2016年9月21日水曜日

「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。」


「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。」

今日のお題である。
これは句ではなく、山頭火の随筆での一部ある。
書のSさんからこのフレーズを提示された時、抵抗はほとんどなかった。
多分、一枚の写真が頭に浮かんだからである。

個人の写真ゆえ、サイズは小とする。
体育祭の折、彼にカメラを向けると、ふざけて変顔をした。
この変顔があまりにも面白く写っていたのである。
おおー、これは何かに使えるぞと思っていたのだが、ここで使えるとは。
書はSさんの書風である「豪」が感じられる。
サイズは小さいが、画面からはち切れそうなタッチである。

「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ」
うーん、インパクトのあるフレーズだ。

あまりにもインパクトあるので、以下、随筆の原文を載せてみる。


私を語る
(消息に代えて)

種田山頭火

私もいつのまにやら五十歳になった。五十歳は孔子の所謂、知命の年齢である。私にはまだ天の命は解らないけれど、人の性は多少解ったような気がする。少くとも自分の性だけは。――

 私は労れた。歩くことにも労れたが、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた。袈裟のかげに隠れる、嘘の経文を読む、貰いの技巧を弄する、――応供の資格なくして供養を受ける苦ママには堪えきれなくなったのである。

 或る時は死ねない人生、そして或る時は死なない人生。生死去来真実人であることに間違はない。しかしその生死去来は仏の御命でなければならない。

 征服の世界であり、闘争の時代である。人間が自然を征服しようとする。人と人とが血みどろになって掴み合うている。
 敵か味方か、勝つか敗けるか、殺すか殺されるか、――白雲は峯頭に起るも、或は庵中閑打坐は許されないであろう。しかも私は、無能無力の私は、時代錯誤的性情の持主である私は、巷に立ってラッパを吹くほどの意力も持っていない。私は私に籠る、時代錯誤的生活に沈潜する。『空』の世界、『遊化』の寂光土に精進するより外ないのである。

 本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。

 

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