三年生の現代文の授業で、鷲田清一の「顔の所有」という評論を授業する。
これは、三年生最後の評論ということで、指導書曰く「難解中の難解」の文章である。
要旨は「顔は自分の意のままにならないものである。その顔を所有しようとして人は逆に顔によって所有されることになる。そこで人は反転の起こらない絶対的所有の夢を見る。そして顔を自分のものとして⦅領有⦆させられる。」といったものだ。
まあ、教科書の文章を提示しないと、全体の把握はできないので、評論自体へのコメントは差し控える。
ところで、鷲田清一が研究しているのは「現象学」という学問だ。
現象学とは、二十世紀のドイツの哲学者エドムント・フッサールが創始した哲学(的立場)のことで、あらゆるものの考え方の前提を疑ってかかる方法だという。
この「現象学」の説明部分を読んでいて、チョイト気になるところがあった。
それは、著者が引き合いに出す言葉、詩人長田弘の「みえてはいるが誰もみていないものをみえるようにするのが、詩だ(アウシュビッツへの旅)」だ。
著者は「てつがく」(哲学ではない)は詩と同じであると言っている。
哲学も詩も「みえないものをみえるようにする」作業なのである。
実は、我が敬愛する詩人西脇順三郎にも次のような言葉がある。
「詩とは、このつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識させるひとつの方法である。」
うーん、 この言葉を借りれば、写真というのもこれと同様に、「ごく当たり前の近所の風景に、不思議な快感をもってもらう、ひとつの方法」ということになるのだろう。
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