2017年8月31日木曜日

作品合わせ

サッカー日本代表が、オーストラリアに2-0で勝ってワールドカップ出場を決めた。
今まで出場機会の少なかった若い選手の二人が得点をしたということで、今日の勝利は、二人を選んだは監督の手柄なのだろう。
実績のある選手ということでなく、現在もっとも得点のニオイのする選手を使ったのである。
選手起用がすべてのゲームだったような気がする。

書道教師のSさんと、展覧会のための作品合わせを行なう。

実は、今日のこの作品合わせの瞬間が、展覧会のもっともスリリングで楽しみな瞬間なのだ。山頭火の句に対して、お互いがどのようなアプローチをしたのかが、分かる瞬間なのである。
それは二人の作品が、ピタリと一致する場合もあるし、また全く違うアプローチである場合もある。
いづれにしても、この瞬間は、たまらなくスリリングで楽しいのである。




2017年8月30日水曜日

復活の「学校へ行こう」

今から二十年以上前によくみていたテレビ番組に、ジャニーズのV6が担当している「学校へ行こう」という番組があった。

今日、久しぶりにこの番組が復活した。
何故、昔よく見ていたのかというと、登場してくる人間の多くが「高校生や中学生」であったからだ。

本日もその例にもれず、女子高生が男子高校に、また男子高校生が女子高校に、それぞれ数人ずつ数日留学するという企画があった。
まあ、言ってみれば、女子高生の群れの中に数人の男子、男子高生の群れの中に数人の女子が入って学校生活を送る。
こんな企画である。

イヤー、実にほのぼのとする。
演技ではなく、素の若者の姿は、ほのぼのとするのである。





2017年8月29日火曜日

『ない』ことの必要性

司馬遼太郎の「この国のかたち」の中に
「神道」について書かれた部分がある。

「神道には、教祖も教義もない。」
「神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない。しかし、そのまさしく『ない』ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。」

司馬遼太郎が評価した作家、小泉八雲=ラフカディオ・ハーン。
このハーンのひ孫、小泉凡氏は言う。
「ハーン、日本に来た当時、横浜に欧米の日本研究者の会がありましたが、ハーンはついに加入しませんでした。彼らはどうしてもキリスト教中心主義的目線で日本を見ている。『神道は宗教ではない』としました。聖書やコーランのような経典もなく、戒律もないためです。しかし、ハーンは『そこがいいんだ』と言う。神道は生活習慣と深く結びつき、民族の道徳基盤一切を統合したようなものしている。物の本質はハーンのほうが見ていたんじゃないかと思うんです。」

『ない』ことによって、西洋に対抗する。
まさにその通りである。
あの極めて日本の危機であった幕末期を、西洋の植民地となることなしに乗り越えられたのも、この『ない』ことよって、西洋に対抗したからである。

2017年8月28日月曜日

ピンクのコスモス

今年初めてのコスモスである。
(裾野ヘルシーパーク)

よくは分からないが、コスモスという花は連作に向いていないとみえ、去年写真を撮った畑とは異なった畑に、ピンクのコスモスが栽培されていた。

去年までピンクのコスモスが咲いていた畑は、ほとんどがオレンジ色に変わってしまったのである。(ワタシのコスモスの色はピンクに決まっているのだ。)
ピンクのコスモスはってえと、すっかりオレンジにおされてしまって別の場所で、申し訳なさそうに咲いていたのである。

まあ、文句を言っても仕方がないので「オレンジ色じゃあコスモスではないよなあ。」と一人でブツブツ言いながら数少ないピンクのコスモスを撮ってきた次第。

2017年8月27日日曜日

御殿場の幸せ

一時(いっとき)の、オニのような暑さからやっと解放されたような感のある、今日の気温であった。(いよいよ秋か?)

現在(午後五時)、室温は28℃である。
このくらい温度であれば、湿度の低い(55%)御殿場は快適なのである。

午前中、所用で沼津にいたワタシにとって、このこと余計に感じられる。

静岡県の特殊地域(毎年のように積雪のある)に居住するからには、このくらいの幸せがあっても当然だよね。

2017年8月26日土曜日

ワイン・ビストロ・ベルジェ ⑦

 今年度の「ワイン・ビストロ・ベルジェ」の料理である。
今年で長野へのフランス料理を食べに行くツアーも通算七回目となった。写真は、今回のワタシの選択である。

前菜は初めての「自家製モッツァレラチーズとスイカのカプレゼ」。
カプレゼとは、イタリアンで最近よく知られるようになったモッツァレラチーズのサラダで、カプリ島からのネーミングであるようだ。
今日はフレンチであるのだが、普通トマトが使われるところを、スイカにしているようだった。

主菜、これも今回初めて。
「オーストラリア雄短角牛のヒレカツ」
かぼちゃ、人参、ミニトマトが添えられている。
要するに、牛カツであるが、きわめてボリュームがあり、ソースも抜群であった。
やはり、フレンチというのはソースなんだろうね。

三品目のデザートは、夏らしく、「グレープフレーツのジュレマンゴーシャーベット添え」。
これは、過去にも選択したデザートだ。
写真でも十分に味が想像できるのではなかろうか。

いずれにしろ、前菜、主菜、デザートの他に珈琲、パン(イチジクとプレーンのバケット)。
これで三千九百円とは。
いつもながら、ナンテコッタ。



2017年8月25日金曜日

二回目の「海野宿」

ここのところ、毎年実施しているN西国語科の「ベルジェでフランス料理を食べる会」で長野まできている。
写真は途中に寄った「海野宿」である。
今年の六月には、同じくN西のSさんと寄り道したので、2ヶ月ぶりの「海野宿」でもあった。
以前にも書いたが、ここはウダツで有名な宿場町でもある。
今回も、訪れる時間が遅かったので、あたりに人影はあまりみられず、まるでゴーストタウンのようであった。


2017年8月24日木曜日

暑い

昨日に増してさらに暑い。
御殿場で夜になっても三十℃超えとは、こんなこと滅多にないのです。

午前中はG南に行って教材研究、午後は家に帰ってきてひっくり返っていたのだが、空気が熱風であった。
こんな暑さは一体何年ぶりだろうか。

身体の熱さを多少でも和らげようと思い、水分を摂るのだが、摂れば摂るほど、更に身体は水分を要求してくる。
まったくの悪循環である。

これで胃がやられてしまうんだよなあ。

2017年8月23日水曜日

なんてえこった。

三島でも、三十四℃とか三十五℃とか天気予報で言っていたので、恐らく今年の夏一番の暑さになったのではないかと思う。

さて、この暑さの中で水曜テニス。

今日の目標は、最後まで無事であること、ただでさえ身体は熱いのに、そこにさらに運動して熱量を加えるのだからこれは身体に良かろうはずはない。
良かろうはずはないどころか、老人には危険なのである。

そ、それなのにワタシ以外は皆元気。
皆、ワタシよりも年上なのに。
なんてえこった。


2017年8月22日火曜日

「とっぽい」とは

夕方のニュース番組をみていると、漫画家のやくみつるが、サザンの桑田佳祐のことを表現する言葉として「とっぽい」という言葉で説明した。
横にいた女性アナウンサーが「とっぽい」の意味が分からず、「とっぽいって何ですか?」と質問した。
まあ、ここまでは良いのだが、やくみつるが説明したのは「とっぽい」とは、今で言うと「チャラい」だよ。

オイオイちがうだろ。
「チャラい」は言動が軽く、浮ついていること。
「とっぽい」には「チャラい」なんてえ意味はないぞ。
辞書で引けばわかるが、「とっぽい」とは
①機を見るに敏だ。(抜け目がない・生意気の意味にも使われる。)
②間抜けだ。
の意味しかない。
我々がよく使用したのは、「生意気」の意だ。

やくみつると言えば、クイズ番組などでよく活躍している「物知り」だが、彼にしては大きなミスである。

2017年8月21日月曜日

一生懸命

「一生懸命」という言葉がある。
「懸命」の意味は「力の限りを尽くすこと」である。
では、そこに「一生」を加えると、「一生の間、力の限りを尽くす」となる。

何かおかしい。
例えば、「今日は一生懸命頑張ろう」という場合、「今日は一生頑張ろう」ということになってしまう。
「一生」とは「生まれてから死ぬまで」のことだ。
「今日は一生頑張ろう」では、言ってることが矛盾してしまうのだ。

さて、国語辞典でこの意味を引いてみると、「一生懸命」は「一所懸命」の長呼とある。
長呼とは、「披露」を「ひろう」というなど、発音の便宜上一音節の語に母音を添えて発音すること。
「披露」は普通に読めば「ひろ」であるが、そこに「う」を加えて「ひろう」とするのである。
従って、本来「いっしょけんめい」となるところを、母音を加えて「いっしょうけんめい」となったということだ。

では、「一所懸命」とは何か。
武士が昔、ただ一か所の領地を死守して生活の頼りとしたこと。
「(自分の)ただ一か所の領地のために、命を懸けた」のである。

「一生懸命」は、先に「いっしょうけんめい」の読みがあって、「いっしょう」の部分に「一生」の字を当てはめたのである。

「一生」に「命」を「懸」ける、これでは変だものね。

2017年8月20日日曜日

F高クラス会

ワタシが富士市のF高校に勤務していた時の生徒が、クラス会を企画してくれ、昨日はそのクラス会の当日であった。
彼らと別れたのは、三十三年前である。

当時のF高は、文系も理系も同じクラスで、しかも二年、三年とメンバーの入れ替わりがないという、今ではなかなか、お目にかかれないシステムであった。
従って、否が応でも二年間、一緒に顔を突き合わせていなければならない。
(もっとも、N東高の理数科では一年から三年まで、メンバーが変わらず、担任、副担任も変わらなかったということがあったので、付き合う長さで言えばこちらの方が長い。)

ただ、特筆すべきはF高の場合は文理が一緒であるということなのだ。
理数科は云わば、目標をほぼ同じくする同志であるが、文理となると、その目標はかなり異なっている。
(このような混在は、効率がよくないと見え、現在のF高ははっきり分かれているようだ。)効率はよくないが、この異なっていることが、今となっては実に面白いクラスを作った要因であると考えられる。

さて、ほとんどの生徒が久しぶり(三十年以上の月日)の再会であったにもかかわらず、顔を合わせた瞬間に、昔のことがヨミガエッタ。
あんな事件、こんな事件、修学旅行、球技大会、懐かしい、実に懐かしい。

最後に彼ら(五十二歳?)が色紙にメセージを書いてワタシに渡してくれたのであるが、「十八歳の頃は分からなかった事が、後で分かるようになってきました。」
この言葉がすべてを物語っているようであった。

三年C組の男の子・女の子、モトへ、紳士・淑女諸君、昨日は本当にありがとう。





2017年8月19日土曜日

彼岸花

久しぶりに暑さがもどった。
このところの雨続きで、野菜の値段が高騰しているという。
野菜にとっては、やはり普通の暑さが必要なのであろう。

暑いのを覚悟して、秩父宮記念公園まで出掛ける。
写真のネタがなくなってしまったからだ。
今日は土曜ゆえ団体客が多く、あまりのんびり写真を撮っているヒマはなかった。
上の写真はその中の一枚。

もう彼岸花が咲き始めていた。
彼岸花というのは、八月から咲いているんだね。

2017年8月18日金曜日

上品上生

今年の「ずんぶり浸る展」に使用予定の写真である。
三年前、書道教師のSさんと諏訪湖で合宿した際に撮影した「万治の石仏」だ。
この写真では全体像が分からないが、石仏はとてもユニークな姿をしていらっしゃる。
(興味を持たれた方は是非ネット検索をして頂きたい。)

さて、今回の写真は、この両手で印を結んでいる「万治の石仏」の、手の部分だけをクローズアップしてみた。

この印を「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」というらしい。
「上品上生」とは、浄土教で極楽往生の際の階位のひとつ。
階位は「九品(くほん)」といわれ、「上品上生」「上品中生」「上品下生」から「中品上生」・・・「下品下生」までの九つの階位である。
つまり、「上品上生」は「九品」の最上位となる。

「観無量寿経」によると、その意味は、現生での生活が非の打ち所がない善人であり、臨終の時には仏が迎えに来てくれて即座に極楽往生できるのだと。

何故「万治の石仏」が「上品上生」の印を結んでいるのかは定かではないが、まずは目出度い印なのである。

2017年8月17日木曜日

展覧会の準備

十月の展覧会「ずんぶり浸る展」に向けて順調に準備を重ねている・・・と言いたいとろだが、実際は少々頓挫してしまって、「おおー、神様」状態が続いている。

準備開始は六月、Sさんと今回使用する「種田山頭火」の句について、すり合わせをして(二人の選んだ句を更に絞る作業)、全部で十三句決定したのであるが、この期に及んで、「ウーン(゜_゜)これはなかなかむずかしいぞ。」という句が、いくつか出てきてしまった。

たとえば、「月も水底に旅空がある」。
これを写真で表現するにはどうしたらイインダロウ。
「月」だけでも難しいのに、さらに「水底」、そして極めつけは「旅空」である。
ウーン、ウーンとワタシの悩みは十月まで続くのである。


2017年8月16日水曜日

安曇(あど)

松本健一「司馬遼太郎が発見した日本」を読んでいると、「安曇(あど)」という地名について書かれた部分があった。「安曇(あど)」とは、かつて日本にたどり着いた海洋民族の土地の名で、琵琶湖の西の堅田の、もっと北に位置するところだという。

ワタシの知っている「安曇」は、「安曇野」の「あづみ」である。
「安曇(あづみ)」は「あ・すむ」で、「あ」とは「吾」、「すむ」は「住む」である。すなわち、海で生活する人びとが「住む」土地を意味するのだそうだ。

さて、海洋民族となると信州という山国に「ナシテ?」ということになる。
非常に不思議に思ったが、海洋民族は、かつて糸魚川から安曇野まで入って、さらに諏訪湖までたどり着いたという。
諏訪の有名な御柱祭は、山から大きな木を伐り出してきて、それを神社の境内に立てる祭りだが、もともとは、目的地に到着して、必要がなくなった船の竜骨(船の中心の背骨の柱)か、もしくは帆柱にするような大木を立てたということである。

へー、諏訪湖に海洋民族かあ。

2017年8月15日火曜日

「灯篭流し」と「精霊流し」

番組名は失念してしまったが、何日か前に、「灯篭流し」と「精霊流し」の違いについて説明をしていた。

「灯篭流し」というのは、盆の終わりの夜に、魂(たま)送りのため、小さな灯篭に火を灯して川や海に流す行事。
一方、「精霊流し」は、初盆を迎えた故人の家族が精霊船と呼ばれる船を引いて、市内を回った後、川に流す行事だという。
長崎で有名な精霊船は、さながら山車のような豪華さで、大きな船、立派な船を出すことが一種のステータスともなっている。

以前、長崎出身の歌手、さだまさしが「精霊流し」という曲を発表したことで、その名が全国的にに有名になったが、歌の持つしめやかなイメージとは違って、実際の精霊流しでは歓声や爆竹の音が鳴り響き、祭りのような雰囲気らしい。
なお、爆竹を鳴らすのは中国の「彩船流し」の影響を色濃く受けているからとされており、元は魔除けの意味があったとも。

ふーん、そうなんだ。
さだまさしの歌にすっかりやられてしまったね。
あの歌から「爆竹」は、まず想像できんものね。

(今回の写真、じーっと見ると、カミキリ虫が。)

2017年8月14日月曜日

特定検診の結果



特定検診を七月に受けたのだが、今日はその結果を聞きに行ってきた。
コレステロールであるとか中性脂肪は、毎年のように引っかかっていたので、それ程気にはならかったのであるが、「心室期外収縮」が指摘されたことは、ややショックでもあった。
いわゆる「不整脈」が出ていたのである。
「不整脈」は今回が初めてではなく、以前にも出たことはあるので、出たからと言って動揺はしていなかったのであるが、最近の自分の身体に起きたことを考えると、やや気になることでもあった。

何でも「期外収縮」自体は放っておいてもよい不整脈だが、自覚症状が強い場合には治療の対象になるという。

やはり、歳を取るということは、こういうことなんだなあ。







2017年8月13日日曜日

暇の礼賛

午前中は曇り空。
午後から夕方ににかけては、かなり激しい雨。
こんな雨降りになるとは思っていなかったんだがなあ。

加藤典洋という文芸評論家が、小冊子「図書」の中で、「日本という国はオソロシイ」と書いていた。

車で道を走っていると、時々旗を振っている人がいる。
クマさんのぬいぐるみを着て振っている人もいる。
手の空いている店員を「休ませる」と、ソンをすると考える店主がいるのだろうか。
管理職の名目で店員以上に働かされているブラック企業の店長が、さらに少しでも自分の成績をあげようとして考え出したのか。
店員が少し暇になって休む。
それを「働く時間の空白」、ムダと感じる感性がないと、こういうことはおこらないだろう。

まったく、同感である。
「何もしないことの素晴らしさ」、「暇の礼賛」とでも言ったら良いのだろうか。
これが認められない限り、「旗振り店員」は増え続けるのでしょうね。


2017年8月12日土曜日

三好達治のこと

池澤夏樹の「萩原朔太郎と詩人の私生活」という文章の中に、三好達治についてふれた個所があった。

三好達治と言えば、高校の現代文の教科書には必ずといってイイほど登場してくる、高校生的「ザ・詩人」である。

例えば有名な詩集「測量船」には次のような詩がある。








太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

実にノドカで、大らかな詩である。

ところが、この詩人三好達治には、トンデモナイところがあったそうだ。
彼は、朔太郎の妹のアイに恋をして、十五年の間ずっと慕いつづけ、昭和十九年に当時の妻を離縁して子供たちと別れた上で、福井県の三国に彼女を呼び寄せた。アイの方にも打算があったかもしれないが、この結婚は最悪の結果に終わる。
気持ちは合わず、詩人の生活と性格はあまりに世離れしていて、愛していると言いながらの暴行はひどいもので、彼女は十か月で三国から逃げ出したという。

うーん、トンデモナイ暴力夫だったのだなあ。




2017年8月11日金曜日

インパクトのあるトイレ

何日か前に、マツコ・デラックスと有吉弘行の「かりそめ天国」という番組を観ていると中華料理店「清龍門」のトイレが紹介されていた。

ここのトイレはかなりのインパクトがあり、早速ネットで検索してみると、いろいろなバージョンがあって、そのひとつひとつが実に個性的であった。
写真はその一部であるのだが、ネットでの説明を読んでいると、使用者が便器に腰掛けると、前にある大きな顔が説教を始めるということだ。

うーん、すごいね。
東京には何でもあるね。











2017年8月10日木曜日

明視の距離

寺山修司(劇作家・歌人・小説家・劇団主催者と幾つもの顔をもつ)が、「青蛾館」というエッセイ集の中で、「明視の距離」について述べていた。

「明視の距離」とは、我々が本を読む時の、本と目の距離である。
この距離がないと、我々は本に書いてあることが理解できない。
本からの距離が遠すぎると、字が読めない。
近すぎると字はぼやけてしまう。
つまり、我々が本を理解するためには、凡そ二十五センチの「明視の距離」が必要なのだと。

さて、このことは人間と人間の関係についても同様である。
その人間を客観的に理解するには、ある程度の距離が必要なのである。
肉親のように、きわめて近い人間では情が入って、客観的な理解はできまい。
かと言って、初めて会った人が、自分のことを理解しているかというと、これも無理なことである。
自分のことを客観的に理解してくれる人とは、自分に対して適正な距離を持った人に他ならないのである。



2017年8月9日水曜日

炎天下のテニス

部屋の中の温度が夜になっても三十℃を下回らない。
やはり、今日のこの暑さは異常である。

この異常な暑さの中、オジサンたちはテニスをやったのです。

涼しい御殿場から炎天下の沼津愛鷹テニスコートまで出掛けて行き、凡そ二時間の運動、これはオジサン、いやジジイとっては、自殺行為に他ならない。
陽射しを避けるところのないコート上では、気温もおそらく三十五℃を超えていたのではないだろうか。
そこで、六十代七十代のジジイが、二時間動きまわるのだから、これはもう・・・。

家に帰ってきてからも、身体の中の熱が、なかなか放出できていないような気がする。
こんなところから熱中症は始まるのでしょうね。
水風呂にでも入って早く熱をとらねば。

2017年8月8日火曜日

おちゃらか






写真は、御殿場東山の駐在所前道路に埋め込まれていた「おちゃらかほい」の陶器?板。
設置の目的は、よくわからないが、恐らく信号機のあるところなので、信号を待つ間に童謡?的なものを見て、心をリラックスさせる目的なのであろうか。

さて、真偽は不明だが、実はこの「おちゃらか」遊女の歌らしい。
貧乏だったため、親に売られたり人身売買されて遊女となってしまった女性が、早く自由になりたい。そのために「せっせ」と働かなければならない。
これが「せっせーの」であるという。

 せっせっせーの (今晩もせっせ、せっせと働きなさい)  
 よいよいよい (宵はまだはじまったばかりだよ)  
  おちゃらか おちゃらか おちゃらか ほい (ほら、おちゃらかしにお客がやってきたよ)  
  おちゃらか 勝ったよ (オレはこの女を買ったよ)  
  おちゃらか ほい おちゃらか 負けたよ 
      (あぁ、負けてしまった あの子は買われて私は買われなかった)  
  おちゃらか ほい

この解釈の真偽は前に書いたように、はっきりとは分からないが、「かごめ、かごめ」同様哀しい歌だったんだね。
 

2017年8月7日月曜日

台風5号

台風5号が静岡県に影響を与えている。
午後9時現在の位置は、名古屋にかなり近いところということだ。
どうも今回の台風は雨台風らしい。

昔と違って、昨今の進路予測はかなり正確になっているようである。
それは、台風がニュースから示される予想進路の通りに移動していることで分かる。
今後、長野県を縦断して関東地方から新潟あたりを通って日本海に抜けていくのが、現在の予想のようだ。

ワタシの頭の中にある幼いころの台風の思い出といえば、自宅の屋根が強風により飛ばされてしまって、台風が去ったあとに、その屋根のあった空間から月が見えたという、かなり強烈な思い出である。

2017年8月6日日曜日

ハドソン川の奇跡

ポスター画像

「ハドソン川の奇跡」というハリウッド映画を観る。監督クリント・イーストウッド、主演はトム・ハンクスだ。ハリウッド映画にしては、比較的地味な映画のような気がするが、監督と主演でその辺は十分に補っているのであろう。
映画のコマーシャルには次のようにある。

クリント・イーストウッドとトム・ハンクス。それぞれ二度のアカデミー賞に輝く名監督と名優がタッグを組み、乗員乗客155人全員が奇跡の生還を果たした航空機事故を映画化。決死の判断と覚悟で見事なハドソン川着水を果たしながらも、浮かび上がる数々の疑惑。英雄としての評価から一転、機長は行動の責任を厳しく追及されることになる……。機長の究極の決断は本当に正しかったのか?

一言でいうと、後味スッキリの映画である。
イーストウッドがこんな映画を撮るんだ、という気がしないでもないが、「アメリカの良心(昨今のアメリカはこの良心てえやつが、どうも混沌としているようだが)」といったものを感じさせる映画でもあった。
勿論これはひとつの飛行機事故を扱ったものであるのだから、表面には出てこない問題点もあるのだろうが、最初に書いたように、何はともあれ後味スッキリの映画である。



2017年8月5日土曜日

手のひらの熱さ

部屋の中が三十℃を超えた。
御殿場では滅多にないことだ。
午後五時過ぎの現在、やっと三十℃を下回ってきたが、御殿場でこの暑さだと、今日の下界は相当暑かったに違いない。

三十℃を超えると、ワタシの手のひらは急に熱くなってくる。
これは果たしてワタシだけの現象だろうか?

2017年8月4日金曜日

三つの手術

先日、頭の方のMRI検査によって、一応頭の方のケリはついたのであるが、目の術後検査の方がまだだったので、本日そのケリをつけるために眼科まで行ってきた。

ここでもう一度、自分の手術は一体何の手術だったのかを振り返ってみる。

まず、頭の手術は「慢性硬膜下血腫穿孔洗浄術」というらしい。
まあ早い話、頭蓋骨と脳の間にある、いわば脳を包んでいる「硬膜」の下に血腫ができる。
そしてその血腫を、頭蓋骨に穴をあけ、取り除く手術が件(くだん)の手術だ。

なお、血腫のできる原因は、数か月前に頭をぶつけたなど、比較的軽度な頭部外傷が原因となることが多いそうだ。(ワタシの場合もまったくその通りで、昨年の十二月の二十八日、二十九日のブログには、この頭をぶつけた原因がはっきり書かれている。是非、読んでみてくださいな。)

さて次に目の方であるが、目の方は二つの手術を受けた。
ひとつは、「左硝子体茎顕微鏡下離断手術」。
硝子体とは、眼球の大部分をを占める透明なゼリー状の組織で、この硝子体への出血や混濁を除去する手術である。
そして、この「硝子体手術」と同時に行なったのが「白内障手術」である。
「白内障手術」は「水晶体再建術」というらしい。
要は「眼内レンズ」を挿入する手術だ。

白内障は加齢によるもので、まあ仕方がないのだろうが、今思えば硝子体の方は、どうも頭をぶつけたことが原因のような気もする。

という訳で、今年の二月二十一日から二十三日までに行なった、三つの手術を振り返ってみました。



2017年8月3日木曜日

アメリカ芙蓉

ブログにアップする写真の在庫が無くなってしまったので、「秩父宮記念公園」まで写真を撮りに出掛ける。

今日の写真は「アメリカ芙蓉」だ。
ちょうど赤と白の花が咲いていた。
「芙蓉(ふよう)」の前に「アメリカ」の名がついているので(ザリガニの前にアメリカついているのと同様)、おそらく外来種なのであろう。
ワタシが知る「外来種」というのは何でもサイズがでかい。
この「アメリカ芙蓉」もその例にもれず、大きな花を咲かせていた。

ところで、昨日までの三日間も「秩父宮記念公園」の花をブログに載せたのであるが、この三日間の花の名はすべて「姫ひまわり」である。
「姫ひまわり」の花には、一重咲きと八重咲があって、三日間の写真で分かるように、とても同じ種類の花には見えない。

これも皆、最近の外来種なんだろうね。



2017年8月2日水曜日

雨降りテニス

ここのところ、水曜日の雨降りが多く、水曜テニスが中止になることが続いた。

今日もその例にもれず、はっきりしない天気であり、御殿場では朝から雨模様であった。
ただ、「御殿場雨だが下界は晴れ」のケースは多々ある。
この「多々」を期待して下界に下っていくと、案の定、決して晴れではないが、テニスが出来ないことはない。
ということで、パラパラ小雨の中、テニスは始まったのである。

今日のメンバーもどちらかというと、月曜に続いて、
「しっかり頑張らない派」が多かったので、二時間の制限時間の二十分前には終了していた。

まあ、雨の中のテニスはこんなものだろう。

2017年8月1日火曜日

YMCA

N西の三年生が御殿場にあるYMCAの施設で勉強合宿。
知り合いの教員も多い故、夜YMCAの方へ顔を出してみた。

さて、その時の会話で「YMCA」とは何ぞや?
何ぞやというのは、もちろん我々が今いるYMCAは、Young Men's Christ'an Association の略ということだが、かつて歌手西城秀樹が歌っていた「YMCA」は、一体どういう意味だろう、ということになった。

どう考えても、彼の歌ではChrist'an がそぐわない。

そこでいろいろ調べてみると、西城秀樹が歌っていた「ヤングマン YMCA」は、米国でヒットした曲のカバーソングであるわけだが、原曲は「YMCA(米の宿泊施設)で素敵な(同性愛の)出会いを」のような主旨の歌であるという。
ン?「(同性愛の)出会いを」
ン?ン?

YMCAが宿を提供した目的は、青少年の育成のためということだったが、YMCA側が予想しなかったゲイ・フレンドリーな環境を提供することになったということだ。
原曲は「YMCA で素敵な(同性愛の)出会いを!」のような主旨の歌であるという。
(ワタシは同性愛を肯定も否定もいたしません。念のため。)

(秀樹版のヤングマンでは、単純な青春賛歌としてカバーされたので同性愛色はなく、唐突に歌われる「YMCA」の意味が不明瞭になっている。秀樹版では「Young Man Can do Anything」 の略と言ったりするが、後付け感が強いそうだ。)
うーん、そういうことか。