やはり、御殿場は静岡県ではないのです。
さて今日は部屋の中を少し片づけようと作業を始めたのであるが、あまりの寒さにやる気を蹴散らされ、途中で中断する。
意志が弱いことは自覚していたが、ここまで弱いとは。
やはり、御殿場は静岡県ではないのです。
さて今日は部屋の中を少し片づけようと作業を始めたのであるが、あまりの寒さにやる気を蹴散らされ、途中で中断する。
意志が弱いことは自覚していたが、ここまで弱いとは。
散歩の途中に椿の花を撮ってみた。
「赤い椿白い椿と落ちにけり」現代文の教科書にも時々登場する河東碧梧桐の句である。
一般j的にこの句の意味は「赤い椿は赤い椿、白い椿は白い椿と、それぞれが混じらずに落ちていく」とされる。
椿は花びらが散っていくのではなく、花ごとポトリと落ちるのである。
ハラハラ散るのではなく、ボソッと丸ごと落ちるところに、ワタシは椿の花の潔さを感じるのである。
何故花札かというと、「シカとする=横を向く、相手を無視する」なる言葉の語源が「花札」にあることが分かったからだ。
左に花札の図があるが、この中に鹿と紅葉の札がある。この絵をよく見ると、鹿は振り返るように横を向いているのだ。つまり、鹿がそっぽを向いているのである。
そして、四十八枚の札を一月から十二月までそれぞれ四枚ずつ描く花札において、この札は十月の札であり「鹿」と「十月」、つまり「鹿と十」で「しかのとお」となる。さらにこれが短くなったのが「しかと」なんだと。
「髪切り屋」には十時頃に着いたのだが、二時間待ちだというので、予約だけして出直すことにした。この時期は「髪切り」は随分混んでいるのです。
今晩から天候が荒れるそうだ。これは「春の嵐」なんだろうか。
雨天に阻まれ、三週間ぶりの水曜テニスであった。
やはり、野外で運動するのは気分が良い。運動後に残る筋肉の痛みも何か心地の良いものに思われるのである。
新潟県の駅弁会社(新発田三新軒)を経営している友人より、メールで写真の「牛玉小判」という駅弁が地元紙に取り上げられた旨の連絡があった。(本人の顔写真付きのため、記事は割愛する。)
見出しには「新発田で反撃の弁当」とある。また他の小見出しには「感染禍では業界大打撃」とか「自信作に仕上がった」とか「テレビとコラボ、県産食材多彩」などが見られる。
実はこの「牛玉小判」は昨年の四月二十日にこのブログでも取り上げているのです。ワタシはまだ食していないが、これは美味いにきまっている。
久しぶりに会って、「ところでお前何歳になった。」というお馴染みのギャグをとばしながら、楽しく再会を楽しんだのであるが、沼津に行く際に少々腹立たしいことあり。
今回は御殿場線を利用して行こうと、時刻表を検索してみると、御殿場駅発が「17:02」と「17:09」と異なった時間が出ている。
どちらが正しいのか?
これは御殿場駅に問い合わせてみようと、今度は電話番号をを検索、するとそこには御殿場駅の電話番号の記載がなく、「東海サービス相談室」に電話しろとある。おそらく駅の業務を少なくするためにこんなことをしているのだと思うが、悔しいのはその後だ。
ワタシは面倒だなあと思いつつ「ここまで来たら」と相談室に電話をしてみた。
するとどうだろう、「ただいま電話が混み合っています、しばらくしてからもう一度おかけ直しください」ときたもんだ。相談なんかいらない、02か09かそれを教えてくれれば良いのだ。
このスタイルは多くの会社(例えば、電力会社とか航空会社など)で最近よく見られるのだが、思わず「混み合っているのはこちらの責任ではあるまい、お前たちが回線を増やすなどしてなんとかしろ」とハシタナイ言葉を使いたくなるワタシなのであった。
まあ、この歳になるとお互いの無事を確かめ合うような顔合わせなのであるが、何はトモアレ顔を見ることが出来るのはメデタイのである。
昨日は春の暖かさだったのが、今日は一転して冬の寒さがやや戻ってきた感じ、このまま雪が降るようなことはなかろうが、こう何度も何度も冬と春が繰り返されるのは、ジジイにはチョイとキビシイのである。
如何にも「春」らしくなってきたのであるが、「春」には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合がある。
Wikipediaによると、西洋でもイタリア語の「プリマヴェーラ」(Primavera)」やフランス語の「プランタン(Printemps)」「第一の」を意味する接頭語「プリ(pri-)」を使用しているように「第1の季節」と考えられる。これは農耕暦であるローマ暦において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春が年のはじめとしたことに由来するとある。
また、春から初夏にかけてを木の芽時とも言い、性的活動が盛んになるものとされており「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがある。不思議の国のアリスには、「三月ウサギ」が頭のおかしいものとして登場する。
他ににも春(しゅん)と言った場合には、性的なことを示す場合が多く、たとえば春画・思春期などの語がある。
ほほう、いろいろある訳ですね。
やっと春なのか?
今日の朝刊に県内の教職員の移動が発表されていた。
退職してから十三年も経つと、知っている名前はほとんど見られないが、今日の紙面にはG南時代にワタシがクラス担任として三年間受け持った生徒の名前が見られたのである。
うんうん、立派になったものだ。
ここは所謂「雨夜の品定め」と言われるところであり、五月雨の降る夜、十七歳の光源氏の部屋に若者の貴族三人が集まって「女性論」を展開する話である。
なかでも恋愛の達人、左馬の頭(うまのかみ)という男が展開する女性論の中にはエッと驚くような部分もあるのだ。
左馬の頭いわく「世間の夫婦はみな我慢し合って生活しているのであって、理想の夫婦などはありえないものだ」。
おおー、今から千年以上昔の若者がこんなことを言っているのですぞ。
ただし、気温は冬に逆戻りのような気温であり、外に出ると風のせいか、より冬を感じるのである。
昨日は何日ぶりかで学校へ。
新年度の教科会議であり、国語科の新しいメンバーとも顔合わせ。
ワタシが勤務したのが2019年の4月からなので2025年の3月で、6年の歳月が流れたことになる。(あっという間の6年間だったなあ。)
ワタシの心がけが悪いのだろうか。
静岡県の北駿地方にあたる霊園はまだまだ寒く、今晩遅くには積雪の予想もあるようだ。
今晩MLBの公式試合が東京ドームで行われる。そしてそのことでテレビジョンは大騒ぎである。とんでもないスター選手がいて、野球人気が高まるのは、それはそれで良いことだと思うが、これが日本人の「熱しやすく冷めやすい気質」で終わってしまわなければ良いが。
総会ではいくつかの自治会規約の見直しが成されたのであるが、その中に「当該世帯の全員が満八十歳を超える場合、申請により役員の免除を可能とする」というものがあった。
八十歳を過ぎてからの町内会の仕事は確かに大変であり、この見直しには賛成であるのだが、ワタシの町内を考えた時、あと何年かすると半分に近い世帯が八十過ぎの世帯になってしまうのではないかの危惧も出てくるのである。
これが長寿国日本の宿命なのかもしれない。
花粉だ、煙のように箱根山方面の空を覆っているではないか。
昔はかなり花粉に苦しめられて難儀していたのだが、最近はクシャミと多少の目の痒さ程度で、以前ほどの辛さは感じていない。
これはジジイとなって身体自体が鈍感になったためなのだろうか。
歳をとる、少しは良いこともあるのだなあ。
今までの写真データが使用できず、さらに新たな写真データを入れることができない。
人気テレビ番組「ケンミンショー」で、大阪人がよく使用する(関西人?)当事者責任回避言葉というのを特集していた。
「ちゃうねん」
「許したって」
「知らんけど」
見事である。
と言っても今日のツララではなく、何年か前に撮ったツララだ。
さて、今日は3.11、東日本大震災から14年経った。あの日、地震の起こった時間にワタシは何をしていたのか?
そうそうワタシはN東高で入試の選抜会議に参加していた。大きな揺れに会議は一時中断、ここから後の大騒ぎは言うまでもない。まず登校している生徒を家に帰すこと、震源地から遠く離れているにもかかわらず、交通機関がメチャクチャになっており、学校は大型バスをチャーターして生徒を帰宅させたことが記憶に残っている。
そして、生徒が全員帰宅してから会議を再開、結局会議の終了後、停電で信号が点いていない国道を走り、自宅に帰ったのは午前零時を軽く超えていたのである。
下界は何だかポカポカしていました。
静岡県というのはかくも「ニギヤカナ」県なのである。
本日は学校に書類の提出、生徒の成績の入力確認、さらに学校から出て沼津の「芹沢光治良記念館」で、「芹沢光治良記念館懇話会」の会議と、充実した日であった。
ここのところ、特に予定された時間もなく、暇な時間を送っていたのであるが、久しぶりに充実したのである。
新潟の友人からロバータ・フラックの死を悼むメールがあった。
ロバータ・フラックというのはクラシック音楽のバックグラウンドを持っていて、ソウルやジャズ、フォークの要素を融合させた独自の音楽スタイルを生み出したアメリカのシンガーということである。
その中でも彼女の代表曲として知られる1973年発表の「Killing Me Softly With His Song(邦題=やさしく歌って)」は、ちょうどワレワレの学生時代のど真ん中に発表されており、強く印象に残っている曲だ。
この「Killing Me Softly With His Song」なかなかお洒落なタイトルであり、和訳すると「私を彼の歌でやさしく殺して」となる。邦題では「やさしく歌って」なのだが、どうして「殺して」が「歌って」になったのだろうか。
以下、ネット検索した」和訳を紹介してみる。
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song
私の苦しみを彼の指で奏でて
私の人生を彼の言葉で歌って
私を彼の歌でやさしく殺して
私を彼の歌でやさしく殺して
私の人生のすべてを彼の言葉で語って
私を彼の歌でやさしく殺して
Strumming my pain with his fingers
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song
私の苦しみを彼の指で奏でて
私の人生を彼の言葉で歌って
私を彼の歌でやさしく殺して
私を彼の歌でやさしく殺して
私の人生のすべてを彼の言葉で語って
Strumming my pain with his fingers
Singing my life with his words
Killing me softly with his song
Killing me softly with his song
Telling my whole life with his words
Killing me softly with his song
私の苦しみを彼の指で奏でて
私の人生を彼の言葉で歌って
私を彼の歌でやさしく殺して
私を彼の歌でやさしく殺して
私の人生のすべてを彼の言葉で語って
私を彼の歌でやさしく殺して
まったく予想ができないのが最近の天気、果たして今後どうなることやら。
昨日、東北新幹線で車両の連結器に不具合があり、青森行きの「はやぶさ」と、秋田行きの「こまち」が走行途中に切り離されてしまった。
この事故により、これから当分の間「切り離し」がなくなるそうだ。
昨年十二月にワタシも福島で、仙台行き「やまびこ」と切り離される山形行きの「「つばさ」に乗車したのであるが、この「切り離し」がなくなると、エラク迷惑するだろう。何も責任のない乗客が迷惑するのは何か理不尽だなあ。
昨日の雪や雨は岩手県大船渡市の山火事に有効に働いたようだ。やはり自然の力は偉大である。
本年度も明日の「答案返却」をもって、すべての授業が終了する。
長いようで短い一年間であった。
おかげで今日の水曜テニスは中止とした。
今日は静岡県の公立高校の入試日、御殿場にある高校を受験した中学生、特に沼津などから上がってくる生徒は、この雪にさぞ驚いたことであろう。
まだ表面的にしか白くなっていない「裏庭の景色」だが、時間が経つにつれて気温が低下してきているので、今夜は積雪を記録するに違いないだろう。
道路の管理団体も今回の雪に関しては対応が早く、午後の四時からは東名高速道路を「予防的通行止め」にするそうである。
明日はT高校の学年末試験最終日なので、聊か実施が心配だ。
昨年からこの日本は、地震、大雨、酷暑、大雪、そして現在の山火事と、災害が続いている。
やはり、何かがオカシイのである。
明日から明後日にかけて静岡県にも降雪の注意報が出ているのです。
これは今、駅弁という日本独特のカルチャーにスポットが当てられているということで、東京駅の駅弁売り場に「突撃」、そこでの人気駅弁のひとつとして「えび千両ちらし」が挙げられたのである。
このブログにも何回か登場している「えび千両ちらし」であるが、自分の友人の「作品」であるこの駅弁が取り上げられることは、自分事のように嬉しいのである。
令和六年度の講座のタイトルは「何を今さら源氏物語」である。
昨年度の大河ドラマは「紫式部」の話だったので、それに肖り「源氏物語」としたのであるが、初回の今日はやや時間が足りず、残りを次回にまわすことになってしまった。
事前に予想されたこととはいえ、反省である。