いよいよ、今回紹介している「ずんぶり浸る展」の最後の句となった。
句は冬の句である。
ここは野宿ではない。
場所はどこかの庵、きっと世話をしてくれる人がいたのであろう。
しかし、その庵には自分ひとりしかいない。
外は寒い雨。
ひとり酒をのみながら、ジッといろりの火を見つめている。
そのような風景が目に浮かぶ。
さて、書は、壁面をすべて使ったスケールの大きい書である。
素人目にもその力強さが感じられる。
これはSさんの目指す書でもある。
書に対抗するには、まず迫力。
そこで写真は体育祭の女子の競技種目「棒取り」に決め、この競技の開始直前の顔で表現することにした。
ブログでは残念ながら、写真をハッキリさせることはできないが、みな迫力満点である。
これはほんとうに残念だ。
またサイズも書の大きさに見合うようA3サイズの写真を4枚揃えてみた。
ウーン、これでもなかなか勝負はできないな。
句の解釈の参考とするため、「ひとりの火燃えさかりゆくを」の出どころを調べてみた。
「其中日記」
十二月二十六日(昭和7年)
よいところがあればわるいところがある、
わるいところがあればよいところがある、
重点はその分量如何にある。
心一つ、 心一つの存在である。
雨そして酒、外に何の求むるところぞ。
冬ざれの水がたたへていつぱい
ひとりの火もえさかりゆくを
また、「三八九雑記」には次のようにある。
大根と新菊とはおしまいになった。ほうれんそうがだんだんとよくなった。こやし――それも自給自足――をうんと与えたためだろう。ちさはあいかわらず元気百パア、私も食気百パアというところ。
畑地はずいぶん広い、とても全部へは手が届かないし、またそうする必要もない、その三分の二は雑草に委任、いや失地回復させてある。
よう燃える火で私ひとりで
大きな雪がふりだして一人
いたづらに寒うしてよごれた手
もう暮れたか火でも焚かうか
いちにち花がこぼれてひとり
雪あしたあるだけの米を粥にしてをく
ひとりの火の燃えさかりゆくを
大きな雪がふりだして一人
いたづらに寒うしてよごれた手
もう暮れたか火でも焚かうか
いちにち花がこぼれてひとり
雪あしたあるだけの米を粥にしてをく
ひとりの火の燃えさかりゆくを
これらの句は、日記に記しただけで、たいがい捨てたのですが、わざとここに発表して、そしてこの発表を契機として、私はいわゆる孤独趣味、独りよがり、貧乏臭、等、を清算する、これも身心整理の一端です。
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