2016年9月22日木曜日

「ひとりの火もえさかりゆくを」

 「ひとりの火の燃えさかりゆくを」

いよいよ、今回紹介している「ずんぶり浸る展」の最後の句となった。

句は冬の句である。
ここは野宿ではない。
場所はどこかの庵、きっと世話をしてくれる人がいたのであろう。
しかし、その庵には自分ひとりしかいない。
外は寒い雨。
ひとり酒をのみながら、ジッといろりの火を見つめている。
そのような風景が目に浮かぶ。

さて、書は、壁面をすべて使ったスケールの大きい書である。
素人目にもその力強さが感じられる。
これはSさんの目指す書でもある。




書に対抗するには、まず迫力。
そこで写真は体育祭の女子の競技種目「棒取り」に決め、この競技の開始直前の顔で表現することにした。
ブログでは残念ながら、写真をハッキリさせることはできないが、みな迫力満点である。
これはほんとうに残念だ。

またサイズも書の大きさに見合うようA3サイズの写真を4枚揃えてみた。
ウーン、これでもなかなか勝負はできないな。





句の解釈の参考とするため、「ひとりの火燃えさかりゆくを」の出どころを調べてみた。


「其中日記」

十二月二十六日(昭和7年)


よいところがあればわるいところがある、
わるいところがあればよいところがある、
重点はその分量如何にある。
心一つ、  心一つの存在である。
雨そして酒、外に何の求むるところぞ。


冬ざれの水がたたへていつぱい
ひとりの火もえさかりゆくを



また、「三八九雑記」には次のようにある。

大根と新菊とはおしまいになった。ほうれんそうがだんだんとよくなった。こやし――それも自給自足――をうんと与えたためだろう。ちさはあいかわらず元気百パア、私も食気百パアというところ。
 畑地はずいぶん広い、とても全部へは手が届かないし、またそうする必要もない、その三分の二は雑草に委任、いや失地回復させてある。

よう燃える火で私ひとりで
大きな雪がふりだして一人
いたづらに寒うしてよごれた手
もう暮れたか火でも焚かうか
いちにち花がこぼれてひとり
雪あしたあるだけの米を粥にしてをく
ひとりの火の燃えさかりゆくを
 
 これらの句は、日記に記しただけで、たいがい捨てたのですが、わざとここに発表して、そしてこの発表を契機として、私はいわゆる孤独趣味、独りよがり、貧乏臭、等、を清算する、これも身心整理の一端です。




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