ジャズ奏者、エリック・ドルフィーの吹くフルートやバスクラリネットには「死地におもむくような」切迫感があったと、評論家は言う。分類不能な前衛の試みは理解可能な型にはめて評されがちでレギュラーバンドももてない悲運を舐めた。晩年には「あそこへ」「どこへ」「昼食のため外出中」といった曲を吹いた。
植草甚一エッセー集「ぼくたちにはミンガスが必要なんだ」から。
さて、以上は今日の朝刊に掲載されていた鷲田清一の「折々のことば」である。
「折々のことば」は、鷲田清一が自分にとってインパクトのあった言葉を抜き出して、紹介するコーナーであるが、ジャズに興味にがない人にとっては、今日の言葉は少々難解ではなかろうか。
まず、「いい加減な」の言葉を使用したジャズ評論家(彼はジャズの他にも、欧米文学や映画の評論もしている)の植草甚一であるが、かつて「スィングジャーナル」などに論文を載せていた「トッテモオシャレなお爺さん」だ。
その多方面にわたる知識は驚愕すべきもので、ワタシは「このジジイ只者ではないぞ」といつも感心していたものだ。
そして、エリック・ドルフィー。
彼の超有名なアルバムには、「ラストデイト」という死の直前に録音されたアルバムがあり、「死地におもむくような」切迫感は、このことを踏まえた言い方なのだろう。
ドルフィーは、耳に心地よいジャズと理解が難しいジャズ(聴いていてあまり耳に心地よいとは言えない前衛ジャズ?)のハザマにたったような立ち位置で演奏していた。そしてそれは評論家にとって、「分類不能な前衛の試みが理解可能な型にはめた」演奏をしていたことになったのだろう。
つまり、植草甚一が言いたかったことは、ドルフィーが評価された(前衛ジャズを理解可能な型にはめた)のは、「死地におもむくような」切迫感が演奏に感じられたからだ。そのような切迫感がなければ、簡単には理解されなかっただろう。そのような、「いい加減な褒め方をされるのは(ドルフィーにとって)かわいそうなことだ。」ということではなかろうか。
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