自然が相手の行事というのは、得てして思うようにはならないことが多い気がする。自然にとってみれば、「人間様の都合通りにはならないぞ」ということだろう。
まあ、こればかりはどうしようもないことだ。
自然が相手の行事というのは、得てして思うようにはならないことが多い気がする。自然にとってみれば、「人間様の都合通りにはならないぞ」ということだろう。
まあ、こればかりはどうしようもないことだ。
要はこうである。人口の減少に苦しんでいた沼津市であったが、思わぬ展開がそれを救った、その大きな理由は、沼津市を舞台としたアニメ「ラブライブ・サンシャイン」のファン(若者が多い)たちが続々と沼津市に移住しているからであると。
何だかオジサンには理解できかねるのであるが、実際、テレビのインタヴューに答えていたファンによると、「ラブライブ」の舞台となっている沼津にあこがれて移住してきたファンは百人はいるとのことであった。
フーン、「ラブライブ・サンシャイン」が人気アニメであることは、十月に開催したワタシの写真展会場(芹沢光治良記念館)がその聖地となっており、その会場に多くの「ラブライブファン」がやってきたことで実感していたが、まさか一地方都市の人口を増やしてしまうとは。
「ラブライブ恐るべし!」である。
(写真は、写真展会場である芹沢光治良記念館駐車場に停車している「ラブライブツアーの団体用バス)
分析したのは、パ・リーグとセ・リーグの両方でコーチ経験のある人物であった。
将来の各チームの強弱を左右するのは、それぞれのチームがドラフトにおいて、どのような選手をとるかであるが、ここにセとパでは大きな差があるという。
傾向として、パは剛腕投手であり、セは完成度が高そうな投手なのだそうだ。そしてパの場合この剛腕投手が速い球に強い打者を育てていくのだと。
今回の日本シリーズ、ソフトバンクと巨人の試合を見ていると、その打力に圧倒的な差を感じた。やはり、このことが原因なのでしょうね。
コロナ騒動の方は一向に収まらず、感染はどんどん広がっていくようだ。
とにもかくにも、今回のコロナウィルスのたちの悪さは、罹患している本人が、自分では意識のないまま、また他人にうつしてしまうことだ。
昨日のニュースでも、うつされた人がどこで罹患したのかと、首を傾げていた。本人の言によれば、「恐らく電車かバスの公共交通機関ではなかろうか」ということである。
わが愛車ジューク(正式には1600GTFourというターボチャージャー付の四輪駆動車である)、走行距離は15万キロに近づいている。ここまでほとんど故障なく走ってこられたことに感謝しなければならない。
「無事これ名馬」という言葉があるが、自分の車を褒めてやるとすれば、まさにこういうことになるだろう。
写真はたびたび登場してくる「二の岡神社」、銀杏の落ち葉が境内に敷き詰められていて、黄色い絨毯のようである。
今日の夕刊には三島関係の記事がいくつか載せられていたが、その中でも美学者谷川渥氏の説明する「三島美学」は、秀逸であった。
氏は、三島の美学を「薔薇の花」で例える。
「薔薇の花弁は折り重なって、内と外があやふやになっている。これはつまり、内面と外面があるということの否定であり、すべては外面であるというのが三島の思想なのだ」と。
そしてこの美意識の背景にはニーチェの哲学があるとも。
「人間の真実が内面にあるとか、表側は嘘だけれど裏側に真実があるとか、そういう考え方をニーチェは『背後世界論』といって否定した。」
さらにいう。「三島は30歳から肉体を鍛え始め、自決する45歳までひたすら表面を築きあげようとした。最後に選んだ割腹というのは、内臓をさらけ出すこと。内と外の二元論を、血を出すことによって破ろうしたのである。自らの美意識に殉じたかのように。」
50年前のこの日、ワタシは大学一年生であった。帰宅途中の電車の中で、前の座席に座っていた人が号外の新聞を読んでおり、その一面に出ていた大きな写真の片隅に、人の首がころがっていたことを今でも思い出す。
そもそも、サラダというものは生野菜に塩をかけたものが起源だという。
Wikipediaによると、古代ギリシャ・ローマの時代にはすでに生野菜(主にキュウリなど)を食す習慣があり、「サラダ」の語源は調味料の「塩」を意味するラテン語の「サル」(sal)または「塩を加える」を意味する動詞「サラーレ」(salare)にあり、当時のサラダの原形が塩を振りかけて生野菜を食することにあったことをうかがわせるそうだ。
さて、話はポテトサラダに戻るが、ポテトサラダの中には生野菜はキュウリ以外あまり存在していないのである。だいたい主役のポテトが生ではないのだ。それなのに、堂々とサラダを名乗っているのは実に奇妙である。
このことはジャガイモ(ポテト)が謙虚すぎることに原因がありそうだ。自分が主役であるのにすでに茹でられてしまっている、したがって大声で主張することができない。なんと哀しいことか。
じゃがいもよ、もう黙っていることはない。意を決して「サラダ」の名を捨てよ。(ワタシも陰から応援しているから。)
週の初めのテニス、このテニス自体は楽しいのだが、身体がキツイ。(ワタシには、これからまだ一週間の仕事があるのです。)
さて、コロナ感染者の方は、残念ながらまだまだ増えていきそうだ。これに対処するには方法はふたつ。前回と同じように、きっぱりと人の移動を止め、ひたすら収束するのを待つ。そしてもう一つはスウェーデンのように、多少の増加(犠牲)はしょうがないと、普通に経済を動かし、普通に生活する。
両立なんてえのは、きわめて難しいンではないですかね。
紅葉というのは、全体の葉が紅くなければ紅葉ではないのだろうが、緑の葉に混じって、チラチラと見える紅い葉も、なかなか乙なものである。
特にすべてに陽が当たるのではなく、部分的にスポットのように陽が当たっているのは、何となく趣きがある。
(おおー、まるで清少納言のようだ。)
これは陰陽師である安倍晴明が、自分の家来の式神(人の目に見えない鬼神)に対して命令を下す場面である。
さて、この台詞の中の「かつがつ」に注目してみたい。
「かつがつ」とは副詞であり、「且つ且つ」と書いて、①「不満ながら」とか「ともかくも・まあまあ」の意、あるいは②「かろうじて・やっと・わずかに」の意、さらに③「とりあえず・急いで」の意、そして④「早くも・今からもう」の意を持つ。
ここでは③の「とりあえず」の意で使っているのだが、「且つ且つ」の「且つ」だけにしぼってみると「且つ」の意は「一方では」となる。したがって「「且つ」を二つ並べると「一方では、一方では」となり、「あちらこちら」の意が強くなるのだが、それが何故「とりあえず」の意になってしまったのでしょうかね。
その戦いというのは、在来種である「ススキ」と、外来種の「セイタカアワダチソウ」の戦いであり、どちらが駆逐されるかである。
ワタシとしては、当然、在来種の「ススキ」を応援したいのであるが、「「セイタカアワダチソウ」もなかなかしぶといのである。
正に「強いものが生き残っていく」という自然の摂理をまざまざと見せつけられているようで、何かゾッとするものを感じた。
(写真は御殿場二の岡神社の境内)
案内板には、「黒澤明『七人の侍』と二の岡神社」とある。
要は「二の岡神社」は、ベネチア国際映画祭銀獅子賞の「七人の侍」のロケ現場としての聖地であるという説明だ。
黒澤作品は、この他にも「椿三十郎」「影武者」「乱」等々、御殿場をロケ地として多く使用してきたのだと。
今、どうしてこのタイミングでこの案内板が設置されたのかは定かではないが、いづれにしろ世界の黒澤が、この地を愛していたことは間違いはないだろう。
色々なテレビ番組を見ていると、関東から東北ににかけての地方は、もう大分紅葉が始まっているようだ。
何でも今年の紅葉は例年に比べると、美しいらしい。
今日の東京都のコロナ感染者は、過去最高の493人を記録したという。世の中、嫌なことばかりが続いているので、ひとつくらい良い事があってもいいだろう。
さあ、これから冬の北海道ということで、いつもなら賑わいも迎える時期なのに、北海道にとっては経済的な打撃も計り知れないものがあるだろう。
斯くいうワタシもを、唯一の楽しみである「冬の北海道行き」を断念せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。
思えば毎年毎年、もう三十年以上も北海道に通っていたのだ。
ワタシへの打撃も計り知れないほど大きい。
職員室の机の上に置かれていた冊子のクイズに面白いものがあった。
①「男は度胸、女は愛嬌」の続きは?
②原稿用紙の真ん中にあるマーク(【】を縦型にしたもの)は何というか?
③イタリア語で「私を元気づけて」という意味のデザートは?
さて、皆さんも考えてみてくだされ。
バズるとは、インターネット上で口コミなどを通じ、多くの人々が一つの話題について様々な意見を交わす様子を、群がり飛び回るハチに見立てて表現した言葉であり、各種メディアや一般消費者の話題を席巻するさまを指す語ということである。
バズるという語は英語の動詞 buzz を日本語化した言い方である。 buzz には「噂話などでガヤガヤ騒ぐ」、元は「ハチがブンブンと羽音を立てて飛び回る」といった意味合いがあるそうだ。
うーん、流行の言葉についていくのはなかなか大変だぞ。
最近のスケジュール手帳には、「日曜日始まり」の手帳がほとんどないのである。
歳をとってミスが多くなってきたワタシにとって、今までのスタイルと異なった「月曜日始まり」というやつは、きわめて危険なのである。いろいろな日にちを勘違いする原因にもなりかねない。
一体、どうして「月曜日始まり」が増えてしまったのかと調べてみると、どうも理由は週休二日が定着してきたからということらしい。つまり、土曜日・日曜日と続く休日の予定を記入するには、こちらの方が都合が良いということ。
うーん、年寄りにはだんだん不便な時代となっていくのですね。
なんと、沼津市が舞台になっているアニメ「ラブライブ」ファンのために、東海バスがバスをラッピングしてツアー客を乗せているという。
さて、そのバスが何故この駐車場に止まっているのかというと、わが愛する「芹沢光治良記念館」が、「ラブライブ」の聖地となっているからである。
つまり、アニメに登場する女の子の一人が文学少女であり、芹沢光治良のファンでもあるのだと。
ワタシもアニメを観たわけでもないので詳しいことはよく分からないが、なにはともあれワタシの写真を展示してある二階のフロアに日本全国から「ラブライブ」ファンがやってくるのだ。それはもう凄い勢いでファンはやってくる。
ワタシの聖地がアニメの聖地と重なってしまったので、本当にワサワサしていたのであるが、これもひとつの運命と考えて、達観するようにしていたのである。
ワタシが教員になり立ての頃の生徒(生徒と言ってももう還暦を迎えている生徒達だが)から現在教えているT高の生徒まで、その間およそ45年、その間に接した生徒が(勿論同僚だった先生たちも)、ほぼ勤務した学校ごとに今回の展覧会に顔を見せてくれたのである。
こんなに有難いことはない、ほんとうにこれは文字通りの「有り」「難い」ことなのである。
皆さんに感謝。
ワタシもこのことを糧に、これからも精進していかねばなりませんね。
「コスモス」を撮ることははワタシのライフワークのようなものであり、この花の写真だけは今までの展覧会においてすべて展示してきた。
何だか魅力的なんだよなー、コスモスという花は。
コスモス
「浮遊」
意味は、空中や水面に浮かび漂うこと。また行先を定めないで旅行すること。
コスモスという花は、この「浮遊」感が、非常に感じられる花である。(この思いは私だけか?)
これは茎が長い上に、その花びらがプロペラみたいに見えるからであろうか。
いかにも空中を「浮遊」し、また彷徨っているようでもある。
「浮遊」という言葉、私はその雰囲気から外国語を日本語に翻訳するときに出来た造語なのだろうと思っていた。
しかし、この言葉、意外に古くから存在しており「源平盛衰記には、次の表記があるそうだ。
「本朝鼎臣(ていしん)の外相を以て異国浮遊の来客見えん事・・・・・」
十月十日から十一月八日まで、今回はずいぶん長い展示期間であった。その中で土曜・日曜・祭日が十日ほど、この間すべての日を会場待機したのである。労いの言葉は少なかったが、これは自分で自分を褒めてやりたい。もう、何と言ってもトシなのですから。
今日は「蓮」である。
実際の色はもう少しくすんでいるのであるが、パソコンで操作して明るい色にしてみた。
蓮(はす)
以前、この花の名を「睡蓮(すいれん)」「睡蓮」と連呼したのだが、実はこの花の名は「睡蓮」ではなく、「蓮(はす)」であった。
実際「「蓮」と「睡蓮」は間違えやすいらしい。
それでは、「蓮」と「睡蓮」の違いは一体どこかというと、まず「葉っぱ」であるそうだ。「蓮」の葉の方には「切れ目」がない。それに対して「睡蓮」の方には、葉に「切れ目」があるのだと。
また、撥水性の差もその違いである。
「蓮」の葉は強烈に「水」をはじく、一方「睡蓮」の方は、それほど「水」をはじくことはないということである。
さらに「蓮」の方は、水面から花の部分が突き出しているのに対して、「睡蓮」の方はほぼ水面に咲くそうである。 「知ったかぶり」はあまりするものではありませんね。
もっとも、ヨーロッパでは、「蓮」も「睡蓮」もまとめて「ロータス」という名を使うということである。
頭も身体もまだ回復していない、その中で鬼のように迫ってくる「やらねばならぬこと」、いやはや疲れましたわ。
写真展の案内、本日は「気になるもの」である。カマキリは「気になる虫」であったが、それと対応させるために「もの」とした。
引手・蛇口・採水口(気になる物)
写真は、引手、蛇口、そして採水口である。
何れも本来の目的から離れることなく、現代に引き継がれている「実用の美」を持っている。
写真の「引手」は御殿場秩父宮記念公園にある物置小屋の「引手」であるが、よく観察してみると、「こんなところにこんな意匠が」と、感動した「引手」である。
次の「蛇口」は御殿場高根の運動公園にあった「蛇口」。
「蛇口」の語源は、日本の近代水道初期に道路脇の共用栓のデザインが、生物としての「蛇」(欧州では水の神である獅子の頭部)を用いたことに由来する。
そして、「採水口(サクション)」、その場から離れた防火水槽などから水を吸うための「口」である。初めてこれを見た時には、その使用目的がよく分からなかった。
ただそのフォルムが何故か色っぽく、妙に心惹かれたのである。
今日もいろいろな方に来ていただいた。最初にN西でお世話になったW先生、沼津仲見世のマルサン書店で展覧会を開いた時から来ていただいている。
次に現れたのがやはりN西の国語科で同僚であったS先生、ご夫妻で。
そうこうしているうちに不思議な縁のあるK夫妻、そして以前一緒に写真展を開催したS先生、久しぶりの登場であった。最後にはN東の同僚であったO先生、ジャズとオーディオの話で以前はよく盛り上がったものだ。
さてさて今日の写真は「蟷螂」である。
蟷螂(気になる虫)
「螳螂(とうろう)」とはカマキリのことである。
カマキリの名の由来については、「鎌切」という表記からわかるように、「鎌で切る」から「鎌切り」となったという説と、「鎌を持つキリギリス」の意味であり、この「キリ」は、ヤブキリ等、キリギリスの仲間の名に含まれる「キリ」と同じであるという説とがあるそうだ。
カマキリの特殊な姿や行動は、古くから多くの人間に観察されており、前脚を持ち上げる姿から「拝み虫」とも呼ばれる。また、ギリシャ語では「預言者」という意味があり、神からの使者としてメッセージを運ぶ存在であるとも。
何れにしても、「蟷螂」は不思議でチョイト恐ろしい生き物である。
「かりかりと 螳螂蜂の 顔を食む」 山口誓子
今日、展覧会会場に最初に姿をみせてくれたのはG南とN西でともに同僚であったM先生。これからもお元気で。
次にT高の卒業生のKさんとNさん、二人とも元気そうで良かった。今年は大変な学生生活を強いられているけれど、頑張ってください。
二人と話をしていると、G南の国語科で同僚だったK先生、我々二人は名字もいっしょで、とても仲良しだったのです。世の中が落ち着いたら是非「手打ち蕎麦」を食べさせてください。
そうこうしているうちに、(御殿場からのお越しご苦労様でした)ワタシの図書館古典講座の生徒さんである、Sさん、Tさんの仲良し姉妹が登場。去年に続いて有難うございました。今年度も講座が開講できると良いのですがね。
さて、今日の写真は「湯島の狐」である。
湯島の狐
東京の湯島、箭弓(やきゅう)稲荷神社の狐である。
縁起には「鎮座の年月及び由緒は不詳」とあった。
ところで、神社は普通「狛犬」だが、稲荷神社には狐が鎮座している、何故「稲荷」に限って狐なのだろうか。
まず、「稲荷」というのは「稲生り」でもある、ここから「稲荷」は食物と関係のある神になったようだ。
一方、別の食物の神で「御餞津(みけつ)」という神がある。
狐の古名は「けつ」であり、どうもこのふたつが混同されて、「稲荷神社」の守り神が狐となったようだ。
ただし、「稲荷」と「狐」の関係には諸説があり、これが確実という説はないようである。
湯島天神という由緒ある神社の近くにあって、この稲荷の「鎮座の年月及び由緒は不詳」には心惹かれる。
不詳であるがゆえに、ここのキツネ様は魅力的なのである。
写真展解説の三回目である。
このスペースでは「新宿」という街と「湯島」街を比べてみた。新宿は西口近くの割とゴチャゴチャした感じがする場所、一方湯島は昔の面影のある湯島天神付近の稲荷神社である。
まずは新宿から。
新宿の自転車
昨年、東京(どういうわけか丸の内)で同窓会があったのだが、開始の時間までにだいぶ余裕があったので、新宿をうろつく。
新宿は、いわば少し気取ったオフィス街の「丸の内」とは対極を成すような猥雑(表現の仕方にチョイと問題があるが)街である。
しかしながら、ワタシは昔からこの新宿の猥雑さが好きであった。
例えば、文字によるコマーシャル、なんと大胆なことか。ここには、恥ずかしさを突き抜けた誘いがある。
そして、看板前の自転車、この自転車がなぜここにあったのかは、まったく分からない。
この分けの分からない感が、新宿なのである。
そう言えば、新宿には「青蛾」という木造の妙な喫茶店があり、何回か行ったことを今思い出した。
ワタシが今まで聴いていたスピーカーはJBLというアメリカ製のスピーカーだった。こちらはまさしくジャズ向きで、要するにジャズを心地よく聴くためのスピーカーであったのだが、TAOCの趣きは、どうもそれとは異なるようであった。
コマーシャルによれば、「音楽」に関わる美しい響きは活かし、「音楽」に関わらない不要な振動を除去することで「繊細さ」「艶っぽさ」「密度感」といったニュアンスを明快に表現するらしい。
ふーん、まだそこまでは実感できないが、これからじっくりと聴きこむことにしよう。
今日のテニス時に、わが師匠から「朝日ヶ丘」などという時の「ヶ」は、一体何だという質問があった。
そこで得意の「Wikipedia」で検索してみる。以下は「Wikipedia」の回答である。
「ヶ」は、日本語における文字のひとつ。片仮名の「ケ」を小書きにしたように見える字体の文字で、主に助数詞や連体助詞「が」の用途として使用される。
助数詞や助詞「が」の用途として使用される場合は、「か」、「が」、「こ」と発音される。また、表記としては大きな「ケ」も使われる。本記事ではこの場合の「ケ」についても説明する。
助数詞や連体助詞「が」の用途として使用される場合の「ヶ(ケ)」は、片仮名の「ケ」とは由来を別にし、「箇」または「个」の略字とされる。「个」は、「箇」のたけかんむり部分、あるいは「介」の略字から来ていると考えられている。なお「箇」は「個」の異体字であり、意味の違いはない。この場合の「ヶ」は片仮名ケの同形異字と考えられるが、今日では、片仮名ケを書いて「か」「が」と読ませる、というようにも受け取られている。「け」と誤読されることを避けるため小書きが好まれる傾向はあるが、本来大小による意味の違いはない。
戦後の公用文や教科書などでは固有名詞を除き平仮名の「か」で統一して使用していることがほとんどである。
送りがな、添えがなの用途で片仮名「ケ」を小書きすることがある。
平仮名の「 ゖ」という文字もあるが、助数詞や助詞「が」の用途で使用することは一般的ではない。
うーん、なるほどね。
思い込みとは恐ろしいものだ。
さて、文化の日である本日も展覧会へご来場、有難うございました。
最初にT高の同僚であるI先生、お嬢さんと一緒に、お忙しいところのご来場、感謝申し上げます。次にF高の教え子M君、いつもいつもお花を有難う、もう三十年以上の付き合いだね。そのあとはN西の卒業生、Nさん、Tさん、Sさん、そしてNさん、五年間皆勤です。そして最後にN西の同僚、H先生とK先生、N西時代にはお世話になりました、これからもお世話になります。
今回の写真展のテーマは「比べる」であるが、先日第一回目として「羅漢」を提示したので、これと対応させるために「紙垂」を展示してみた。神社などにある和紙でつくられたアレである。
以下、説明書きを載せてみることにする。
紙垂(しで)
神木に巻き付いている縄が「注連縄(しめなわ)」、また縄にぶら下がっている白い紙が「紙垂(しで)」である。
紙垂(しで)とは、注連縄(しめなわ)や玉串(たまぐし)などに垂らされている稲妻形の紙のこと。
紙垂(しで)を垂らす意味は、そこから先が神聖な場所であるという境界線の役割をしているということである。
紙垂の稲妻形についてはいろいろな説があるらしいが、「雷があると稲が育ち豊作となるので、その雷光をイメージし、さらに稲妻によって邪悪なものを追い払う。」という説がなかなか説得力がある。
また、「しで」という言葉は動詞「垂づ(しづ)」の連用形で、「しだれる」と同根であるとも。
写真は、小山町須走にある浅間神社で撮ったもの。
紙の質感が気に入ったので展示してみた。
T高のSさん、自転車で頑張って来てくれてありがとう。これからも頑張り屋の頑張るところを是非見せてください。
その後N西で一緒に勤めたY先生、去年はたいへんでしたね。今年は恐らく心穏やかに過ごされていることかと思います。
続いてN西で最初に教えたクラスのSさん、もう社会人として立派に成長していますね。
そしてT高のMさんとK君、Mさんは去年も顔をみせてくれました、去年に続いて有難う。Mさんの笑顔には本当に救われます。初めてのK君も有難う、このような展示に興味を持ってもらえるだけで嬉しいですよ。
考えてみると、昔の教え子や同僚がいて、今の教え子や同僚がいる。まさに私の過去と現在が展覧会の会場で交差しているのだ。もしかすると、この不思議な快感のためにワタシは展覧しているのかもしれません。