若松英輔の「『こころ』論ー『語られざる遺言』」の中に、なるほどと手を打ってしまうような記述があった。
文学における理想は、「感覚的」なことを記すことによって、感覚的領域を超えたものを描き出すこと、あるいは、感覚的なものを通じて「一種の情」、すなわち心の躍動を活写することだというのである。「情」の字は「じょう」と読むべきなのかもしれないが、その意味するところは本居宣長がしばしば書き記しているように、「こころ」と解してもよいだろう。
人間を描くことによってむしろ、生ける「情(こころ)」をまざまざと世に顕現させること、それが初期からすでに芽生えていた作家夏目漱石の挑戦だった。
高校生の現代文教科書に、必ず登場する小説「こころ」であるが、この小説の主人公は「私」でも「先生」でもなく、「こころ」と呼ばれる得体のしれない何者かであるとさえ言えるように思われるという部分は、まさに「そうだ、その通り」と大声で叫びたくなった。
いままで、小説「こころ」の「こころ」の意味が何となく、釈然としなかったのであるが、この小論を読み、スッキリしたような気がしたのである。
写真は富士吉田「御師(おし)の住宅」の入り口を撮ったもの。
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