今日の夕刊に、抜けている言葉「ら」ではない?
の見出し記事があった。
「見れる」「食べれる」といった、「ら抜き言葉」で抜けているのは「ら」ではない。?
ツイッターでのある大学教授の講義が話題になった。
ら抜き言葉は可能助動詞「られる」の「ら」が抜けたと取られるのが一般的である。
ただ、抜けているのは「ar」だとする見方も成り立つ。
例えば「見られる→見れる」の変化をローマ字で書くと、「mirareru→mireru」で途中の「ar」が抜けたとも捉えられる。これは「行く」の可能の形「行かれる→行ける」という変化にも当てはまる。「ar」抜きの現象は、室町時代ごろから続く。
大正・昭和から登場した「ら抜き言葉」だけが、言葉の乱れとしてやり玉にあげられている。
我々は長い時間かけて生じた言葉の「時代差」は許容できても、リアルタイムで起こる「世代差」は認めたがらない。
記事は「言葉は生き物、新しい時代の新しい言葉づかいに対して、『正しい』『正しくない』ではなく『言葉が変化している』とのまなざしを持つべき」でまとめられているが、ワタシもまったく同感である。
ただ、「見れる」は使いたくはありませんがね。
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