今日のお題である。
これは句ではなく、山頭火の随筆での一部ある。
書のSさんからこのフレーズを提示された時、抵抗はほとんどなかった。
多分、一枚の写真が頭に浮かんだからである。
個人の写真ゆえ、サイズは小とする。
体育祭の折、彼にカメラを向けると、ふざけて変顔をした。
この変顔があまりにも面白く写っていたのである。
おおー、これは何かに使えるぞと思っていたのだが、ここで使えるとは。
書はSさんの書風である「豪」が感じられる。
サイズは小さいが、画面からはち切れそうなタッチである。
「本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ」
うーん、インパクトのあるフレーズだ。
あまりにもインパクトあるので、以下、随筆の原文を載せてみる。
私を語る
(消息に代えて)
種田山頭火
私もいつのまにやら五十歳になった。五十歳は孔子の所謂、知命の年齢である。私にはまだ天の命は解らないけれど、人の性は多少解ったような気がする。少くとも自分の性だけは。――
私は労れた。歩くことにも労れたが、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた。袈裟のかげに隠れる、嘘の経文を読む、貰いの技巧を弄する、――応供の資格なくして供養を受ける苦
或る時は死ねない人生、そして或る時は死なない人生。生死去来真実人であることに間違はない。しかしその生死去来は仏の御命でなければならない。
征服の世界であり、闘争の時代である。人間が自然を征服しようとする。人と人とが血みどろになって掴み合うている。
敵か味方か、勝つか敗けるか、殺すか殺されるか、――白雲は峯頭に起るも、或は庵中閑打坐は許されないであろう。しかも私は、無能無力の私は、時代錯誤的性情の持主である私は、巷に立ってラッパを吹くほどの意力も持っていない。私は私に籠る、時代錯誤的生活に沈潜する。『空』の世界、『遊化』の寂光土に精進するより外ないのである。
本来の愚に帰れ、そしてその愚を守れ。
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