2013年6月30日日曜日

BLOW

先日、新潟の友人からコンパクトディスクが送られてきた。自作のミュージックCDである。
もともと何でも器用ににこなす友人であったが、今回は、自分で作曲した曲にパソコンで音付けをして、インストルメンタルとして仕上げたものである。
タイトルは「BLOW」、全10曲である。
きっかけは、彼の同級生から昔の写真が送られてきたことであるそうだ。
そのことに触発され、「記憶にある音を今のうちに表に出したい」という衝動に駆られたのだと。

素晴らしいね。
考えてみると、動機は若干異なっているが、私もまったく同じ感覚であった。
退職直前になって、個人の写真展を開き、今まで自分が書いてきた文章をまとめて冊子を作ったりしたのは、きっとこの「記憶にあるものを表に出したい」という衝動だったような気がする。

さて、10曲のうちの五番目の曲、文字にして表現するのはちょっと気恥ずかしいので書かないが、この曲には歌詞がついていて、その歌詞は実は私が作詞したものであった。(そうです私は昔は詩人だったのです。ン?)
せっかくのCDだったので、現役の高校生にこのCDを聴かせてみようと思い、授業に、CDとCDプレーヤーを持参。生徒に聴かせてみた。(これは情操教育なのです。)
評判がよかったのは、1曲目の「Spanish Wind」と8曲目の「Kita no Tubaki」、1曲目は現代風のアレンジだったので、予想はついたのだが、8曲目は、「おおーこれか」という感じであった。
残念ながら、我が作詞の曲は、ちょっと古いようであった。それはそうだ、42年前だもの。


2013年6月29日土曜日

口笛は金管楽器か?

さてさて、楽器の分類に何だか興味をもってしまった私であるのだが、昨日のブログに再び先輩(ジェントルマンを絵に描いたような先輩である。)からコメントがあった。

「すると口笛も金管楽器だろうか。(笑)」

ウーンこれもまた謎だ。
そこでまた調べてみた。(すぐに調べるのが私の良いところ?である。)
まず、金管楽器かどうかという点であるが、口笛は金管楽器ではない。

金管楽器はマウスピースというものに唇を押し当て、
その中で唇を振動させることによる音の振動を
管の長さを変化させたり、
唇の振動から発する振動の圧力を変えたりすることで音程をつくる楽器である。
口笛はマウスピースを使用しないので、金管楽器とは言えない。


ただし、音が鳴る仕組みはフルートと同じ「エアリード」なので、仕組みからいうならば、木管楽器であるそうだ。
つまり、木管楽器はリードの「振動」または「空気の渦」による発音体を持ち、(口笛は空気の渦で鳴る)それを適当な長さの管の中で共鳴させ、管長の変化で音程を作る楽器ということである。

そうか、口笛は木管楽器か。(と驚愕する私)

もっとも、管楽器の管楽器たる所以、ある程度の管長を持った「管」がない以上、管楽器には分類できないのだそうだ。

尚、口笛はオカリナに近く、いわゆるヘルツホルツ共鳴器といわれるもので、ヘルツホルム共鳴器はバスレフ型スピーカ(位相反転型スピーカ)の原理そのものということでもある。


2013年6月28日金曜日

続・サクソフォン

昨日のブログで、「何故サクソフォンが木管楽器なんだ?」
と疑問の言葉を発したところ、敬愛するブログの先輩から、「リードを使って鳴らすので、木管楽器」というコメントをいただいた。
「フーン、そうか。リードを使うのが木管楽器か。」と一度は納得したのだが、「待てよ、フルートは木管楽器だが、リードは使っていないぞ。」これは、ますます不思議だ。

ということで、木管楽器と金管楽器について、いろいろ調べてみた。
まず、金管楽器の定義であるが、「演奏者の唇の振動によって、音を出す楽器」である。
それに対して木管楽器は、(これが実に簡単)「金管楽器以外の管楽器の総称」であった。
すなわち、フルートは金管楽器以外の管楽器となるのだ。

つまり、演奏者の唇の振動によって、音を出す(これをリップリード言うらしい。)のが金管楽器であるとすると、「リップリード以外の楽器」、これが「木管楽器」ということになる。
因みに、フルートやピッコロは「エアリード」(そうか、フルートはエアを使ったリードか)、クラリネットやサクソフォンが「シングルリード」、そしてオーボエなどを「ダブルリード」ということである。

もっとも「国語的解釈」をするなら、「木管」という言葉はどう考えても「木」の「管(くだ)」である。
「管」とは「細長い筒」である。「木」で作ってある「細長い筒」が木管なのだ。
リードを使っているからといって、「ハーモニカ」まで木管楽器にする必要が一体どこにあるのだろう。

2013年6月27日木曜日

サクソフォン

サクソフォンである。
昨年度はN西の芸術科からこのサクソフォンで芸大に合格した生徒がいた。
すごいね。
サクソフォン、ソプラノ・アルト・テナー・バリトンと、だんだん大きくなっていく。
この楽器は、木管楽器なのであるが、どう見たって金管だ。大体、色が金ではないか。
と文句を言ってもしょうがないが、不思議な楽器である。
クラリネットとかトランペットのように、音が真っ直ぐ前に出ていかない。
一回下にいってから上に抜けるのである。
まあ、形をそのまま真っ直ぐにしてしまったなら、楽器の先端が床についてしまうのでしょうね。

私の好きなジャズのサックスプレーヤー。
ソプラノは勿論ジョン・コルトレーン。
アルトはフィル・ウッズとアート・ペッパー、さらにリッチー・コール(リッチー・コールという男、腕はピカイチなのだが、演奏中にふざけすぎて、ほされてしまった。)でちょっと迷うが、やはり、フィル・ウッズですかね。
テナーも勿論ジョン・コルトレーンだが、ソニー・ロリンズも捨てがたい。
最後のバリトンは「ナイトライツ」のジェリー・マリガンで決まりだ。


2013年6月26日水曜日

株主総会

昨日、今日のニュースで、西武ホールディングスとサーベラスの問題が盛んに取り上げられている。
西武ホールディングス、所謂西武グループ株の大株主がアメリカの投資会社サーベラスである。
そのサーベラスが西武グループの経営に介入してきたのだ。
利益のあまり上がらない、西武デパートだとか、西武鉄道の廃止を求めて西武グループにプレッシャーをかけている。

気に入らないね。
大体、鉄道は西武という会社のものであると同時に、地域住民のものでもあるのだ。
利益が上がらないから、これを潰してしまおうなんていうのはトンデモナイこと。
マネーゲームの権化のような投資会社が、「何をか言わんや」である。
今日のところは株主総会で西武側の勝ちとなったが、先行きは非常に不安であるようだ。

2013年6月25日火曜日

チュウチュウトレイン

生徒達に面白写真のポーズを要求すると、即座に、「チュウチュウトレイン」のポーズをとってくれた。
即座にというところが凄い。

「チュウチュウトレイン」とは、「Choo Choo TRAIN」と書く。「Choo Choo」は英語で蒸気機関車の蒸気の擬音語ということである。

元々は1991年にリリースされた日本の音楽グループ「ZOO」のシングル曲で、作詞が佐藤ありす、作曲が中西圭三だという。
ウーン「ZOO」か、懐かしいね。
「EXILE」の原型だ。

一列に並んでグルグルまわるダンスはインパクトがあるので、いろいろなところでパロディー化されて、ダンスされているようだ。

2013年6月24日月曜日

集団パニック

兵庫県の高校で、女子生徒が集団パニックを起こし、18人が病院に搬送されたという。
もともとの原因は、学校の休み時間に、一人の女生徒が起こした過呼吸から始まったのだという。
その生徒が苦しんでいるのを見た周りの生徒が、次々に失神したり、倒れたりしてしまったのだと。
集団パニックの専門家のコメントは、このような集団パニックはよくあることで、「情動伝染」というらしい。

人間の性質のひとつに「情動伝染」というのがあるのだそうだ。
感情というのは、言語、非言語の両方で周囲に伝わるという特徴があり、非言語で伝わる時には視覚が重要な役割を果たしているという。
このパニックのベースには、どうも最初にパニックを起こした生徒が、日頃から霊感があると云われて生徒だったことがあったようだ。
ウーン、霊感か。

2013年6月23日日曜日

何の写真でしょうか?

インターネットで注文しておいたプリンターが、届いたので、早速、学校祭(潮音祭)に撮った写真を整理してみたのだが、面白い写真があった。
なんだか意味不明の写真のように見えてしまうのだが、この写真は潮音祭文化の部においての一場面である。
吹奏楽部の演奏による生徒と教員のダンスだ。
真ん中やや左の青っぽい服は、吹奏楽部の生徒。
両手を挙げて、ジャンプしているところだと思う。
動き感はあるのだが、止まっている部分がもう少し欲しいですな。

2013年6月21日金曜日

ブラジルのデモ

ブラジルがデモに揺れている。
なんでも、百万人規模の反政府デモが実施されたということだ。
サッカーのコンフェデレーションカップに揺れているはずが、インフレに対する国民の怒りによって、国自体が揺れているのである。

ブラジルを含む、所謂新興国と呼ばれる国々が、ここに来てだいぶガタガタしてきているそうだ。
急激な経済発展をしてきたところは、要注意ということなのだろう。

しかしながら、私にとって何より不思議なことは、あのブラジルで、デモンストレーションが起こったことである。
ラテン系の陽気な、デモとは縁のないイメージの国であるブラジルが何とデモ?
である。
主な原因は、インフレによる物価の度重なる値上がりらしいが、いろいろニュース見てみても、「これが。」という原因がどうもよくわからない。

もっとも
日本という国も他人事とは云えないようだ。
莫大な借金をかかえて、日本は一体どこへ行ってしまうのだろう。

雨の音

先日、BSの天気予報を見ていると、雨音でその強さを表現するという一風変わった予報をやっていた。
天気予報に曰く

ポツポツ
パラパラ
ザー
ザーザー
ゴォー

の五段階である。
「ポツポツ」降る雨。「パラパラ」降る雨と、だんだん雨が強くなって行き、酷い雨が「ゴォー」と降る雨となる。

例えば「静岡県東部地方、雨、強さはポツポツ」
である。

分かりやすいではないか。
そう言えば、幼い子供が最初に覚えるのが「ポツポツ」とか「パラパラ」などという擬音語のような気がする。

2013年6月20日木曜日

生活習慣病検診

忙しい一日であった。
生活習慣病の検診から始まって、水曜テニス、夜の御殿場地区会。

いつも疑問に思うのだが、生活習慣病の強制再検診というのは、ほんとうに必要なのだろうか?
私の場合、もう三十年以上も同じところでひっかかり、再検診に行って、要観察というハンコをもらう。
これを繰り返しているのだ。
三十年間体調を崩したことはないし、自分でも極めて健康だと思っている。
「数値だけで不健康にして欲しくはないのだがね。」



2013年6月19日水曜日

「兼家」のこと

「蜻蛉日記」の作者の夫、藤原兼家は豪快さと緻密さ(策略好き)を兼ね備えた人物であったようだ。
それが原因かどうか、宮中では大分苦労をする。

兼家は、伊尹(これただ)と兼通(かねみち)いう二人の兄を持っていたが、次兄の兼通とは出世争いに端を発し、犬猿の仲であった。兼通からは、兼通が死ぬ間際まで嫌がらせを受ける。

ひょっとすると、この出世争いのゴタゴタの裏返しが、「蜻蛉日記」のあのトボケタ態度かも知れない。
人間というものは、どかでバランスをとっていないと、破滅してしまうのだろう。





2013年6月18日火曜日

「蜻蛉日記」

古典の授業で現在「蜻蛉日記(かげろうにっき)」を講義している。
「蜻蛉日記」の作者は、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)と言う。
夫は後に摂政となる藤原兼家、夫と言っても兼家には七人の妻?がおり、正妻には、あの藤原道長の母である時姫という女性もいた。

授業で講義する部分は、作者が夫の来訪(当時は男が女の所へ通う、妻問い婚である。)が少なくなって、嘆くシーンである。
中心となるのは、百人一首にもとられている和歌。
「なげきつつ一人ぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」である。

歌の最後に「かは」という係助詞を使って、反語表現をしている。
最後の部分はこうだ。
「(あなたは、この辛さを)知っていますか、いや知らないでしょうね。」

「蜻蛉日記」は女流文学の魁とされ、「源氏物語」をはじめ、多くの文学に影響を与えた。さらに、自分の心情や経験を客観的に省察する自照文学のはしりでもあるそうだ。



2013年6月17日月曜日

あすなろラボ②

先週に続いて「あすなろラボ」という番組を見た。
先週の企画は、予備校の看板講師が、授業に興味のない生徒をどのように教えるか、であった。
これが結構面白くて、「今回の企画は何だろな。」と思い、期待して見てみた。

さてさて、今回の企画。
下町の洋品店で、長年の間売れなかった商品(あまりにも売れないので「ヤバ着」という。)を、原宿のしゃれたブティックに置けば売れるのか?
というものであった。

ただし、ここには少しカラクリがあって、売れなかった商品を、ただ持っていくのではなく、プロのモデルがその商品を中心に、他の商品も含めたコーディネイトをして、コーディネイトされたものをブティックに陳列するというものであった。
まあ、モデルがコーディネイトした時点で、「ヤバ着」ではなくなってしまっているような気もするが。

結果は予想通り、二点持っていった「ヤバ着」は両方とも持っていった日に売れたのである。

結局、服というものは、商品の質とかデザインよりも、その商品の置いてある場所が、かなりの影響力を持っているということか。


2013年6月16日日曜日

縦ノリ

ビル・エバンス(ジャズピアニスト)のアルバムに「トリオ64+8」というのがある。
このアルバムには、聊か興味があったので、そのカスタマーレヴューを読んでいると、そこには、このトリオのドラマー、ポール・モチアンを評して、縦ノリのドラマーという表現があった。
「へぇー、縦ノリねぇー。」
ジャズでは珍しいタイプということなのだろう。

縦ノリとは、現代ポピュラー音楽のノリで、垂直に体を動かしたくなるノリを表現した言葉である。
音楽を演奏したり、聴く時に、頭を縦に振る、また立っている時には、その場で縦に飛び跳ねるというもの。
そして、この縦ノリに対して、横ノリがある。
横ノリは、ジャズ、ソウル、R&Bなど黒人音楽の流れを受けたものだという。

今まで、あまり意識をしたことはなかったが、確かにロックは縦ノリ、ジャズは横ノリである。
逆の動きでも、特に問題はないと思うのだがね。(やはり変なのだろうか?)



2013年6月15日土曜日

タチアオイ

通勤途中にとても気になっていた花があった。

御殿場から、国道246を沼津方面に向かって走って行くと、長泉町と沼津市の境あたり、大きな送電線の鉄塔がある。
その鉄塔の真下に、その花は咲いている。

今日はとうとう我慢できず、車を近くに止めて写真を撮ってみた。
きれいな花だが花の名前がわからない。
家に帰って、早速、写真をもとに調べてみた。

花の名は「タチアオイ」
原産国は中国だと言われていたが、最近ではトルコや東ヨーロッパの原産説が有力だという。
日本には、古くから薬用として渡来。
花期は6~8月で、花は垂直に伸びた花茎の下から上に咲きあがっていく。ちょうど梅雨入りの頃に咲き始め、梅雨明けと共に花期が終わることになぞらえて「梅雨葵」という別名もあるそうだ。

別名を「ホーリー・ホック」
Jリーグの「水戸ホーリー・ホック」は、この花の名だったんだ。
水戸は徳川御三家なので「アオイ(葵)」と関係があるからね。


 




2013年6月14日金曜日

「破天荒」の意味

タイトルは忘れてしまったが、「言葉の正確な意味」を答えさせるテレビ番組をやっていた。
我々のまわりには、間違って解釈されている言葉が意外と多い。
「破天荒」もそのうちのひとつ。

「破天荒」の意味を、単に「型破り」の意味で解釈することは実は間違っている。
「破天荒」とは、「前人のなしえなかったことを初めてすること。」また、そのさま。
「天荒」は「未開の荒れ地」の意である。

中国の唐の時代に、官吏登用試験の合格者が一名も出なかった荊州(けいしゅう)は、人々から「天荒」といわれていたが、劉蛻(りゅうぜい)という男が初めて合格して「天荒」を「破った」。
つまり「前人のなしえなかったことを初めてした」のである。(「北夢瑣言」の故事より。)

ただし、インターネットの記事によると、平成二十年度「国語に関する世論調査」では、「彼の人生は破天荒だった」を、本来の意味「誰も成し得なかったことをすること」で使う人は、16.9パーセント、「豪快で大胆な様子」で使う人が64.2パーセントという逆転現象が起きているそうである。



2013年6月13日木曜日

トロッタ・スパークリング

サントリーから、とろける炭酸「トロッタ・スパークリング」なる炭酸飲料水が発売された。
この飲料水、何故興味持ったかというと、コマーシャルに女性ジャズシンガー、ケイコ・リーが登場しているからだ。
「金毘羅船船?」という日本の民謡をジャズにすると、こうなるのだという感じ。

さて、サントリーのコマーシャルをするわけではないが、この「トロッタ・スパークリング」なかなか面白い味であった。
種類は「濃密りんご」と「特濃ホワイト」の二種類。
「りんご」の方は、所謂アップルタイザーであるが、「特濃」は今までにない味である。
カルピスソーダの味でないことは確かなのだが、それは一体何かと、問われると、これがなかなか難しい、興味を覚えた方は是非飲んでみてください。
やっぱり、サントリーの回し者になってしまった。

2013年6月12日水曜日

欲望と資本主義②

突然、資本主義の話である。
以前、佐伯啓思「欲望と資本主義」のことについて一部触れてみたが、その結論は次のようになる。

資本主義とは、市場を舞台とする「欲望」のフロンティアの拡張運動」である。

つまり、「欲望」の発生が対象との「距離」によるとすれば、その「欲望」というものは、ますます手に入れるのが困難なもの(自分との距離の大きいもの)に向かう。そうなると「欲望」は絶えず新しいもの、刺激に富んだもの、未開拓なものを求める、というのだ。

「欲望」のフロンティア拡張は、市場の拡大をも意味する。
消費者は新奇」なものや社会におけるステージアップを求めて「欲望」を膨らませる。
「商品」が「欲望」の対象となることによって、はじめて買う側(消費者)と売る側(企業)が同時に成立するのである。
企業はそこに「利潤機会」を求め、新たなものを生み出そうとする。
その結果、市場も無限の拡張という自動運動の中に取り込まれるのである。

著者は、この市場を舞台する「欲望」のフロンティア拡張の自動運動こそが「資本主義」だといっているのである。

2013年6月11日火曜日

道路工事

最近、道路工事がやけに多い気がする。
今日も通勤途中に三箇所の道路工事に遭遇した。
そんなに道路は傷んでないだろうに。
政権が代わって、道路をつくる部署が勢いづいているそうだ。
またぞろ、道路妖怪がうごめきだすの出すのだろうか。

「日本の財政は道路と年金で破綻する」という。

これは、よく考えてみればわかること。
道路というのは、ただ単に造ればいいというものではない、出来たあとも莫大な維持管理費用が必要となるし、補修をやめれば、これが大事故につながる。実に始末がわるいものだ。
目先の政策、雇用拡大も分からんではないが、国が破綻しては元も子もないだろう。

2013年6月10日月曜日

あすなろラボ

「あすなろラボ」
というテレビ番組を観た。
タイトルは「林先生は落ちこぼれをヤル気にさせることができるのか?」
今流行の言葉「今でしょ」で、マスコミから引っ張りダコの予備校講師「林先生」が、勉強まったくヤル気なしの若者に、どのくらい向き合うことができるのか?を
試す番組であった。

結果は本人も言っていたのだが、林先生の「負け」であった。
最初に評論の入試問題を持ってきたが、これはまったく噛み合わず、林先生自身も途中で投げ出してしまった。
同じ国語の教師として、この気持ちはよく分かる。

ただ、ヤル気なしの若者たちの目が急に変わった瞬間があった。
それは、林先生が本音で語り始めた時である。
かつて自分が挫折したことを話し出した瞬間に、彼らには共感が生まれたのだと思う。



2013年6月9日日曜日

AKB48総選挙

AKB48の総選挙なのだそうだ。
マスコミは大騒ぎ。
しかしながら、妙なのは第一位になった女の子(指原莉乃)は、AKB48のメンバーではなくてHKT48のメンバーだという。
AKBの「A」は秋葉原の「A」である。
その秋葉原を頭においたAKB48総選挙なのに、どうしてHKT、つまり博多のメンバーが第一位になるのだ。
おじさんにはよく分からん。

まあ、確かにテレビのテロップには、「第一位はまさかの指原莉乃。」となっていたので、それが「まさか」意味なのだろう。

それにしても、選挙に出ていた女の子たちのコメントが、とてもしっかりしているのには驚いた。
おじさんも、これから見習うようにしよう。



2013年6月8日土曜日

欲望と資本主義

今、現代文の授業で「欲望と資本主義」という、あまり面白くなさそうなタイトルの論説文を講義している。
しかしながら、面白くないのはタイトルだけで、著者、佐伯啓思の言っていることは、なかなか面白い。
著者は、ドイツの哲学者ジンメルの言葉を借りて言う。

欲望と価値について、人がものを欲しがるのは、簡単に手に入らないからである。つまり人とモノの間には「距離」というものがある。その距離とは「障害」とも言う。逆に言えば「距離」がないもの、すなわち「距離」が近いものは欲望を感じないことになる。
自分とモノの間に乗り越えがたい「距離」があるからこそ、そこに欲望が発生する条件ができあがるのである、と。

2013年6月7日金曜日

「大人のジャズ再入門」

中山康樹の「大人のジャズ再入門」という本の中に面白いことが書かれていた。
「ジャズには非常に多くの個人アルバムがある。例えばロックやポップスを考えてみると、ビートルズがオリジナル・アルバムすべてを合わせても十数枚程度。
それに対して、ジャズの場合、それが誰であっても、100枚、200枚と気の遠くなるようなアルバムが長蛇の列をなし、しかもその例の最後尾はほとんど見えない。」と。
そして、その理由について、ジャズが個人事業主によって成り立っている世界であること。そこにはロックやポップスでいうところのレギュラーグループというものが事実上存在していないことを上げている。

今まであまり考えてはみなかったけれど、確かにそうだ。
つまり、ジャズメンというのは、その個人個人が誰とでも、何処ででも、演奏できる技術を持ち合わせているということなのだろう。

2013年6月6日木曜日

「雨が降らない。」

梅雨入りしたというのに、カンカン照りの夏のような天気が続く。
ニュースでは「梅雨入りしたのに何故雨が降らないのか?」という特集をやっている。
要は、「沖縄付近にある高気圧の勢力が弱く、結果として梅雨前線が下の方に下がってしまっている」ということらしい。
日本は日照だが、ヨーロッパでは洪水の被害が出ている。つまり、これは「異常気象」なのだ。
ニュースはさらに、「異常気象」が三十年に一度くらいの割合で起こることを告げていた。

2013年6月5日水曜日

オタマジャクシとワールドカップ

先々週借りた本の返却のため、徒歩で図書館まで出かけた。
歩くと二、三十分の距離なのだが、今日は陽射しが強く、無理をせず、無理をせず、と思いながら歩いたので、いつもの一割増しの時間がかかってしまった。
ただ、のんびり歩くということは、周りの風景もそれだけ良く見えるようになる。
今日発見したのが、右の写真。
「オタマジャクシ」の発見。
左上と下の中央やや右に「オタマジャクシ」の黒い姿が見える。
カメラを近づけると、サッと逃げ出すのは、「オタマジャクシ」に耳があるのだろうか。それとも影の気配で察知するのだろうか。

6月4日夜、日本のサッカーチームがワールドカップ出場を決めた。
何はともあれめでたい。

2013年6月4日火曜日

騎馬戦

三日はN西の体育祭。
曇りの天気予報が聊かはずれ、かなり陽射しの強い一日となった。
年寄りは強い陽射しに参ってしまうが、高校生はさすが若者、最後まで元気に走りまわっていた。

ところで、N西でもN東でも体育祭の競技の一つに「騎馬戦」を行う。
では、この「騎馬戦」が学校の体育祭競技に登場したのはいつからなのだろう。

玉木正之著の「スポーツとは何か」には次のように書かれているということだ。
明治時代、学校単位で運動競技会を開くように
国から指示がだされ、パン食い競争など、住民
参加の行事が行われ、地域の祭りの様相を呈していたそうで、その祭りに自由民権運動をする、いわゆる壮士たちが参加して始めた政権争奪騎馬戦が「騎馬戦」であり、圧制棒倒しが「棒倒し」になった。
へえー、自由民権運動の壮士か。


2013年6月3日月曜日

ガラ携

N西では6月1日より三日間の学校祭。
2日の日曜日には、この春卒業していった卒業生も多く姿をみせた。
まだ、卒業して三ヶ月しかたっていないのに、ずいぶん大人っぽくなっていたのには驚いた。

私のところにも古典講読の五人のメンバーだったSさんと、彼女の友人Eさんが姿を見せてくれた。
二人とも沼津から大学まで、遠距離通学をしているとのこと、大変なことだ。通うだけで疲れてしまうね。

さて、彼女たちと話をするうちに、携帯電話の話になった。
当然、彼女たちの携帯は、今を時めく「スマホ」である。彼女たちは言う。
「今、携帯がなくなってしまったら、私は死んでしまう。」
その言葉には決してオーバーではない雰囲気があった。
そうか、死んでしまうのか。
それは恐ろしい。

話が進むうちに、今度は私の携帯の話となった。
私の携帯は二つ折りの、いわゆる「ガラ携」である。
ただ、面白いことに彼女たちは、私の携帯が「ガラ携」であることは分かっていたが、「ガラ携」の意味を理解していなかった。

私はそこで偉そうに言った。
「『ガラ携』とは『ガラパゴス携帯』のことで、『ガラパゴス』というのは『ガラパゴス諸島』のことだ。
この島は、他の島から隔離されていたのでそこに住む動物は、独自の進歩をしてきた。同様に世界標準を無視して、独自の進化をしてきた日本の携帯を「ガラパゴス諸島」に例えて、『ガラ携』というようになったのだぞよ。」





2013年6月2日日曜日

ロックンロール

Rock ’n’roll meant it was real;
everything else was unreal.

         John Lennon

ロックンロールだけが本物で、あとはすべてウソっぱちだった。

         ジョン・レノン


このところ、ジョン・レノンのことが続く。
こう続くと私が、相当なレノンフリークように思われてしまうのであるが、実際そうではない。

勿論、ビートルズは好きであるし、ジョン・レノンも好きであることに違いないが、決して熱狂的なファンではない。
また、ジョン・レノンは偉大なアーチストである。
これも疑う余地はない。
ビートルズにおいても、精神的な支柱であったろう。
そして、彼の言動は、世界の若者に大きな影響を与えた。

こう考えると、ジョン・レノンが当然私の心に深く入って来てもおかしくはないのだが、これがどういうわけか入っては来なかった。
「ビートルズにはジョン・レノンという人間がいるな。」くらいであったのだ。
たぶん、タイプがあまりにも違う人間と、強く思っていたのであろう。

ところがである。
この言葉が最近、妙に私の心に入りこんで来た。
生涯ロックンローラーの気概を持ち続けたジョン・レノンの1970年の名言。
彼らにとってのロックンロールは、反骨心や情熱など、自分達を突き動かす説明できないパワーを表現しているものだったのだ。

ウーン、昔が懐かしい。



2013年6月1日土曜日

ミカド珈琲

軽井沢にある「ミカド珈琲」である。(以前、登場したジョン・レノンがよく飲んでいた珈琲もここのブレンド。)
軽井沢というチョイト上品ブッタところにある珈琲屋。
値段が高いだけで、あまり美味くはないだろうなと思って店に入ったのだが、これがなかなかであった。

ミカド珈琲の創業者、金坂景助が
「珈琲豆は外国から入ってくるが、その生豆を焙煎して実際に飲めるように手がけ、それを飲めるようにするのは日本人。そして日本人が焼いた珈琲豆を日本人が飲む。」

創業者は外国の飲み方、味をそのまま提供するのではなく日本人にあったコーヒーの味、飲み方があるのではないかという結論にたどり着いたという。

「ウーン確かに、ここの珈琲は日本人にはぴったりのバランスだ。」
と云って、偉そうに珈琲を飲む私であった。