2017年11月14日火曜日

事実は揺らぐもの。

三年生の選択国語の授業では今、入試問題を解いている。
今日は成城大学の問題であったのだが、問題文がなかなか面白かった。

書くという行為は自由を内にはらみ、同時に社会の共通の約束事から自分を切り離す恐ろしさも持つ。
書く際に私たちを縛るものに事実へ妄信がある。
事実は揺らぐもので、詳細な事実を記録することに意味はない。
事実だけではなく、そこに想像力が加わる時に、事実が意味を持つのだが、事実信仰者は想像力の介在と「嘘」を恐れる。
事実は誰が見ても同じという安心感に安住するかぎり、書くことにはつながらない。
書くことは、一人で闇夜の冒険に出かける子供のような、怖いけれどもわくわくする自由があるのだ。
(「ことばのの処方箋」高田宏)

うーんこの文章、普段ワタシの言いたかったことを、代弁してくれているような文章で嬉しかった。
「事実は揺らぐものであり、さらに事実は誰が見ても同じものではない。」のである。
見方の相違、歴史の専門家が聞くと目をむいてしまうような文言であるが、今我々が学習している歴史は、ある一方の方向から見た歴史であるような気がする。(多方面から見た歴史となると、既成の歴史観に混乱が生じるのは分かっている。)
勿論、歴史の専門家からすれば、そんなことは百も承知、分かり切ったことと一蹴されてしまうのだろうが、それでもなお言いたいのだ。
「事実は揺らぐものであり、事実は誰が見ても同じものではない。」





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