現在連載中の夏目漱石「三四郎」。
その後に予定されているのが、同じく漱石の「それから」。
この主人公・長井代助が「高等遊民」といわれることからこの特集が企画されたようだ。
また、最近ネット上でも、いわゆる(月9)ゲックのトレンディードラマの登場人物が、この「高等遊民」であることから、注目を浴びているのだと言う。
「高等遊民」、面白そうなので、ちょっと調べてみる。
すると、関西大学教授 竹内洋氏 「高等遊民と危険思想 教養難民の系譜(2)」の中には、次のような論文があった。
漱石と高等遊民
高等遊民という言葉は、夏目漱石によるものとおもう人がいる。おそらく芥川龍之介の『侏儒の言葉』に「露悪家」「月並み」などとならべて、「高等遊民」も「夏目先生から始まってゐる」とあることによっているだろう。
たしかに高等遊民という言葉に独自の意味を充填したのは夏目漱石である。漱石の造形した高等遊民像は『それから』の長井代助に体現されるような人間像である。「パンに関係した経験は、切実かも知れないが、要するに劣等だよ。パンを離れ水を離れた贅沢な経験をしなくちや人間の甲斐はない」「職業のために汚されない内容の多い時間を有する、上等人種」というのが漱石の造形した高等遊民像である。しかし、それは単に一定の財産があり、「パンを離れ水を離れた贅沢な経験」をすることができるというだけの意味ではなかった。漱石は金力と権力が荒れ狂う「文明の怪獣」を『野分』や『二百十日』で激しく非難したが、現実社会についてそうした批評眼をもつことのできる知識人として造形されたのが漱石の高等遊民像である。
もっとも漱石が作品中で「高等遊民」という言葉を使用しているのは、『彼岸過迄』だけである。漱石の造型した高等遊民の代表格である代助が登場する『それから』には、「三十になつて遊民として、のらくらしてゐるのは、如何にも不体裁だな」、と「遊民」という言葉はでてくるが、「高等遊民」という用語は一度もでてこない。しかし、明治45年2月13日付の笹川臨風宛の書簡には「小説をやめて高等遊民として存在する工夫色々勘考中に候へども名案もなく苦しがり居候」とあるように、自らが描く高等遊民への憧憬が並々ならぬものであったことがわかる。『吾輩は猫である』の迷亭、『虞美人草』の甲野欽吾、『三四郎』の広田先生、『彼岸過迄』の松本や須永、『こゝろ』の先生は、いずれも漱石のいう高等遊民である。
独立不羈の知識人という意味での高等遊民像は漱石を嚆矢とするが、一般には中等学校以上を卒業しても職につけない者、あるいは上級学校へ進学がかなわなくてぶらぶらしている教育ある遊民を指示する言葉として登場した用語である。漱石は明治40年代に頻繁に使われた高等遊民というフォーク・コンセプト(巷間で使用される概念)に特別の意味をこめて作り直したといえる。
高等遊民・大逆事件・危険思想
高等遊民問題は大逆事件との関連で社会問題となった。高等遊民の増大と危険思想の蔓延の結びつけかたに、社会問題のフレームアップのパターンの原型がみえて、興味深い。
たしかに大逆事件は知識人たちの不満が関与していたことは否めない。だが不満をいだいている知識人すべてが大逆事件に加わったわけでもない。にもかかわらず、高等遊民の増加がこのような事件を頻発させるように説かれて社会問題化されたのである。人々の恐怖や不安を想起させ結びつけることが社会問題化にとって手っ取り早く確実な方法である。
そこでおもいだすのだが、時代はずっとあとになるが、1978年の共通一次試験導入とともに、国立大学1期校と2期校という区分けが廃止された経緯である。その経緯もこうした社会問題のフレームアップによるところが大きい。国立大学が1期校と2期校に分類されていたときは、国立大学の入学試験は、3月はじめに1期校が、3月後半に2期校がおこなわれていた。国立大入試のチャンスが2回あった。しかし、東大・京大など有名大学のほとんどは1期校であり、2期校には旧帝大は1校もなかった。2期校の有名大学は東京外国語大学や横浜国立大学など限られた大学であった。といっても、いずれも1期校の東大などが第1志望で、東大などに不合格になった者が第2志望として志願したものである。そのひとつが横浜国大だった。したがって、「2期校コンプレックス」という言葉は早くから存在していた。2期校に入っていた多くの国立大学では、1期校・2期校を廃止した一元化入試を希望していた。
そんなときの1972年、連合赤軍が浅間山荘に人質をたてに立て篭もる事件がおきた。立て篭もったメンバーのうちの吉野雅邦は、番町小学校から麹町中学校、日比谷高校と東大コースを歩みながら、東大入試に失敗し、2期校の横浜国大経済学部に進学した。典型的2期校生だった。連合赤軍のメンバーには、吉野だけでなく、横浜国大出身者が多かった。経済学部、工学部、教育学部のそれぞれに3人で計9名もいた。
国会でも議論され、なにゆえ横浜国立大学出身者が連合赤軍メンバーに多かったかが問題になる。ある国立大学学長が参考人として国会に呼ばれた。この学長はその原因が「2期校コンプレックス」にあるとした。議員たちは、深く納得した(黒羽亮一『戦後大学政策の展開』玉川大学出版、2001年)。議員たちは横浜国立大学に視察にいった。議員たちの印象は、学生がいかにも暗い表情をしている、それは、2期校で東大などの第一志望校を不合格になった者が多いからだとされた。かくて連合赤軍事件や浅間山荘事件のようなものをおこすのは、国立大学の1期校・2期校制度だとされ、1期校と2期校の区分けが一気に撤廃されることになった。
こうしてみると、国立大学入試一元化の論理は明治末期の高等遊民問題と大逆事件との関連づけとよく似ていることがわかるだろう。明治40年代の高等遊民問題は社会問題のフレームアップの原型だった、といった所以である。
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