2013年7月31日水曜日

「服」という字

「服」という字は不思議な字である。
まず、名詞と動詞に分けられ、名詞では「着物」であるとか「仕事」などの意味を持つ。
さて、面白いのは動詞だ。

漢字の専門家ではないので、迂闊なことは言えないが、動詞の「服」は大きく分けて四つの意味がある。(この言い方はかなり乱暴な言い方だが)その四つとは、

①着る意味 服装
②従う意味 服従
③感心する意味 感服
④薬を飲む意味 服用

である。

この①から④の意味が、一体どこでつながるかというと、「服」の字の成り立ちのような気がするのだ。「服」は偏の「月」、これは「舟」を表すらしい。そして右側の旁(つくり)、「皮」から立て棒をとったものは、馬車に使う「そえ馬」だという。
つまり「舟」と「そえ馬」の意味するところは、「用いる」こと。




この「用いる」ことで考えると、①から④すなわち、「着る」「従う」「感心す
る」「薬を飲む」が繋がってくる。「装いをもちいる」「従ってもちいる」「心をもちいる」「薬をもちいる」のである。

やはり、ちょっと乱暴だったろうか。







2013年7月30日火曜日

firework

 日曜日に久し振りの花火を観た。
沼津の夏祭りである。
十年以上ご無沙汰だったのではないか。

昔観た花火とは随分趣きの違うものであった。
どうも最近の花火は、スターマインが主流であるらしい。
所謂、早打ち上げというやつは少なくなってしまったようだ。
派手さはないが、ひとつひとつ丁寧に打ち上げているような気がして、情緒があったのですがね。

かつて日本の花火は、一番上の写真のような形(欧米型の花火)はなかったそうである。
どちらかというと、二番目の写真のように、同心円上に開く形だった。
その理由は、日本では河川で打ち上げ、観客はあらゆる方向から鑑賞していたので、立体的に発光しなければならなかった。
これに対し、ヨーロッパなどでは、貴族の建物の裏から打ち上げ、観客は一定方向からしか観ることはなかったため、平面的な発光でもよかったとのことである。

話は変わるが最近のカメラは実によく撮れる。
いずれも5000円のコンパクトカメラで撮ったものであるが、
ちょっと前ならここまでは撮れなかったろう。
すごいね、技術の進歩は。



2013年7月29日月曜日

またまた局地豪雨

パソコンの調子・・・というよりも、ブログの接続がどうも上手くいかないようで、こんな日もあるものだと諦め、サブパソコンによるブログの挑戦。
今日のニュースでも大雨の地域を告げていた、ニュース曰く、「かつて経験したことのない雨量の恐れ」がある。
本当に異常気象なのである。
こんなに何日も各地で豪雨が続くなんて。
不思議なことは、これだけ降っても、ダムの水が足りず、取水制限をしているところもあるとのこと。

実に妙である。

2013年7月28日日曜日

ゲームセンターの老人

最近の老人(私も老人だが)は、ゲームセンターによく出没するそうだ。
ゲームのテクニックも大したものである。
それだけ時間をかけて遊んでいるのだろう。
ヒマもオカネも十分にあるのだ。(何故私にはないのだろう。)
ただ、この現象には少子化と高齢化の見事なクロスが見られる。
ゲームセンターのほうでは、少子化により客が減ってきた。
そこに、ヒマとオカネのある老人という新しい客層が登場したのだ。
ゲームセンターがこれを逃すはずはない。
ゲームも老人向けを開発、老人なので体調不良を起こした時用のスタッフも待機、といったサービスもあるという。

幸か不幸か、私のまわりには、そのような環境がないので、まだゲームには嵌っていない。
もっとも、昔からゲームはそれ程好きという程ではなかったので、これからもゲームセンターに通うことは、たぶんないと思う。

かつて、若者たちがゲームセンターでゲームに興じる姿に、眉をしかめていた大人が、今度は自分自身でゲームに興じている。
実に奇妙な風景だ。

写真は、どういうわけか近所のパチンコ屋さん(おっと、パチンコ屋さんもひとつのゲームセンターかもしれないね。)にあったカバのイミテーションである。

2013年7月27日土曜日

へんな日本語

今日読んだ週刊誌に脚本家の内館牧子とキャスターの堀尾正明の対談があり、へんな日本語として、「カリスマ」とか「スイーツ」を挙げていた。

確かに「カリスマ美容師」などという使い方は、実におかしい使い方である。
「カリスマ」の意は、本来的には超能力であり、また接する人に超人的・神秘的な力を感じさせたり、教祖的な指導力を発揮したりする能力(を備えた人)、とある。
決して「有名な」とか、「実力のある」などという意味ではない。
いくらなんでも「超能力美容師」では、髪をまかせる方も落ち着かないであろう。

「スイーツ」に関しても内館牧子曰く、みたらし団子を「和風スイーツ」などと言う人は、上手投げで土俵に叩きつけたい。

2013年7月26日金曜日

秘密

久し振りに「怒り新党』を見た。
この番組の中で、マツコデラックスの鋭い発言あり。

「私たち夫婦(親子)の間にはまったく秘密がない。」などという、夫婦(親子)は、あまり信用することができない。

蓋し(次に述べる判断は十中八九まちがいがないだろうという主体の見込みを表す。)名言である。

「秘密(隠すこと)」は相手に対する思いやりでもあるのだ。隠したほうが上手く行く場合もあるのだ。
夫のこと、妻のことを、すべて知っていなければ気がすまないなんていうのは、これはちょっと重傷である。
夫婦間、親子間は、知らないことがあるから平穏無事なのである。
(本当に隠し事のない夫婦、親子の皆さんごめんなさい。)



2013年7月25日木曜日

パセリの悲劇

パセリほど可哀想な野菜はないように思われる。
パセリ自体栄養価は極めて高く、ビタミンもビタミンA(βカロチン)を始め、BやCを含み、鉄分やミネラルも、含有量は野菜の中で屈指である。
しかしながら、パセリの悲劇は、料理の飾りとして使われてしまうところにある。
食用であるはずのパセリが、出荷の9割は食用にされないそうだ。(私はサンドイッチだろうが、定食であろうが、ついているパセリは必ず食べます。)

ヨーロッパへの旅行で、レストランに入った観光客が、皆そろってパセリを残すのを従業員が不思議がって、「日本の宗教には、パセリを食べるなという戒律があるのか。」と訊ねたエピソードもあるとか。

パセリが食べられていないない理由は、どうもパセリが持つ硬さが原因で、人間の味覚がそれを「まずい」と反応してしまうためらしい。
パセリにすれば、いい迷惑である。

日本ではいつからパセリを飾りにしてしまったのだろう。
パセリの生産者は嘆いているぞ。
9割が捨てられてしまうなんて。

今日から「日本パセリを食べる会」でもつくってやろうかしら。





2013年7月24日水曜日

凌霄花(のうぜんかずら)

夏の花、凌霄花(のうぜんかずら)である。
秩父宮記念公園の外塀近くで見られた。

凌霄花の「霄」は「空」とか「雲」の意味があり、空に向かって高く咲く花の姿を表しているそうだ。
また、花の形がラッパに似ていることから、英語では「トランペット・フラワー」とか、「トランペット・ヴァイン」あるいは「トランペット・クリーパー」と呼ばれるらしい。

面白いのは、花が落下すると、蜜がたれ、周りをぬらすほどになり、その蜜に鳥や蜂が集まってくるという。
さらにその蜜には、毒性がある言われているが、どうもこれは根拠のないことなのだと。
むしろ、花や樹皮は漢方薬に使われ、利尿に効果があるのだそうだ。

2013年7月23日火曜日

デトロイトの破綻

写真は昨日に続いて信号機である。

信号機と言えば自動車だが、何日か前のニュースで、アメリカのデトロイト市の財政破綻が伝えられた。
あの自動車の都市デトロイトである。
我々が中学校とか高校で勉強した地理では、自動車産業というと、まずデトロイトの名があがった。
そのような都市が破産してしまったのだ。
負債は一兆八千億円というから、これはトンデモナイ額である。
人口も180万人から70万人と110万人減ってしまったらしい。
110万人ですぞ。
どうもアメリカというところは何でもけた違いのようだ。

自動車産業に大きく頼っている日本も、他人事ではすまされまい。

2013年7月22日月曜日

シュール

参議院議員通常選挙の投票。

帰り道、地上に信号機が置いてあるのを見つけた。
地上に置いてある信号機というのは、デカイ、デカクて非常にシュールに見える。
は虫類の目玉のようであるし、帽子をかぶったロボットのようでもある。
やはり、あるべきところに置かれていないのがシュールに見える原因なのだろう。
日本の政治も、あるべきところに、あるべきものを置かないとシュールになってしまうよ。

家に着いてから、大相撲の千秋楽を観る。
残念なことに、稀勢の里は眼前の横綱になるチャンスを、自分で潰してしまった。
日本の大相撲ファンの期待を裏切る結果となってしまったのである。
彼は以前にも、この勝負に勝てば優勝という場面で勝ちきれず優勝を逃している。
気持ちの問題と言えばそれまでなのだが、このように精神的な弱さを露呈しまったのでは、横綱になったとしても、短命横綱となってしまうね。

2013年7月21日日曜日

百合が咲きます

 これも昨日、海岸近くの松林で見つけた立て札である。
百合の花からしてみれば、これは大変ありがたいことである。
百合というのは、夏の一時期に咲く花である。
この一時期のために、立て札は一年中ずっと立っているのだ。
花は、とっても大切にされているのである。
この札を立てた人の、百合の花に対する愛情が強く感じられる。

ただ面白いのは、「百合が咲いています」ではなくて、「百合が咲きます」と書いてあるところだ。

ここには、「もしかすると、栄養不足とか虫害などで、百合の花が咲かないかもしれない」なんていう考えは微塵もない。
「絶対に百合の花は咲くのだ」という、強い執念さえ感じられるのである。

さて、この極めて大事にされている百合の花の写真が、下の写真。
白い百合ではなく、赤いオニユリであった。
立て札からして、もう少し目立つ花かと思っていたのだが、意外と質素であり、密やかに咲いている花であった。



2013年7月20日土曜日

やめよう。ポイ捨て

授業の前に海が見たくなった。

N西のすぐ近くには駿河湾が広がっている。
さっそく海岸に出てみる。
大雨の後ということで、海岸には多くのゴミが打ち上げられていた。
ただ、ゴミにもめげない釣り人の姿も、何人かみることができた。



さて、授業の時間も迫ってきたので、海岸から戻る時に見かけた立て札。

「やめよう。ポイ捨てタバコ・空きかん・ビン犬のフンの放置等」という文字。
地元の自治会制作である。
何気なく通りすぎたのであるが、よくみると妙だ。

まず、「やめよう」で句点がある。
ということはこれは倒置法だ。
そのあとの「ポイ捨てタバコ・空きかん・ビン犬のフンの放置等」を「やめよう」ということになる。

これはこれで分かるのだが、問題は「・」の位置である。
「ポイ捨てタバコ」を「やめようは分かる。
「空かん」や「ビン」をやめよう、とはどういうことだ。
仮に「ポイ捨て」が「タバコ」「空かん」「ビン(かんだけ空がついているのも変だし、ビンだけカタカナなのも変だ。)」にかかるとすると、「犬のフンの放置等」も「ポイ捨て」されたものになる。
いくらなんでも、「犬のフンの放置等」は「ポイ捨て」できまい。

やはり、妙なのは「。」と「・」の位置なのだろう。
「やめよう、ポイ捨てタバコ。やめよう、空かん・空びん・犬のフンの放置等。」というところだろうか。

すっかり、理屈こね太郎になってしまった私であった。

2013年7月19日金曜日

影をやは踏まぬ。

現在、三年生の古典の授業では、「大鏡」を講義している。
「大鏡」という作品は、藤原氏に対して批判的な作品と云われているのだが、道長に関しては批判というよりも、むしろ「彼は幸福者である」というニュアンスが強い。
授業で講義するところは、道隆・道兼・道長の三兄弟が父親の兼道に、バカにされる場面である。
兼道は、この三兄弟を藤原公任(きんとう) 
と比べて、芸がないことを批判する。
「わが子どもの影だに踏むべくもあらぬこそ口惜しけれ。(自分の子どもたちが公任卿の影さえ踏めそうにないのは残念だ。)」
すると、歳が一番下である道長がこう言う。
「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。(影は踏みませんが、いつか面を踏みつけてみせましょう。)」
すごいね。「面をやは踏まぬ」である。
この部分は反語なのだ。「面をふまないだろうか、いや必ず踏みつける。」である。
果たして、道長は関白となり、公任を圧倒するのである。

2013年7月18日木曜日

NSA

NHKの番組でNSA (NSA National Security Agency)の特集を見た。
(CIA) がヒューミント (Humint;human intelligence) と呼ばれるスパイなどの人間を使った諜報活動を担当するのに対し、NSAはシギント (Sigint; signal intelligence)  と呼ばれる電子機器を使った情報収集活動とその分析、集積、報告を担当する。
NSAはあまりに全貌が不明瞭なため、その略称は「Never Say Anything(何も喋るな)」「No Such Agency(そんな部署はない)」の略だと揶揄される事も有るのだと。
恐ろしい時代である。
要するに我々の日常は、電子機器を使う限り、常に監視されているということだ。
アタシの日常を監視して、一体何のメリットがあるのでしょうかね。


2013年7月17日水曜日

三島由紀夫「美神」

写真は百合の花であるが、花の内側が普通の百合とはちがっているような気がする。おそらく交配によって色を変化させたのだろう。

現代文の授業において、三島由紀夫の「美神」という短編小説を講義することになった。
三島由紀夫という作家、好きでも嫌いでもない。
その「割腹自殺」というセンセーショナルな出来事により、日本人の多くは「わからなさ」を抱いているという。
ただ、文章の美しさは認めざるをえないであろう。

三島文学の根底に流れているのは、「醜」があるからこその「美」、「悪」があるからこその「善」という二項対立的思考を超越し、「美」と「醜」は、元来、アイロニカルな共犯関係にあるという。
つまり「美」によって、現実の俗悪さ、日常の醜怪さを全否定するのだと。
唯美主義である。



2013年7月16日火曜日

西施捧心

昨日の続きで、「西施」のことについてもう少し書いてみたい。
「西施」は中国の春秋時代の女性と言われており、中国四大美人の一人(楊貴妃もその一人)だとも。

「西施」に関しては、「西施捧心」の四字熟語もある。
これは、「西施、心(むね)を捧(ささ)ぐ。」と読む。

意味は、絶世の美女である西施が病気になり、病む胸を手で押さえ、眉をひそめて歩いていた。その姿の美しさに人々が見とれたのを見て、村の醜い女が自分も同じことをすれば美しく見えると思い、同様にやってみたところ、人々はいっせいに逃げ出してしまった。
つまり、「同じ行いでも、人や場合によって差が生まれる。」ということである。

なんでもマネすればいいってものではないのだ。



2013年7月15日月曜日

合歓

東名高速道路の測道沿いに「合歓の花」が咲いているのを見つけた。
フアフアとした妙な花である。
「ねむ」を「合歓(ごうかん)=男女が歓びを共にすること」と書くのは、夜になると葉が閉じて、その形が男女が共寝をする形に似ているからだという。

「象潟や 雨に西施が ねぶの花 (奥の細道)」

合歓の花を見ると、いつも芭蕉のこの句を思い出す。
句意は「象潟(秋田県)の雨に濡れて咲いている合歓の花は、(美女の誉れの高い)西施が、目を閉じているかのような趣きである。」である。
なるほど、このフアフア感は美女の睫(まつげ)のイメージ?
なのであろうか。 

芭蕉は宮城県の「松島」を見たあとに、象潟を訪れている。
象潟というところは、今こそ田んぼだらけの風景であるが、かつては松島と同様に海に島がてんてんとする、風光明媚なところであったという。
芭蕉は男性的な松島の景色に比して、象潟には女性的な美しさを感じたのであろう。




2013年7月14日日曜日

1+1=2

今日、週刊誌をみていると、面白い記事があった。
週刊誌に曰く、「計算とは情報を捨てることによって、意味を獲得しているプロセスである。」

「1+1=2」という式の「1+1」と「2」は、決して同じではない。つまり、「1+1」からは「2」はつくれるが、「2」から「1+1」は導けないのだそうだ。(ウン、確かに。)

「1+1」の方が「2」よりも、たくさんの情報を持っているということである。(へぇー、なるほど。)
この情報を捨てる代わりに「2」という意味を取り出す手続きが「1+1=2」という計算なのだと。(そうか、そうなんだ。)

2013年7月13日土曜日

さすがに疲れました。

4限・5限・6限と授業で、その後に放課後補習をやった。
さすがに疲れた。
そりゃあそうだ。
200分以上、ほぼ続けて立って居なければならんし、200分以上、大きな声でしゃべっていなければならん。
やはり教師というのは、まっとうな仕事ではないのだ。
早く、堅気になりたいものだ。

高校生と一緒に授業をするのは、実に楽しいし、良い気分なのだが。
体力的にキビシイのだ。
これが歳をとるということなのだろう。

気候的なこともあるような気がする。
暑さゆえ、教室にエアコンがはいる。
ずっと、教室にいればよいが、次にエアコンのないところ、そしてまたエアコンの教室と、短時間での体温調節が必要とされる。

疲れの原因は、たぶんここなんだろうね。











2013年7月12日金曜日

危機管理

毎日毎日、暑さの話になってしまう。
ただ、予報ではこの暑さも金曜日までということだ。

熱中症で、今日も全国では何百人かの人達が病院に搬送された。
ある中学校では、持久走のテストが行われ、二十数人の生徒が熱中症のため病院に搬送されたという。

学校関係者談。
「危険であるという認識はあったが、学校行事を円滑に遂行しなければならない故、持久走を実施した。」
危険の認識があったら、さっさと中止すればよかろうに、と思うが、そうならないところが、学校の悲しさなのだ。

このニュースを見て感じたのは、福島原発の所長のことだ。
彼は、東電本社から核への注水を中止せよ、との命令を無視して、注水を継続したという。
注水を中止すれば、大惨事になったかも知れないという。

スケールの差はあるにしても、危機管理に関する判断は、斯くも重要なのかが、思い知らされる事件であった。



2013年7月11日木曜日

テニスの日

今日はテニスの日。この炎天下2時間ばかりコートを走り回った。皆さん(ほとんどの方が70歳以上)よく倒れないものだ。私自身、今年の四月より、水曜テニスを始めたおかげで、多少走りまわっても、身体のほうは大丈夫である。慣れというものは恐ろしいものだ。妙なもので、身体の方がついてくるのに従って、頭の中にも昔の動きのイメージが出来てきて、瞬間的に予想外のプレイができることがある。ちょっと前に現代文の講義で「個性とは何か(個性は身体であるということが結論)」という教材を教えた。やや歯がゆい感じで、この教材は終えたのであるが、この頭で考える前に身体が動くのを実感すると、「おおー、その通りだ。」と認めざるをえない気がしてきた。

2013年7月10日水曜日

家の造りやうは

御殿場から、そう遠くない山梨県の勝沼というところで39度以上の気温を記録したそうである。
39度といったら、人間の体温よりも高い温度だ。
このような気温の中にいると、呼吸するだけで疲れてしまうのではないか。

吉田兼好の「徒然草」の中に、「家の造りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は、堪えがたき事なり。」(第55段)
という記述がある。
「家の造り方は夏を本位にするのがよい。」
の意であるが、「ごもっともだ」。
冬の寒さはどうにでもなる。
しかし、夏の暑さは「エアコン」の一時しのぎでは、なんともし難いのである。

昔も今も、夏の暑さには本当に苦しめられるようである。

2013年7月9日火曜日

気候が異常だ。

暑いのは仕方がないとして、湿度には参ってしまう。
夜遅い時間の現在でも湿度は70%を超している。

異常な暑さ。
ゲリラ豪雨。
報道ステーションという番組では、地球温暖化が確実に進んでいると言っていた。
世界のどの国においても「これは困った問題である」ことは、十分に理解している。
それなのに行動が伴わない。
温暖化を阻止するには、経済の発展をストップさせなければならないからだ。
紛れもなく人間のエゴである。

寒い日、暑い日の増加。
大雨。
竜巻。
これらも頻度が高まっている。

自然からの警告なんだがね。





2013年7月8日月曜日

蜥蜴?登場

今日の御殿場も、日本各地から伝わってくる猛暑の気温とはちょいと違った涼しい気温であった。
最も午前中は、ピーカンといった感じの日差しの 強い天気であったのであるが、午後からは例によってキリ。湿度はかなりのもの。やはり、御殿場は静岡県ではないのだ。

気温と湿度のせいかどうかはわからないが、ドア越しに一匹のトカゲを発見。
何を思ってドアにへばりついたのか、しっぽをくるりと回して、ゴキゲンのようである。

まてまて、これはひょっとしたらヤモリかもしれないぞ。


2013年7月7日日曜日

猛暑

雨のあとは猛暑らしい。
「らしい」というのは、御殿場というところ、幸いなことに真夏でも30度を超えることは滅多にない。
ニュースによると、群馬県の館林では37度だったとか。
御殿場は、霧こそ酷かったが、部屋の窓を閉め切っていても26度程度であった。
濃い霧には閉口するが、これからは御殿場の天下だね。

暑さのことを言うと、先週アメリカのデスバレーで、気温が53度まで上がり、暑さで人がなくなったそうである。
なんでも世界で一番暑い気温を記録した土地も、このカりフォルニア州にあるデスバレーで、1913年の7月10日に56.7度を記録したのだと。

ちょうど今から100年前のですね。
しかし、56.7度とは想像を絶する暑さだ。

写真は、蓮の寺「蓮興寺」の屋根。

2013年7月6日土曜日

湯治

N西は期末テスト、本日はテスト監督もなかった故、湯治に行こうと決め雨風の中、足柄温泉まで出かけた。
こんな荒天時には、優雅に温泉に浸かる人間も居まいと、高をククッテ行ったのだがトンデモナイ、温泉の駐車場には結構車が止まっていた。

さて、雨ザアザアの中、どうせ濡れるのだからと、露天風呂に出てみると、先客が二人。
しばらく浸かっていると、そのうちの一人のオヤジから話しかけられた。
「おおっ、これはチョットいやな予感」と思いはしたのだが、「まあ今日はヒマだし」の思いもあり、「少しなら付き合おう」と話しにのった。

「後悔先に立たず」=いくら後悔しても取り返しがつかないから、何かをする前には十分に考えてからせよ。
オジサンよほど「話したいストレス」が溜まっていたのか、話す話す。次から次へと結局三十分以上話を聞くはめになってしまった。

教訓「露天風呂のオヤジにはむやみに、近づくな」

2013年7月5日金曜日

エジプトのクーデター

エジプトで軍のクーデターが起きた。
軍は大統領を拘束しているという。
ニュースでは、大統領に対する国民の反発デモがあり、それを受けた軍のクーデターを伝えているが、事情はどうも複雑なようだ。

そもそも、拘束された大統領は「アラブの春」という民衆の蜂起が起こり、その蜂起を軍が支持して、その後の選挙で選ばれた大統領である。
それが、一年そこそこで軍に拘束をされてしまったのだ。

我々にはよくわからないが、有力者の利権や宗教、またその背後にいる大国、これらがいろいろ絡みあってのクーデターらしい。
ひとつの国がまとまるということは、本当に難しいね。

2013年7月4日木曜日

再び「怪我」

「怪我」再びである。
昨日「「怪我」の字は当て字だろうと、書いたのであるが、ネットでいろいろ検索しているうちに、「怪我は当て字でない説」を見つけた。
その説に曰く。
「怪我」の語の構造は「怪しい自分」ではなく、「自分を怪しむ」である。
「怪」を「ケ」と読むのは呉音であり、「あんなことをしなければよかったと自分を咎める」、つまり「過失」という意味だったのが、だんだんずれていった。
したがって、先に「けが」という日本語があって、それに「怪我」という字を当てたのではない。だから「当て字」と言うのは適切ではない、と。
これは、なかなか難しくなってきたぞ。

2013年7月3日水曜日

怪我

学校において「防災」についての研修があった。
研修は、それなりに実のあるものであったが、研修中にちょいと気になる言葉を発見してしまった。

「防災」の研修は、当然、「地震、またそれに伴う津波にどう対応して行くのか」なのであるが、そのマニュアルの中の言葉に「怪我」という言葉が登場。
「ン?何故ケガは怪我なんだろう。」
「怪我」という漢字は、たぶん当て字なのだろうが、「ケガ」とカタカナで書くのも不思議だ。普通カタカナは外来語に使うのだがね。
語源は「けがる」から来ているという。
「穢る」である。
「穢る」は「汚い」という意味だ。
もともとは「怪我の功名」などと使われるように、「思わぬ過ち」が
「怪我」の意味だ。それが、「不注意で傷つく」ことから、負傷の意味の「ケガ」になったという。
この言葉は、まだまだ謎の残る言葉であようだ。

2013年7月2日火曜日

「睡蓮」実は「蓮(はす)でした。

昨日のブログにおいて、大きな誤りをしてしまった。
それは花の名前である。
この花の名を「睡蓮」「睡蓮」と連呼したのだが、実はこの花の名は「睡蓮」ではなく、「蓮(はす)」だったのである。
実際「「蓮」と「睡蓮」は間違いやすいらしい。

それでは、「蓮」と「睡蓮」の違いは一体どこかというと、まず「葉っぱ」であるそうだ。
「蓮」の葉の方には「切れ目」がない。それに対して「睡蓮」の方には、葉に「切れ目」があるのだと。
また、撥水性の差。
「蓮」の葉は強烈に「水」をはじく、一方「睡蓮」の方は、それほど「水」をはじくことはないということである。
さらに、「蓮」のほうが写真に見えるように、水面から花の部分が突き出しているのに対して、「睡蓮」の方はほぼ水面に咲くそうである。

「知ったかぶり」はあまりするものではありませんね。
もっとも、ヨーロッパでは、「蓮」も「睡蓮」もまとめて「ロータス」という名を使うということである。



2013年7月1日月曜日

蓮興寺の睡蓮

先日、県内ニュースを見ていると、沼津にある「蓮興寺」の「睡蓮」の花を取り上げていた。
これは早速行ってみなければと思い、腰を上げた。(こういう時の私の腰は、とっても軽いのです。)
「蓮興寺」というお寺は、沼津といっても富士に近いところにある日蓮宗のお寺であった。(こんなところに睡蓮の寺があるなんて知らんかったなあ。)
根方街道から山側に細い道を上って行くと、新幹線のガードを越えたあたりに、その寺は突然現れる。
山門下にテニスコートくらいの敷地があって、そこに大きな瓶がいくつもおいてある。
その瓶の中に睡蓮は開いていたのであった。