2013年1月31日木曜日

「浮遊」するコスモス

「浮遊」
意味は、空中や水面に浮かび漂うこと。また行先を定めないで旅行すること。

コスモスという花は、この「浮遊」感が、非常に感じられる花である。(この思いは私だけか?)
これは茎が長い上に、その花びらがプロペラみたいに見えるからであろうか。
いかにも空中を「浮遊」し、また彷徨っているようでもある。

 「浮遊」という言葉、私はその雰囲気から外国語を日本語に翻訳するときに出来た造語なのだろうと思っていた。しかし、意外に古くから存在しており「源平盛衰記には、次の表記があるそうだ。
「本朝鼎臣(ていしん)の外相を以て異国浮遊の来客見えん事・・・・・」

2013年1月30日水曜日

続逆光線

今日も逆光線である。
なぜ逆光線かというと、どうしても森田童子(どうじ)の歌を書いてみたかったからである。

この歌は重い。
(森田童子は、1993年に「高校教師」というドラマの主題歌「ぼくたちの失敗」で一躍有名になった不思議な雰囲気を持つ歌手である。)

以下森田童子「逆光線」の歌詞を紹介してみる。

 淋しいぼくの部屋に
 静かに夏が来る
 汗を流してぼくは
 青い空を見る
 夏は淋しい白いランニングシャツ
 安全カミソリがやさしく
 ぼくの手首を走る
 静かにぼくの命はふきだして
 真夏の淋しい蒼さの中で
 ぼくはひとり
 やさしく発狂する
 ウーン ウーン ウーン
 ウーン ウーン ウーン
 
逆光線というのは、やはり暗いイメージなのだろうか。

2013年1月29日火曜日

逆光線

「逆光線」
三省堂の新明解国語辞典で引くと、次のような意味が出ている。

「見ようと(撮ろう)とする対象の後方からさす光線。(この状況で写真を撮ると、被写体が黒く写る。)」

今回の写真展において、私がテーマにしたのは「コスモス」という花であったのだが、よく自分の写真を見てみると、多くの写真が逆光で撮られていることがわかる。
「意識して撮ったのか。」と問われるならば、答えは「YES」だとも「NO」だとも言える。
逆光は実に面白いのだ。
しかし、へたをすると写真が台無しになってしまう。
 きっと「面白さ」は「まっくろけ」とのせめぎ合いから現れてくるのだろう。

2013年1月28日月曜日

若い感性

写真展二日目。
本日もいろいろな方にご来場いただきました。
中には三十数年ぶりの方も。
遠くからおいでいただいて
本当に感謝申し上げます。

写真展の合間にN高、芸術科の美術専攻卒業展を見に出かけた。
美術専攻といっても
油絵あり、デザインあり、映像、彫刻と様々なパフォーマンスを見せてもらった。
やはり、若い感性というのは見るからに勢いがあって、羨ましい限りである。

アタシも四十年前は、同じような感性があったはずなのだが、あの感性は一体、何処へ行ってしまったのでしょうかね。

2013年1月27日日曜日

写真展始まる。

一月二十六日(土)
写真展が始まった。
初日より、多くの人に来ていただいた。
ご来場ありがとうございます。
 昨年は一人であったが、今年は二人なので、心強い、また昨年の経験のせいか、だいぶ落ち着いていることができる。
何事においても経験というのは身に付いて行くものである。
 さて、来場していただいた人の中に、F高時代の教え子がいた。彼女は彼女の母上と一緒に来てくれたのだが、二人と話をしているうちに、ふっと三十年前にタイムスリップした気分になった。
自分がF高の三年の担任で、彼女達と、三者面談をしているのである。
 これが教員の性(さが)というものなのだろうか。

2013年1月26日土曜日

中江兆民

国公立二次試験対応の補習で、中江兆民の「国家の夢、個人の鐘」を勉強した。
なかなか凄い文章である。
中江兆民というのは、明治時代の思想家であり、フランスの思想家ルソーの「民約論」を翻訳したことで有名である。
兆民は人間について、次のように言う。
「一言すれば神と悪魔とより愛せられて常々これが玩弄物となる、一種不可思議の動物なり。」
通訳すると、「(人間は)一言でいえば神と悪魔の双方から可愛がられて、いつもその愛玩物になっている、一種不思議な生き物である。」
当たり前と言えば当たり前なのだが、非常に印象的な言葉だ。
明治の人間は凄いなあ。

2013年1月25日金曜日

「青さ」







  1. このところ写真の説明がなされていなかったのであるが、実はここ何枚かは雪景色の写真なのである。
左の写真も、じーっと見てみると、枝の上に薄く雪がついているのだ。
時間は午前j10時ころ。
左側から太陽の光が射し込んできて、枝の上の雪がキラキラ光っている。

雪も良いが、この時間の空もなかなか魅力的である。
「青い」のである。
その「青さ」がなんとも言えない「青さ」なのだ。
ただし、空だけを撮っても面白くはない。
ひたすら青いだけでは面白くないのだ。
空と自分の間に、別の何かが必要となのである。
別の何かが入って、はじめて空の「青さ」が生きてくる。

人間と人間の関係もあまりダイレクトでは、きっと面白くないのだろう。
間に何かが入ると面白くなってくるのだ。





2013年1月24日木曜日

ウロウロ

「ウロウロする。」という言葉がある。
「ウロ」というのは、「有漏」と書く。
「有漏」の「漏」とは「煩悩」のことである。
すなわち、「有漏」は「煩悩」が「有る」状態のことだ。
人間は、煩悩を持っているので、彷徨ってウロウロすることになるのである。
では「煩悩」てぇのは何だろう。
「煩悩」とは「精神安静の邪魔となる一切の欲望とか執着、あるいは、怒り、妬みのこと」とある。
つまり
人間は怒り、ねたみでウロウロするのだ。
とすると、あまりウロウロしている人には、近寄らないほうが良いようだ。

ただし、私なんぞは、しょっちゅうウロウロしているのだが、別に怒りとか妬みは持っていないのですがね。

2013年1月23日水曜日

大同書

ちょっと前に漢文の演習で、康有為の「大同書」を講義した。
その中には、戦争をなくす方法について書かれた部分がある。

「大同書」に曰く。
国家をなくさずに戦争をなくそうというのは不可能である。
したがって、人々の生活を安らかにするには、国家を除去しなければならない。
国家とは、乱れた世の中ではやむを得ない自衛手段だが、平和な世の中では争いを引き起こす元になるものである。

うーん
なるほどである。
彼は「国家を否定し、国家の存在を否定するより他に、人民を救う道はない。」
というのだ。
確かに、国家が存在しなければ、領海とか領空の問題は存在しないよね。


2013年1月22日火曜日

一枚あばら

大鵬という偉大な元横綱が亡くなった。
新聞の社説などでも、彼の素晴らしさを盛んに取り上げていたのだが、共通しているのは、「大鵬は天才と言われていたが、けっしてそうではない。人一倍稽古をした努力の人なのである。」ということであった。
 このコメントはこれからも多くの機会に使用されるのであろうが、面白かったのは、大相撲の解説者である北の富士のコメントである。
 北の富士「大鵬さんは一枚あばらと言われたんですよ、あばらの間隔が狭くて一枚板のようでね。雷電為右衛門(江戸時代のムチャクチャ強かった大関)もそう言われていたのかな」
 つまり北の富士の言いたいことは、「確かに大鵬はよく稽古をしたのだろうが、相撲にとって、なくてはならない素晴らしい体を生まれつき持っていたのだ。」ということなのだろう。
「一枚あばら」とは、あたかも肋骨が一枚の板があるかのように、厚みのある体形だという。
すべての事実は多角的に見なければなるまい。
努力することは素晴らしい、しかし、努力だけではどうにもならないこともあるのだ。

2013年1月21日月曜日

センター試験、お疲れ様。

三年生諸君、センター試験お疲れ様でした。
国語はやや難という予備校のコメントが出ていたが、実際はどうだろうか。
私も問題を見てみたが、古文は歌の解釈が大変そうだったね。文法問題は「むべなり」という形容動詞が解るかどうかの問題。最後の二択が肝心。
 もし、ヤバいと思った諸君がいるのであれば、大学受験というのは、相関的なものなので、「失敗。」などと考えるのは、早計だろう。
データが出てくるまでは、あきらめないで欲しい。
はやいところ気分を切り替えて、次の準備にとりかかろう。
 

2013年1月20日日曜日

SANAA

NHKの番組で「SANAA」という日本の建築家ユニットの特集をしていた。
「SANAA」は国際的に活躍する建築家、妹島(せじま)和世と西沢立衛(りゅうえい)がタッグを組む建築ユニットで建築界のノーベル賞と言える「ブリッカー賞」を受賞しているのだそうだ。(うーん、恥ずかしながら知らんかったなあ。)
 このユニットは日本よりも海外のほうが有名であり、フランスのルーブル美術館のランス分館なども手がけたということである。(これは多分すごいことです。)
そして、このルーブル分館を手がけるにあたっては、建築界の女帝イラク・バグダッド出身の女性建築家ザッハ・ハディッドと激しく競ったのだと。
最終的な決め手となったのは、ルーブルの館長の決断であった。館長は彼らのコンセプトに大いに感心していた。

彼らのコンセプトは「自然との調和」。
日本建築の伝統をしっかり踏まえた手法は、海外で高い評価を得ている。
しかしながら、日本ではそれがまだ浸透しておらず、最近おこなわれた日本の新国立競技場のコンペでは、ルーブルとは逆にSANAAはザッハ・ハディーに負けてしまったのである。
この番組の意図は、どうも「どうして、日本の建築界はSANAAを十分に評価しないのだ。」の感があるようであった。私も同感である。

2013年1月19日土曜日

いよいよセンターテスト

17日から18日にかけて御殿場はまた雪。
18日の午前中、雪景色でも撮ろうと思って、二の岡を徘徊。(写真は二の岡神社前である。)人のあまり歩かない道は、除雪されておらず、すっかり、雪国のようだ。
「ここは本当に静岡県か。」の感である。
 
 さて、N西、N東の三年生諸君。
いよいよ「センターテスト」ですね。
後悔のないように、全力を尽くしてください。
「あせらない」
「あなどらない」
「あきらめない」
これを「センターテスト」の「スリーA」と言います。
何々「そんなスローガン聞いたことがないぞ」って。
そうです、これは私が今「思いつき」で言ったのですから。
まあ「思いつき」でも大事な言葉には違いないので、「あせらない」「あなどらない」「あきらめない」ようにして全力を尽くしてきてください。

2013年1月18日金曜日

ニュース

今日のでニュースで、アルジェリア(北アフリカ)の石油プラントにおいて日本人を含む多くの人たちがイスラム過激派によって攻撃され、人質にされた事件が伝えられた。
 その中で日本人の人質は、「日揮(にっき)」の社員であることも併せて伝えられていた。
「日揮うーん何だろう。」と例によってウィキペディアで調べてみると、「日揮」というのは、日本揮発油株式会社の略。
日本のエンジニアリング会社の代表企業で、主な業務は「製品を作る製造設備を造る事」であるという。
 この場合の設備とは、石油精製プラント、石油化学・化学プラント、天然ガス処理プラントということだ。
「日揮」のほかに、東洋エンジニアリング、千代田化工建設の三つをエンジニアリング御三家と呼んでいたが、現在は「日揮」が他の二社を大きく引き離しているということである。「うーん知らんかった。」

 ニュースではいろいろな情報が錯綜していて、はっきりしたことは現段階ではわからないが、一番の願いは人質が無事に解放されることである。

2013年1月17日木曜日

名古屋キッチュ

キッチュというドイツ語がある。
「けばけばしさ」「古くささ」「安っぽさ」を積極的に利用し評価する美意識らしい。
またキッチュの定義として、「陳腐である」という表現もあるが、別の角度から見ると、「あまりにも陳腐であるがゆえに、周囲のの注目を集め、独特の存在感を持つこと」とも考えられる。
私が一番フィットした意味は、「意外な組み合わせ」または「あり得ない組み合わせ」だ。
特に「あり得ない組み合わせ」は「言いえて妙」である。
 さて、右の写真であるが、国語科のF先生からいただいた「小倉トーストラングドシャー」クッキーだ。要するに「餡バタクッキー」である。「あんこ」と「バター」をクッキーにはさんでしまうこの発想、。この発想は名古屋において、多方面に発揮されている。何といっても「てんぷら」を「オムスビ」にはさんでしまい「てんむす」をつくり、デニッシュの上にソフトクリームをのせ、さらにシロップをかけて「シロノワール」をつくってしまうお国柄なのだから。
 私はこの発想を「愛」を込めて「名古屋キッチュ」と呼ぶことにした。

2013年1月16日水曜日

雪、その後

昨日の写真は午前中の写真であったが、雪は午後から勢いよく降ってきた。
下の写真は夕方、雪かき後の写真である。
門の上の雪の高さが積雪量。

ところで、全国版のニュースでも盛んに言っていたが、雪が降った後の凍結した道路には、細心の注意が必要なのである。
何はともあれ「なめたらあかん」
車の運転もまさに「なめたらあかん」であって、私なんぞ「四輪駆動」で「スタッドレスタイヤ」をつけていても絶対に無理はせんもんね。
というのも、過去に危機一髪の状況が何回かあったからだ。
ある時は横滑りして、雪の壁にドスン。またある時は車がスピンして田んぼにタイヤが半分落ちかけたことも。
やはり、経験が人を成長させるのです。

2013年1月15日火曜日

御殿場に雪

御殿場は雪であった。
写真は午前中に自宅の窓から撮ったものであるが、この後も雪は降り積もり、恐らく最終的には15センチ以上の積雪があったのではないかと思われる。
おかげで今日は雪かき。
腰が痛いのである。
この時期の大雪というのは、17年ぶりとニュースで言っていた。
高3の生徒は生まれたばかりの頃ですな。

さて、「雪」であるが「ユキ」と読む他に、「スス」ぐという読みがあるので、受験生は注意すること。
「雪辱(せつじょく)」の「雪(せつ)」である。
「雪辱」とは、「辱(はじ)」を「ススぐ(そそぐ)」ことだよね。
また、「雪意(せつい)」という言葉があって、これは「雪の降りそうな気配」とか「寒気」を意味するそうだ。

2013年1月14日月曜日

「フォト2人展」のお知らせ

オフィシャルの写真展案内状が出来上がった。
写真展のタイトルは「N高の教員フォト2人展」
である。
 1月26日(土)より、2月3日(日)まで、仲見世のマルサン書店地階で開催。
 昨年は一人ですべてを仕切らなければならなかったので、聊かシンドカッタのであるが、今年は少々気が楽である。
タッグを組むのは写真部の顧問の先生。
35ミリの白黒の写真だ。私のほうがデジタルでカラーなので、対照的な写真展となりそうだ。
 私の方は、9月から撮ってきた「コスモス」の花をここでまとめてみることにした。
写真の多くはこのブログに載せたものであるが、サイズが異なるのでそれなりの面白さはあると思う。

時間が許す方は、是非ご覧になっていただきたいと思います。


2013年1月13日日曜日

富士山

富士山を撮ることは私自身、きわめて恥ずかしい気がする。この恥ずかしさは、一体なんだろうか。
あまりにも正々堂々としているからか?
昔から自分自身、「正々堂々として、これっぽっちも後ろめたさが感じられない」といったタイプの人間は苦手であった。
それよりも、「なにかありそうだなこの人は」というほうが親近感が持てたのである。



自宅から撮影した富士山である。
今日の富士山は一日中、姿を現していた。
こんなことは珍しいことである。
我が家からの富士山は、家の左側の窓から撮ると富士山の右側が隠れる。
また右側の窓から撮ると左側が隠れるのである。
上手くいかないものだと、思っていたが、よく考えてみると、すべてが見えないほうが魅力があるのかも知れない。
人間もこれと同じ。
すべてが見えない人間のほうが、なんとなく魅力があるような気がする。

2013年1月12日土曜日

吉田のうどん

天気も良く、気分もそこそこに良く、温泉に入りたいモードがモコモコと出てきた。
これは、紅富士の湯だと車に飛び乗り一目散。
県境を越え、山梨県に入ると、そこにはいつ降ったのか雪の姿もチラホラ。
山一つを超えると、こんなにも景色が違うのかの感。

三、四十分で温泉到着。
露天風呂に浸かると、目の前にはどーんと富士山。
久しぶりの雲なし富士であった。

温泉は山中湖村なのだが、そこから少々走ると富士吉田。
富士吉田の名物は「うどん」である。
ここの「うどん」は極めてシンプル。
右にパンフレットを載せたが、具はキャベツ、油揚げが基本で、代金は三百円前後が普通。
右の写真の「うどん」は「肉うどん」なので三百五十円程度だろう。
特徴は「チョーコシのある麺」
私は好みだが、固い「うどん」の嫌いな人には向かない「うどん」だ。

2013年1月11日金曜日

「イノダ珈琲」のインスタントコーヒー

国語科のM先生が研究室に京都「イノダ珈琲(京都ではコーヒーと言わずコーヒと短く切る)」ブランドのインスタントコーヒーを差し入れしてくれた。
なんと、定価1700円の高級インスタントコーヒーである。
みんなでさっそく試してみる。「うーん」意見は様々であった。
 ところで、インスタントコーヒーには二種類のコーヒーがあるのをご存じだろうか。
私もなんとなく、「粒子の細かさで分けられているかな。」程度の意識はあったが、製法がまったく違っていることは知らなかった。
以下、ウィキペディアから引用する。
 
 スプレー・ドライ法
高温の乾燥筒の中に、高温のコーヒー液を噴霧して素早く乾燥させる方法。一般的に気流乾燥装置と呼ばれる。製品は微粉状となる。冷たい水にも溶けやすいという利点があり量産性が高いが、製造時の熱によって香味をやや損ないやすい。香味の損耗については製造工程の改善もあり熱風中に数秒間ブロー乾燥させたのちすぐに冷却される程度のものであり極端なものではない。(代表例:ネスレ「ネスカフェ エクセラ」、AGF「ブレンディ」等)

 フリーズ・ドライ法
コーヒー液をマイナス40℃以下で一度凍結させた後に細かく砕き、真空状態にして水分を蒸発させる方法。製品は2~3mm程度の大きさで角が尖った粗い粒状となる。スプレードライ法に比して香味は損なわれにくいが、製造に手間がかかるためやや量産性に劣る。このため、スプレードライ法の製品より価格は高め。(代表例:ネスレ「ネスカフェ ゴールドブレンド」、AGF「マキシム」等)

「へエー、知らんかったなあ。」
「イノダ」のインスタントコーヒーは、勿論フリーズドライ法である。

2013年1月10日木曜日

鳥銀

「シロノワール」に続いて今日も名古屋シリーズ。
 
名古屋市内の東新町に、「鳥銀」という名古屋コーチン(名古屋コーチンというのは、比内地鶏・薩摩地鶏とあわせて三大地鶏として有名な地鶏。)を食べさせる店がある。
「鳥銀」は同じく市内の錦にもあるのだが、趣きはまったく異なっている。
(この二つの「鳥銀」は似て非なるもの、両方とも「鳥銀」という名を使っているので、どうも元々の出所は同じようであるが、今はほとんど関係はないらしい。きっとここには何かドラマがあったのであろう。)
 さて、どちらかというと錦の「鳥銀」の方がポピュラーであり、大きな店なのだが、私にとっての「鳥銀」は圧倒的な差で東新町の「鳥銀」である。
ここの「鉄鳥」という料理が実に美味いのである。
「鉄鳥」は鉄の浅い鍋に鶏肉を入れ、出汁を入れ、その上に山盛りのネギをのせるだけのシンプルな料理である。しかし、これが美味い。シンプル・イズ・ベストである。
「おおー、「鳥銀」の「鉄鳥」が食べたーい。」

2013年1月9日水曜日

コメダ珈琲のシロノワール

今日のN西国語研究室の話題は、専ら「コメダ珈琲」のことであった。
「コメダ珈琲」というのは、愛知県にベースを持つ珈琲のチェーン店である。今、県の東部に盛んに進出しているのだ。一昨年には沼津の鳥谷というところ、昨年は富士、そして現在長泉町と裾野に新店舗をつくっているとのこと。
 名古屋コテコテ文化(私はこの文化が結構好きである。)の象徴が、この「コメダ珈琲」だと私は思っている。
珈琲も美味しいのであるが、なんといっても「コメダ」は「シロノワール」。
「シロノワール」というのは、フランス語で「黒い」ことを「ノワール」といい、黒っぽいデニッシュ生地のパンケーキの上に白いソフトクリームが乗っていることから、「白のワール」つまり「シロノワール」となったとのだそうだ。
 デニッシュパンにソフトクリームを乗せるのですぞ。これだけでも驚きに値するのだが、実は、さらにこの上からシロップをかけて食べるのがフツーの食べ方。
最初にこの物体を見た時の驚き、「おおー、これは仏舎利塔か。」。

2013年1月8日火曜日

三学期の始まり

写真は逆さまではありません。
木がこちら側にせり出しているだけなのです。
 
 さて、三学期の始まりである。
そう言えば一時、三学期制がすたれて、二学期制というか二期制がどこの学校でも流行った時代があった。
今の生徒諸君にとっては、遠い昔のことで、「何だそれは。」になってしまうが、九月までが前期で、秋休みがあり、十月のいつからか後期が始まるといった時代があったのです。
今思うと、「あれは一体何だったんだ。三期を二期にして、また二期を三期に戻す。とてもエネルギーのいる作業だったのに。」の感。

世の中というのは、こんなことをしながら進んでいくのですね。

2013年1月7日月曜日

白いブラックサンダー

世の中には妙なネーミングのお菓子があるものである。
これは北海道限定の、クラッシュクッキーをホワイトチョコレートでコーティングしたお菓子、北海道の札幌市に工場のある「有楽製菓」の製品である。(本社はどうも愛知県らしい。)
とても美味しく、北海道土産として買ってくるのであるが、このネーミングにはいつも笑ってしまう。
なんと言っても「白い、黒い雷神」なのだ。名前だけで想像すると、「白い」のか「黒い」のか一体どっちなのだと、疑問を持ってしまうだろう。ネーミングの意味がよくわからない。ホワイトチョコでコーティングしてあるのだから、「ホワイトサンダー」で十分だとは思うのだが。
また「サンダー」の意味もよくわからない。
このチョコレート菓子が何故「サンダー」なのだろう。
「雷神」とは似ても似つかない外見であるし、味である。

しかしながら、このネーミングが良かったのかどうかは分からないが、この菓子は2009年に販売数が、一億三千万個を突破したというから大したものである。

2013年1月6日日曜日

続「菊地神社」の合格鉛筆

先日、N西の生徒諸君に「菊地神社」の合格鉛筆を配ったところ、そこそこ好評だったので、「これはN東の生徒諸君にもあげなければ。」という衝動を覚え、あらたに鉛筆を作成してみた。

 たまたま土曜日はN東では、センターテスト最後の模擬試験。
こっそり行くには良いチャンス。
ということで、N東の職員室まで出かけ、保健室のM先生の机の上に、ちょっとだけ鉛筆を置いてきた。
M先生、ご迷惑をおかけいたします。
職員室には、理科のN先生などもいて、少し会話。
みんな頑張っている様子、結構、結構。
 
 そのようなわけで、このブログを見てくれたN東の生徒諸君。「まあ、気休めにでもするか。」と思った諸君は、保健室まで行って、こっそり(くれぐれも保健室には迷惑のかからないように)「は」の字日記を見た(なにかの放送でよくあるシチュエーションだ。)と言って受け取ってください。
 また、このブログを見てくれているN西の生徒諸君も、まだ少し余分があるので、必要であれば私のところまで来てくださいな。

 ところで、「菊地神社などと、勝手に神社を名乗ってよいのか?」という問題であるが、営利目的でないかぎり、法律上は問題ないようです。

2013年1月5日土曜日

言ってはいけない言葉

北海道スキーに行く折には、最後は必ず札幌に行くことにしている。今回もその例にもれず、札幌に宿泊して、翌日千歳空港に向かうというパターンとなった。
 さて、千歳に向かう前に友人と札幌ラーメンを食べようということになって、行き当たりばったりの店に入った。
それは「鴇の家」という名のラーメン屋で、ちょっと頑固そうなオヤジさんが一人でやっている店であった。
私は札幌ラーメンの代名詞は味噌ラーメンだと思っている。
そこで躊躇することなく味噌ラーメンを注文することにした。友人も好みは味噌ラーメンらしく「私も味噌ラーメン。」ということになった。
さらにその言葉を受けて「そうだよね。札幌ラーメンはやっぱり味噌ラーメンだよね。」と言ってしまった。
「言ってしまった」というのは、その言葉を発した瞬間に、ラーメン屋のオヤジの顔が急に厳しい顔に変化したからである。「おや何だ。この雰囲気は。」と思っていると、店に三人の客が入ってきて、彼らは、当たり前のようにすべて「塩ラーメン」を注文したのである。
「しまった。この店は塩ラーメンで有名な店だったのだ。」
ラーメン屋のオヤジの冷たい視線を受けながら、ラーメンをすすったのは言うまでもない。
味噌ラーメンも結構美味かったのだがね。

2013年1月4日金曜日

冬木立シリーズ

昨日、今日と写真は「冬の木立」シリーズに戻った。昨年の忘年会で宿泊した「古奈別荘」の「冬の木立」である。
雨の降る直前の夕方、空は暗くなっていて、私の好みの背景だった。
「これは撮らねばいかんぞ。」と思い、二十枚くらいをバチバチと撮ったのであるが、意外に面白い写真が撮れた。(撮れたと思う。)
カメラは「カインズホーム」で購入した、五千円のカメラである。
今のカメラは結構よく写るのです。

話は変わってテレビの話。
NHKの深夜番組で、民間局を含めた番組の人気番組を紹介するものであったのだが、そのベストテンの上位に大河ドラマの「平清盛」が入っていたのである。
あれだけ視聴率が悪いと言われていたのに、人気があったのだ。人気と視聴率というのは分けて考えるべきなのだろうか。
私自身は、清盛が好きで毎回見ていたのだが。
この数値の詳細は、もっと知りたい気がする。

2013年1月3日木曜日

エイリアンズ


年末の小田和正がプロデュースする「クリスマスのナンチャラカンチャラ(題名は忘れてしまった。)」を見た。この番組の中のトークで、「キリンジ」という日本の二人組バンドのことを言っていたのだが、彼らの歌う「エイリアンズ」の歌詞が妙に引っかかった。
この歌詞は非常に抽象的な歌詩であった。
そして、これは国語の教科書の現代詩コーナーにあってもおかしくない歌詞でもある。


ここにその歌詞を紹介してみよう。





「エイリアンズ」

遥か空に旅客機音もなく
公団の屋根の上どこへ行く

誰かの不機嫌も寝静まる夜さ
バイパスの澄んだ空気と僕の町

泣かないでくれダーリンほら月明かりが
長い夜に寝つけない二人の額を撫でて

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実 ほおばっては
月の裏を夢みて
キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ いいかい

どこかで不揃いな 遠吠え
仮面のようなスポーツカーが 火を吐いた

笑っておくれ ダーリン
ほら 素晴らしい夜に
僕の短所をジョークにしても眉をひそめないで

そうさ僕らはエイリアンズ
街灯に沿って歩けば
ごらん 新世界のようさ
キミが好きだよ エイリアン
無いものねだりもキスで
魔法のように解けるさ いつか

踊ろうよ さぁ ダーリン
ラストダンスを
暗いニュースが日の出とともに町に降る前に

まるで僕らはエイリアンズ
禁断の実 ほおばっては
月の裏を夢みて
キミを愛してる エイリアン
この星の僻地の僕らに
魔法をかけてみせるさ
大好さエイリアン わかるかい

2013年1月2日水曜日

紙垂(しで)

以前、心霊スポットで紹介した二の岡神社に参拝した。
神社に行ったならば、祈願は二拝二拍手一拝である。
祈願したことの中心は、もちろんN西、N東の三年生の志望校合格。
 ところで、写真の真ん中に下がっているヒラヒラした白い紙の名称をご存じだろうか。
実はこの紙の名称は「紙垂(しで)」と言って、本来は太い注連縄(しめなわ)にぶる下がっているものである。この二の岡神社は普段は、それほど参拝に訪れる人もない故、簡単な縄に、ぶる下がっているのであろう。
また、その意味は聖域を示す。つまり、「ここから先は神様のおわす場所だぞよ。」ということであろうか。





2013年1月1日火曜日

初詣

あけましておめでとうございます。

昨日は少々ワインが入っていた故、おかしな文章になってしまっていたので、今日修正をしてみました。

さて、昨日の「大晦日」に続いて、今日は「初詣」
である。
古典の授業では、「『詣で』の終止形は『詣づ』で、これは『ダ行下二段活用』であり、謙譲語だぞ。しかと覚えよ。」などと偉そうに言っているのであるが、「初詣」については、私もしっかり考えてみたことはなかった。
 まず「初」というのは、名詞や動詞の連用形の前に付けて「初めての」「新しい」の意味で使用する・・・・・と、ここまで書いたところ、テレビコマーシャルでこんなことを言っていた。
「初夢、初売り、初たまげた。」武井咲のイオンのコマーシャルである。
文法的には間違っている。
「初」のあとは「名詞もしくは動詞の連用形」なのだ。したがって、これは「初夢、初売り、初たまげ」とならなければいけない。
まあ、コマーシャルというのは「如何に人を引きつけるか。」が肝心なので、これはこれで良いのかもしれない。現に私が「おやっ。」と思ったのだから。
 だいぶ話が横道に逸れてしまった。「初詣」に戻ろう。
「初詣」の「詣」である。
「詣で」は「参出(まゐいで)」から転じた「まゐで」が変化した語だ。
「参る」は身分の高いところに行くこと。
漢字の「詣」は「言」と「旨」から成り、言葉遣いに旨みがあるところまで上達することを表し、さらに高いレベルまで行き着くことを意味するようになる。
そして、その意味がさらに転じて、神社や寺に「お参り」することを「詣で」というようになったのだそうだ。
なるほどね。