻るリハビリですな。
しかしながら、それはまったくの杞憂、初日からトップスピードの授業であった。
やはり、この辺が年寄りの図々しさと言うか何というか、一度始めると授業など屁でもないのである。
本来ならば、今日から二学期の授業開始のはずであったのだが、金曜日が大雨警報によって休講となり、さらに金曜予定の課題テストがスライドし、ワタシの授業も明日の開始となってしまった。
こういうのを「ドミノ休講」と言うのです。