月曜テニスであった。
休憩中の会話に、「左ぎっちょ」という言葉が出てきた。
うん、そう言えば「左利き」の友達を指す時に、昔この言葉は使った記憶があるなあと思ったのであるが、はて「左ぎっちょ」の「ぎっちょ」って何だ?
その場でスマホにより、チョットだけ調べてみたのであるが、不明の部分が多かったのであらためてし
「左器用(ひだりきよう)」説
『大言海』は、「不器用」が「ぶきっちょう」に転じたと同じように、「左器用」が「ひだりぎっちょう」に転じたとする。日常的に口にしているうちに変化しそのまま書き言葉として通用するようになり、さらに文字化された。
また、1603~04年に長崎で発行された日本語-ポルトガル語辞書の『日葡辞書』に「ひだりぎっちょう」の項目があり、「卑語」と注記してある。(以上『新明解語源辞典』)
「毬杖(ぎっちょう)」説
「毬杖(ぎっちょう)」とは、木製の鞠(まり)を槌形(つちがた)の杖で打ち合う遊戯。また、その杖。新年を祝う行事として子供によって行われる。(『例解古語辞典[第3版](三省堂)』、『広辞苑 第5版(岩波書店)』)
どうもこの杖を持つ手が、左手であったようだ。
2019年1月14日月曜日
2019年1月13日日曜日
真珠
今日の朝刊の「折々のことば」には、澁澤龍彦の小説「高丘親王航海記」の中からつぎのような一文が引用されていた。
「病める貝の吐き出した美しい異物、それが真珠です。」
うーん、なかなかインパクトのある言葉だ。
「病めるもの(異物の侵入)から吐き出された」ものが、「美しい真珠」に変化するのである。
ワタシもこの言葉を信じていたのであるが、ウィキペディアを見てみると、どうもこの言葉は誤っているらしい。
ウィキペディアにはこうある。
「小石や寄生虫などの異物」が、貝の体内に侵入した時に外套膜が一緒に入り込む結果、真珠が生成される。そのため「異物の侵入が真珠の成因だ」とする説が一般的であったが、これは誤りである。
実際は、「貝殻成分を分泌する外套膜」が、貝の体内に「偶然に入りこむ」ことで天然真珠が生成されるのだと言う。
さらにコトバンク補足すると、こうなる。
真珠がどのようにしてできるかは、古くから多くの人の関心事で、さまざまな説が唱えられてきた。それらは大きく分けて、体外から異物が侵入しそれが核となって真珠ができるという説と、貝殻を形成する外套膜(がいとうまく)の上皮細胞が分離して体内の結合組織の中に侵入することがおもな成因とする説である。前者は、真珠の生成にはなんらかの核が必要であるとするもので、たとえば吸虫などの寄生虫が体内に入りその周りに真珠層が被包したとする。このほかに核となるものとしては砂粒や受精しない卵細胞なども考えられた。また、後者の説は、真珠の生成には核は必要でなく、外套膜の上皮細胞が自然に分離して体内に陥入した結果であるとする。
2019年1月12日土曜日
ニコライ堂
「神田明神」「湯島聖堂」から聖橋を渡ると「ニコライ堂」がある。
「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭、正ニコライに由来するそうだ。
正式名称は、「東京復活大聖堂」と言い、イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂ということである。
ふーん、すべての宗教に疎いワタシには、ふーんというしかないですな。
建築の様式は、ビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからであると。
かつて、藤山一郎という歌手がいて、「ニコライの鐘」という歌があったのを何となく覚えている。
青い空さえ 小さな谷間
日暮れはこぼれる 涙の夕陽
姿変われど 変わらぬ夢を
今日も歌うか 都の空に
ああ ニコライの 鐘がなる
「ニコライ堂」は通称であり、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭、正ニコライに由来するそうだ。
正式名称は、「東京復活大聖堂」と言い、イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂ということである。
ふーん、すべての宗教に疎いワタシには、ふーんというしかないですな。
建築の様式は、ビザンチン式が基本で、壁が厚く窓が小さく、中央にドームがあり、外からみると壮大で堅牢。細かい部分にイギリスのロマネスク風やルネッサンス式が巧みに取り入れられているのは、イギリス人のジョサイア・コンドルが工事監督にあたったからであると。
かつて、藤山一郎という歌手がいて、「ニコライの鐘」という歌があったのを何となく覚えている。
青い空さえ 小さな谷間
姿変われど 変わらぬ夢を
今日も歌うか 都の空に
ああ ニコライの 鐘がなる
2019年1月11日金曜日
湯島聖堂
「神田明神」の次は、すぐ近くにある「湯島聖堂」である。
「湯島聖堂」とは、五代将軍綱吉が儒学の振興をはかるため、1690年湯島の地に聖堂(孔子廟)を創建して、上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移したのだという。
いつも人でいっぱいの「神田明神」とは異なり、「湯島聖堂」の方は、有名な史跡の割には、ほとんど人がいない。
やはり、今の時代には「儒教」は合わないのだろうか。
「湯島聖堂」とは、五代将軍綱吉が儒学の振興をはかるため、1690年湯島の地に聖堂(孔子廟)を創建して、上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移したのだという。
いつも人でいっぱいの「神田明神」とは異なり、「湯島聖堂」の方は、有名な史跡の割には、ほとんど人がいない。
やはり、今の時代には「儒教」は合わないのだろうか。
2019年1月10日木曜日
神田明神
東京行きにつき宿泊したのが、JR御茶ノ水にほど近いホテルであったのだが、昔の仲間の会った翌日、これもまた駅近くにある「神田明神」に行ってみた。
一月も九日となると、さすがに参拝客もほどほどであり、三が日のすさまじい人出とは異なり「神田明神」に好ましい落ち着きがあった。
ところで、「神田明神」の「明神」とは一体何だろう。
こういう時のワタシは行動が早い。
明神(みょうじん)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つである。
古代において神を指す名称としては、神社名を冠した「大神」という呼び方が存在していた。
また『続日本紀』天平二年(730年)十月二十九日条などにある「名神」号は朝廷における社格制度として存在していた。「明神」という言葉が文献上最初に現れたのは、天平三年(731年)の奥書を持つ『住吉大社神代記』であり、そこでは住吉大社の祭神である「底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱を「住吉大明神」と記している。
以後、平安時代における記述においては特別に崇敬される神が明神もしくは大明神と呼ばれ、その後本地衰弱垂迹説の勃興により、これら大明神が日本の民を救済するために現れた仏教の仏の化身であると考えられるようになった。
中世から近世にかけて、神が本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれる事が通常であった。
明治元年(1868年)3月28日の神仏判然令により、神号における仏教由来の言語は取り除かれるよう指令された。この法令では明神号自体は取り払うべき言葉としては示されていなかったものの、明神号はこの頃には仏教関連用語であると見られており、使用する神社は減少していった。ただし現在でも「稲荷大明神」など明神号・大明神号を使用している神社は存在するという。
へー、そうだったんだ。
一月も九日となると、さすがに参拝客もほどほどであり、三が日のすさまじい人出とは異なり「神田明神」に好ましい落ち着きがあった。
ところで、「神田明神」の「明神」とは一体何だろう。
こういう時のワタシは行動が早い。
明神(みょうじん)は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つである。
古代において神を指す名称としては、神社名を冠した「大神」という呼び方が存在していた。
また『続日本紀』天平二年(730年)十月二十九日条などにある「名神」号は朝廷における社格制度として存在していた。「明神」という言葉が文献上最初に現れたのは、天平三年(731年)の奥書を持つ『住吉大社神代記』であり、そこでは住吉大社の祭神である「底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱を「住吉大明神」と記している。
以後、平安時代における記述においては特別に崇敬される神が明神もしくは大明神と呼ばれ、その後本地衰弱垂迹説の勃興により、これら大明神が日本の民を救済するために現れた仏教の仏の化身であると考えられるようになった。
中世から近世にかけて、神が本来の名前で呼ばれることは少なく、神社名を冠した「明神」や「権現」で呼ばれる事が通常であった。
明治元年(1868年)3月28日の神仏判然令により、神号における仏教由来の言語は取り除かれるよう指令された。この法令では明神号自体は取り払うべき言葉としては示されていなかったものの、明神号はこの頃には仏教関連用語であると見られており、使用する神社は減少していった。ただし現在でも「稲荷大明神」など明神号・大明神号を使用している神社は存在するという。
へー、そうだったんだ。
2019年1月9日水曜日
四十三年ぶり?
昨日は東京行き。
学生の時の友人五人が集まった。
中には約四十三年ぶり?の友人もいた。
青森・新潟・静岡・埼玉と、バラバラに住んでいる仲間であった。
きっかけは、青森の友人と新潟の友人が、たまたま同じ日(一月八日)に東京へ出張があったということである。
ふたりとも前日に東京入りだったので、他の友人にも呼び掛けて四十三年ぶりの再会が実現した。
実に楽しい時間であった。
不思議なことは、長い年月を経過していても、その年月が感じられないことだ。
感覚的には昨日別れて、今日再び会ったようであった。
これが仲間というものであろうか。
(写真は今回のものでなく、暮れに札幌で食べた襟裳太縮冷蕎麦。)
学生の時の友人五人が集まった。
中には約四十三年ぶり?の友人もいた。
青森・新潟・静岡・埼玉と、バラバラに住んでいる仲間であった。
きっかけは、青森の友人と新潟の友人が、たまたま同じ日(一月八日)に東京へ出張があったということである。
ふたりとも前日に東京入りだったので、他の友人にも呼び掛けて四十三年ぶりの再会が実現した。
実に楽しい時間であった。
不思議なことは、長い年月を経過していても、その年月が感じられないことだ。
感覚的には昨日別れて、今日再び会ったようであった。
これが仲間というものであろうか。
(写真は今回のものでなく、暮れに札幌で食べた襟裳太縮冷蕎麦。)
2019年1月8日火曜日
謎の写真
何か謎の写真のようであるが、これは暮れに札幌の旧道庁前で撮った(この時道庁前はテッカテテカに凍結していたのです)、東南アジア系の家族の写真である。
おそらく、どこかの写真屋(ナントか写真館)が、外国人観光客に対して、貸衣装の和服や小物を用意、そして有名な観光地で写真を撮ると言った営業なのであろう。
この寒いのに和服だけでは凍えてしまうだろうに、のワタシの思いとは逆に、この家族は楽しそうに写真を撮っていた。
おそらく、どこかの写真屋(ナントか写真館)が、外国人観光客に対して、貸衣装の和服や小物を用意、そして有名な観光地で写真を撮ると言った営業なのであろう。
この寒いのに和服だけでは凍えてしまうだろうに、のワタシの思いとは逆に、この家族は楽しそうに写真を撮っていた。
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