昨日は漢文の諸葛孔明のことを書いたのだが、今日は、孔明が仕えた劉備、その劉備の部下であった関羽のことを書いてみる。
教科書にも、劉備が孔明を重用して、部下の関羽が僻む話が出てきているのだが、私が不思議に思うのは、劉備の部下にすぎなかった関羽が、横浜や神戸の中華街にある「関帝廟」でわかるように、どうして神のように人々から崇められるようになったのだろう、ということである。
そこで、いろいろ調べてみると、次のようなことが分かった。
関羽はもともと下層の出身だけに、上の者には反骨の意識が強かったようだ。下の者には厚く接する一方で、上の身分のものを蔑むようなところがあり、そのため恨みを買う事になった。
そして後に魏と呉が関羽を排除するための連合を組むという最悪の事態を迎え、関羽は養子の関平と共に呂蒙に討たれる事となった。
しかしながら関羽を討った呂蒙は直後に病死(219年末)、魏の曹操も220年3月に病死するなど。
関羽の死に関わった人物が幾人も関羽の死から時をおかず相次いで倒れた。
もともと中国には、通常の死ではなく非業の死を遂げた人は強い霊力が宿ると考えられており。関羽の死の後に起こった関係者の死に、超自然的な力を感じ取ったのではないかということである。
なるほどね。
日本でも「菅原道真」の怨霊を鎮めるために、いろいろなところに「神社=天神」を造った事実がある。
「関帝廟」は「天神」の中国版なのだろう。いやいや「天神」が「関帝廟」の日本版なのだ。
(今日の写真、昨日の写真は軽井沢にある「雲場池」で撮ったもの。)
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