以前から石川県と富山県の境目が妙だと思っていた(能登半島が変なところで石川県と富山県に分断されている)。かつては加賀百万石であり、石川・富山は一緒だったはずだ、それが何故?
これは長年の謎であったが、昨日、ウィキペディアの「大久保利通暗殺」の記事を読んでいてこのことがやっとハッキリした。
「大久保利通暗殺」の実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家におよぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。
- 明治政府の石川県に対する分割処置
実行犯の島田らの出身地である石川県は事件発生当時、旧越中国全域および旧越前国の大半も含めた大県であったが、当事件をきっかけに、明治政府は石川県は大県かつ不平士族が多い故の難治県と警戒するようになり、石川の力を削減するために、(事件からおよそ3年後の)1881年に旧越前国を福井県に、1883年に旧越中国を富山県にそれぞれ分県させることに繋がった。
この事実は、石川県・富山県に在住の人にしてみれば、当たり前のことなのかもしれぬが、一つの事件が日本国の分割に関わることになるとは、イヤースゴイなあ。
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