朝刊の「折々のことば」に、村上龍の小説「ラブ&ポップ」の文章が引用されていた。
「理解し合えるはずだという前提に立つと、少しでも理解できないことがあった時に、事態はうまくいかなくなる」
この文章に対して、鷲田清一は言う。
対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるためになされると考えると、いずれかが理解を断念したとき、対話は閉じられる。
理解できなくてあたりまえ、むしろ語り合えば語り合うほど相手と自分との違いがより微細に見えてくる、それを対話だと考えれば、理解しえずとも共にいられる場所は少し広がる。
うーん、その通りだ。
同じ紙面の「天声人語」にはこんなことも書かれていた。
「善処します」
かつて永田町や霞ヶ関界隈で盛んに使われた言葉である。
前向きと見せて放置しておく場合に便利である。
この言葉の危ういところは、一歩間違えると、とんでもないことになるらしい。
「天声人語」ではこう続けられている。
1969年、日米首脳会談で佐藤栄作首相が「善処します」と発言。
日本人の通訳は「アイ・ウィル・ドゥ・マイ・ベスト」と訳したとされる。
相手のニクソン大統領は輸出規制の確約を得たと受け止めた。この「誤訳」が両国の関係悪化を招いたと語り継がれてきた。
偶然だろうが、何か繋がる記事であった。
0 件のコメント:
コメントを投稿