2015年6月30日火曜日

新幹線の車内事故

新幹線のセキュリティーに、問題を投げかけるような事件が起こった。

小田原近くを走行中の新幹線「のぞみ」の中で男が灯油をかぶって焼身自殺をはかったのである。
高速走行中に列車が火災。

車内には800人近くの乗客がいたという。
火災により列車が脱線したとしたら、これはもうとんでもないことになってしまうだろう。
ぞっとするような光景が想像される。

男は灯油入りのポリタンクを車内に持ち込んでいた。
意外な盲点である。
今後、同様の事件を防ぐためには、相当な工夫が必要となるだろう。

2015年6月29日月曜日

クラリネット

クラリネットN西では授業の始まる前に、当番の生徒が担当教科の教員のところまで「何かご用はありませんか。」と顔を見せてくれる。

本日の芸術科の当番には、レギュラー当番の他に臨時の生徒がきてくれた。
彼女は音楽専攻の生徒でクラリネットを専攻する生徒である。
おおー、クラリネットと言えば私が中学生の時に吹奏楽部で吹いていた楽器だ。
チョイト懐かしい感じがして、いくつか質問してみた。

「クラリネットは木管楽器だが、ほんとうに木で出来ているの?」
私が中学で吹いていたやつは、あきらかにプラスチック風であったからだ。

生徒曰く、「高価なものは、すべて木で出来ています。」

実はクラリネットは「グラナディラ」という黒檀(こくたん)に似た黒くて硬い木が最もよく用いられているという。
ただし、近年は良質な「グラナディラ」の入手が困難になってきており、「グラナディラ」の粉末とグラスファイバーなどを混合して成形した合成素材がよく使われるのだと。

フーン、そうなんだ。
勿論、私の使用していたものは廉価モデルであり、これはABS樹脂(合成樹脂)で出来ているらしい。


2015年6月28日日曜日

アドバイスメール

先日、「笑い声」についてブログに載せたところ、新潟の友人から次ぎのようなメールが届いた。



「は」の字 様

ところでまた突っ込みをいれるが、6月22日の「笑い声」のことで
〆のコメント最後の3行に矛盾があるぞ(明らかに集中力欠乏)。
1行目が間違っている。訂正されたし。


(さて、さて、〆のコメント1行目にはこう書かれていた。)
「ハ行」や「カ行」は、音を発する時に、舌か唇の動きが必要となる。

(そして、あとにはこう続く。)
「笑い」という動作は、反射的行動であるので、そこには時間のかかる複雑な発音は適さない。
よって、舌や唇の動きが必要でない「ハ行」や「カ行」の音が当てられた。


(うん、うん、これは明らかに矛盾だ。これはすぐに訂正せねば。そしてブログはこう訂正された。)

「ハ行」や「カ行」は、音を発する時に、舌か唇の動きは必要としない。


友人は続けてこうアドバイスしてくれた。


私の見解を発表すると、笑いは「息」を出すときに腹筋(腹膜?)が小刻みに収縮して
声帯を震わせた場合の「声」であると思う。吸うときがさんまの引き笑い。
声帯を震わせない笑いの無声音は我慢をしている「ヒ」や「フ」が多い。
「息」がポイント。因みに無声音ではあるが、運動をして苦しいときの文字表現も「ハ」行。
「ハーハー」「ヒーヒー」「フーフー」も「息」である。「カ」行表現は擬態語に近い。

「笑い」も「息」の延長と考える。


2015年6月27日土曜日

春日大社

テレビの「ブラタモリ」という番組を見ていると、奈良の春日大社が出てきた。
番組では、藤原氏のことにはあまり触れていなかったが、春日大社というのは、藤原氏の氏神を祀るために造られた神社である。

さて、その春日大社、御神体は神社の背後にある「御蓋(みかさ)山」であるという。
山という自然を御神体にしているのだ。
そして、驚くべきことに、四つある社殿についても自然の地形を重要視して、地形にそった建て方をしているのだと。

つまり、本来傾斜を取るために、斜面を削ってフラットにして、その上に建物を建てるのだが、ここの社殿は建てるにあたって、その斜面を活かし、建物自体を斜面にそって、少しずつあげていく。
言ってみれば、階段のように、社の建物自体が段々上がっていくという手法を取っているのである。

これも、自然を壊さない、そして自然に対する畏敬からなのだよね。



2015年6月26日金曜日

梅雨

どうやら入梅らしい。
「梅雨」は何故「ばいう」なのかについては、諸説があるという。
そのひとつ。
本来は「黴雨」、つまり湿気で「黴」が多い季節なので「黴雨」としたが、「黴」の字の印象がよくない。
そこで、音が同じ「梅」という字を使用したのだと。
確かに「黴(かび)」よりは「梅(うめ)」のほうがキレイだ。

また読みに関しても、「ばいう」でなく「つゆ」と読ませる。
これは江戸時代からすでに「つゆ」の読みがあるという。
これについては、「梅」の実が熟す時期の雨が「梅雨」の頃であり、「梅」が熟して「潰れる」。
そして、「潰れた梅」から出てくるのが「露(つゆ)」である。
「梅雨」には、この「露」の読みを当てたのだと。

ただ、このことに関しては最初に述べたように諸説があるので、絶対にこれだとは言えないようだ。

2015年6月25日木曜日

爆発炎上事故

車での出勤途中、国道246を走っていると、遠くに煙りが見えた。
妙な煙だなあ、と思いながら裾野市千福の交差点にさしかかった時だ。
急に大きな炎が上がったかと思うと「ドカーン」という爆発音。
おおー、これはただごとではないぞ。
爆発音のした方を見ると、なんとトラックの荷台から転がったガスボンベが散乱しており、そこから炎が出ているではないか。
そして次の瞬間にまた「ドカーン」。

危なかった。
もう少し前にここを走っていたなら、事故にまきこまれていたかもしれん。

後でニュースを見てみると、ガスボンベを積んだトラックと乗用車が衝突。
そのはずみでトラックからガスボンベが転がり落ちて爆発炎上ということであった。

車の運転には、くれぐれも用心を・・・・・である。


2015年6月24日水曜日

井上有一という書家

夕刊に井上有一(1916ー1985)という書家のことが載っていた。
小中学校の教師として勤めるかたわら、創作活動をした。
彼のすごいところは、書壇も画壇も蹴飛ばし、常識を覆し、前衛書道も笑いとばす一匹狼の書家であると言われていることである。

有一は言う。
「筆法とか書法とかややこしいことは犬に食われてしまえ。」。
時には書き順も無視。
「貧」は下から書き出し、最後に上部を書いていったりもしたという。

兎も角、枠に填められることが大嫌いな人だったんだろうね。

2015年6月23日火曜日

人間の目的

新聞小説、漱石の「それから」も八十五回となった。
毎回、毎回、ウン、ウンと言いながら読んでいるのだが、今朝掲載された部分には、次のような難解な言葉があった。

「人間はある目的を以て、生まれたものではなかった。
これと反対に、生まれた人間に、始めてある目的が出来て来るのであった。
最初から客観的(かっかんてき・・・漱石はこう読ませている。)にある目的を拵(こしら)えて、それを人間に附着するのは、その人間の自由な活動を、既に生まれる時に奪ったと同じ事になる。

だから人間の目的は、生まれた本人が、本人自身に作ったものでなければならない。
けれども、如何な本人でも、これを随意に作る事は出来ない。
自己存在の目的は、自己存在の経過が、既にこれを天下に向かって発表したと同様だからである。

歩きたいから歩く。
すると歩くのが目的となる。
考えたいから考える。
すると考えるのが目的になる。

それ以外の目的を以て、歩いたり、考えたりするのは思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。
従って自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である。

ウーン、結局これは「無目的な行為を目的とする」ということなんでしょうね。

2015年6月22日月曜日

「笑い声」は何故「ハ行音」か?

現代文の授業の教材に「笑い」について書かれた部分あった。
その「笑い」について話しているうちに、ハテ、「笑い声」というのは何故「ハ行音」なのだろうかと疑問がわいてきた。

「ははは」
「ひひひ」
「ふふふ」
「へへへ」
「ほほほ」と。

まあ中には「くくく」とか、「けけけ」と「カ行音」も混じるが、基本的には「ハ行音」である。

チョイト気になったので、回答があるかどうか期待薄ではあったが、ネットで調べてみた。
すると、あるある。
世の中には私同様、へんなところが気になる人がいるのです。

おそらくこれは、学術的に研究されたものではないと思うが、このような回答だった。

回答に曰く。
「ハ行」や「カ行」は、音を発する時に、舌か唇の動きは必要としない。
「笑い」という動作は、反射的行動であるので、そこには時間のかかる複雑な発音は適さない。
よって、舌や唇の動きが必要でない「ハ行」や「カ行」の音が当てられた。

うーん、なるほど説得力のある回答だ。

2015年6月21日日曜日

テレビジョンの購入

テレヴィジョンの無い生活が続いていたが、今日はとうとう意を決して、近所にある電化製品の量販店に出掛けた。
いずれ購入しなければならないのだが、いざ購入ということになると、思い切りが必要のようだ。
特に今回は、もう歳をとった故、大型テレヴィジョンのほうが良いだろうということになり、50インチのサイズを購入予定だったことが、思い切りの鈍った原因である。

さて、結果的にテレヴィジョンを購入したのだが、驚いたことが少々。
ひとつは、品物を家に搬送するのに、配達時間を指定すると料金が発生するということ。
エエー。
今はそんな時代になったのか、とあっけにとられた。
そしてもうひとつ。
テレヴィジョンを設置する場所が、建物の二階だとこれも料金が発生すること。
二階だと2000円なのだそうだ。
では、三階だと3000円なのだろうか?
それはわからないが、ピアノではあるまいし、たかが二階に運ぶのに2000円とはね。




2015年6月20日土曜日

アルプスの少女

先日、現代文を担当しているクラスの生徒が二人やってきて言った。
「教科書に採録している『アルプスの少女』という小説の最後の部分がよくわからないから説明して欲しい。」

実はこの小説、授業では省略することになっており、私自身まだ読んだことがない。
しかしながら「可愛い生徒の言うこと、すぐに読んでみなければ。」の思い強くわき出で、何はともあれ読むことにした。

さて、石川淳作「アルプスの少女」。
勿論これはスイスのヨハンナ・スピリ児童文学「アルプスの少女ハイジ」ではない。
その「ハイジ」をパロディー化した作品なのである。

ハイジの住むアルプスの山々の世界は、美しく平和だが精神を眠らせるような世界である。(人間にとって生の基盤であり、理想的な世界のこと。)そこでは当然歩けなかった人間が、歩けるようになる奇跡も起こる。
しかし、そこは人間の精神を眠りに誘う危険な桃源郷でもある。

一方、山の下の世界(現実の世界)は、クララが育った世界であり、「戦」も「欲」もある世界である。
でも、この世界は良くも悪くも様々なことが起こりうる現実世界であり、変革の可能性を持つ世界であるのだ。
物語の最後は、「自ら立って動く」足を獲得したクララは、この山の下の世界を「虹のように美しい町」にすることを決意して終わる。

そこで、主題。
人はともすれば精神を眠りに誘うような平和な美しい世界で癒される。しかしそこに安住せず、つらくとも自分の足で立って、現実に立ち向かい、自分の理想に向かって努力する、これが「生きる」ということである。
さらに、考えねばならないのは、この作品が昭和27年に発表されていることだろう。
日本は太平洋戦争の敗戦からやっと立ち直り、将来に向けての展望が出始めている時期である。
この主題こそ石川淳の精神「可能性への変革」そのものなのだろう。





2015年6月19日金曜日

説苑

明日は土曜講習。

漢文において、「説苑(ぜいえん)」劉向を講義する。
「説苑」の「説」は「遊説」の「説」と同様「自分の意見や考えを相手に説く」という意味である。
また「苑」は「ものが集まるところ」という意味。

この本は、世俗の乱れや政情の腐敗を憂慮した前漢末期の学者・劉向が天子を戒めることを目的として編んだ書物である。

今回はその中から、趙襄子という男が孔子に対して「何故、先生の考えは広く理解されないのか。先生の道は、世の中に通用するものですか。」と、かなり無礼な質問をするところ。

孔子は襄子の質問を無視するのだが、弟子の子路が孔子に代わって、こう答える。
「あなたがお尋ねになったことは、ちょうど枯れ草の茎で鐘をつくようなものですよ。(あなたの質問は応じようがない。答えるに値しないものだ。)」

うーん、教職を生業としているものからしてみれば、チョイト冷たい回答だよね。

2015年6月18日木曜日

「悉皆(すっかり)」

朝刊の連載小説「それから」がいよいよ佳境に入ってきた。
今日は主人公「代助」のところに、代助が心を寄せる人妻「三千代」が訪れる場面であるのだが、百合の花をめぐって二人の遣り取りがスリリングである。

さて、内容は兎も角、漱石の使う言葉はほんとうに魅力的だ。
今回も「悉皆善くなるなんて、生涯駄目ですわ。」と三千代が言う。
「悉皆」と書いて、「すっかり」と読ませる。
「悉皆」は「悉皆成仏」とあるように、「しっかい」と読んで「ことごとく」と解釈するのが普通だろう。

「すっかり」とは、さすが漱石先生だね。

2015年6月17日水曜日

五年と四十年

朝方、突然テレヴィジョンが壊れてしまった。

電源が入らないのである。
あわててメーカーに問い合わせると、おそらく基盤の交換が必要であろうと、のたもうた。
おいおい、まだ五年しか使ってないぞ。

参考までに基盤交換の金額は?
と質問すると、二万円から六万円でしょうと。
な、なにぃ。
六万円だとー。
六万円出せば結構良いテレヴィジョンが買えるではないか。

おそろしい世の中になったものだ。

水曜テニス、天気が心配であったが、何とか最後まできた。
今日はチョイト面白いことあり。

我々のグループの前のグループの中から私に声をかけてくる人がいたのである。
相手がサングラスをかけていたので顔がよく見えなかったのであるが、私の実家の近所に住んでいた年下の女の子(今はもう還暦を過ぎていると思うのです。)であった。
いやー、もう四十年以上は会っていないような気がする。
私の顔が、よくわかったよなあ。
私の顔は、そんなに特徴のある顔なのでしょうかね。

(写真は諏訪で見つけた蓮の花。よく見ると左上にメダカがおよいでいる。)


2015年6月16日火曜日

紅の夢



昨日、何の番組かは忘れてしまったが「紅の夢」という林檎のことを取り上げていた。
カットする前の色や形は、普通の林檎と変わらないのであるが、ひとたび林檎をカットしてみると、エーッといった感じなのだ。

まだ食したことはないが、きっと美味しいのでしょうね。
今年の秋には是非、食すチャンスをつくることにしよう。

2015年6月15日月曜日

松本城

先週訪れた松本城の天守閣である。

なかなかスタイルの良い城だ。
この城、どこから見ても格好が良いのである。
山城ではなく平城はなので、あらゆる方向からの「見栄え」に気をつかったのであろうか。
現在、日本で天守の建物を残す城は12しかないという。
さらにそのうち、五重の天守は姫路城と松本城の2つだけ。
当然、国宝に指定されている。
私は特に「城好き」でもないが、この城の美しさは納得せざるを得ない。

ただ、過去に城自体ピンチの時もあったようで、城の重さ(千トン)に地盤が耐えられず、城が傾いてしまったこともあるようだ。


2015年6月14日日曜日

三日月宗近

「お刀女子」という女子が増えているそうだ。
「お刀女子」とは、文字通り「刀剣」に興味を持つ女子であり、刀剣の展覧会などによく足を運び、その審美眼にみがきをかけることを旨としているそうだ。

若い女性が日本の古来の伝統芸術に興味を持つことは、歓迎されることであると思うが、このことが一過性でないことを祈るばかりである。

なんでも、「お刀女子」流行の発端となったのが、DMMサービスのブラウザゲーム「刀剣乱舞」に登場するキャラクター「三日月宗近」の人気らしい。
「三日月宗近」はイケメンキャラクターであると同時に現存する国宝の日本刀でもある。
平安時代の刀工「三条宗近」によって作られた、天下五剣の中で最も美しい刀剣が、この「三日月宗近」だと言う。

うん、うんなるほどね。



2015年6月13日土曜日

バトンタッチ

先日実施された体育大会の写真である。

やはり、体育大会の華はリレー種目だ。
そして、リレーのバトンタッチというのはなかなかスリルがあって面白い。

動きの速い写真はそれなりのシャッタースピードが必要であり、レンズもそれなりのレンズが必要である。
「4000円で買った中古のレンズにしては、ウンよく撮れている。」

と自画自賛する私であった。


2015年6月12日金曜日

巨神兵

一昨日、ブログに書いた「万治の石仏」である。
この写真を同僚に見せたところ、「巨神兵」だと言われた。
うん、そう言えばそれっぽいような気もする。

「巨神兵」とは、スタジオジブリ制作のアニメ「風の谷のナウシカ」に登場するジブリ怪物枠の中でも最強クラスの人造生体兵器だという。
かつて、遥か昔に突如出現し、「火の七日間」と呼ばれる最終戦争で、世界のほとんどを焼き尽くした。
うーん、「巨神兵」か。
「巨神兵」というよりも、「天空の城ラピュタ」に出てくる「ロボット兵」のような気もするが。

2015年6月11日木曜日

「日本酒」と「国産ワイン」

久し振りの授業であった。
ここのところ、学校祭の関係で一週間ばかり間があいてしまったので、元のペースに戻すのに苦労する。

「日本酒」「国産ワイン」にルール、というニュースあり。
これは、「日本酒」と言いながら、原料の米は外国から輸入していること。
あるいは「国産ワイン」と言いながら、外国からブドウを輸入、それを原料にして日本でワインを作っていること。
こういうことに対する批判から言い方を改めるとのことである。

なるほどね。
でも、こんなことはどうでもいい問題のような気がする。
「日本酒」は「日本酒」の味がすれば「日本酒」だろうし、「国産ワイン」は「国産ワイン」の味(ン?こんな味ってあるのだろうか。)がすれば「国産ワイン」だろう。

このことによって、日本酒やワインが値上がりしなければ良いが。

2015年6月10日水曜日

万治の石仏

学校祭の代休を利用して、書道教師のSさんと長野県の諏訪まで、一泊二日の旅に出掛ける。
9月の「ずんぶり浸る展」に向けての合宿である。

上諏訪温泉はクセのないなかなか良い湯だ。
湯につかりながら(ずんぶり浸りながら)、二人で今後の方向性の確認をした。

さて、諏訪には温泉の他にもうひとつ、とても魅力的なものがある。
それが、写真の「万治の石仏」だ。
かつて、芸術家の岡本太郎が絶賛したことによって世にひろまった。
実にユニーク、実にユーモラス。
こんな石仏は他にはないだろう。
ただ、残念なのは、かつてこの石仏を見たときには、田んぼのなかにぽつんとあって、その奇妙さが心にグイグイきた。
しかし、現在は諏訪観光の目玉として、周りの田んぼは埋め立てられ、公園然となって、インパクトの欠けるものになってしまったことである。

なんでこんなにしてしまったのでしょうかね。


2015年6月9日火曜日

梅雨入り

どうやら静岡県も梅雨に入ったようだ。
これから一週間はぐずついた天気が続くらしい。

昨日、一昨日と早起きしたせいか、どうもコンディションがよくない。
早起きは健康によくないのである。

飲食店に「たぬき」の置物がたる理由は、「たぬき」なので「他を抜く」ということらしい。
フーン、そんなワケがあったのか。

2015年6月8日月曜日

芸術科の男子

N西は学校祭「体育の部」。
最初は雨が心配されたが運良くセーフであった。
何と言っても「体育の部」は天候がすべてですから。

さて、今日一番印象的であったことは、三年生の芸術科の男子が、とてもワイルドだったこと。
男子の競技種目の中に「騎馬戦」があるのだが、四人一組で騎馬をつくる。
ちょうど、芸術科の男子は四人。
この四人、普段から仲良しなので、チームワークも抜群。
そして、彼らが敵に向かって行く。
いつもは非常に繊細な動作を行なっているのに、真っ向から敵に向かって行く姿は、感動的ですらあった。

うーん、やる時はやるんだね。

2015年6月7日日曜日

生命大躍進

夜、NHKスペシャル「生命大躍進(こうして母の愛が生まれた)」を観た。
そこで「ハリもぐら」という奇妙な動物が登場したのであるが、これが実に奇妙。
「もぐら」と名前がついているので、この動物はほ乳類に分類されるが、「ハリもぐら」は卵で子を産むのである。
えーっ?
ほ乳類なのに卵?
確かに番組で「ハリもぐら」は卵を産んでいた。
その卵からこどもが孵るのだが、その後がまた面白い。
母もぐらに、乳はない。
しかしながら、皮膚の表面から白い乳状のものが汗のようにしみだしてきて、子どもは母親にへばりついてそれを飲むことによって成長して行く。

うーん、こうしては虫類からほ乳類へ進化したのだね。

(写真は通勤途中に見つけた「立ちアオイ」の花。)

2015年6月6日土曜日

学校祭

N西は学校祭。
本日は体育館でステージ発表の日であった。
N西という学校祭文化の部スゴサは芸術科を抱えているところにある。
ステージでは、将来を音楽にかけている生徒たちが次々と登場、そのテクニックを披露していく。
声楽からピアノ、ヴァイオリンにフルート、サキソフォンと、まあ半分プロフェッショナルみたいな演奏なのだ。
また、教室展示の方も美術専攻や書道専攻の生徒たちが、その才能あふれる作品を展示、来場者の目引きつけるのである。

2015年6月5日金曜日

斉藤齋藤

水曜日の「怒り新党」で斉藤齋藤という歌人の紹介をしていた。
斉藤齋藤とはなんじゃ?
最初の「斉」と、後の「斎」は異なる「さい」なのだよね、と思いつつ、その短歌を詠むと、これがぶっ飛んでいる。

「雨の県道あるいてゆけばなんでしょう ぶちまけられて これはのり弁」

何だか分からないが何か親近感がわくのである。
一体「のり弁」は、誰がどのようなシチュエーションでぶちまけたのだろう。
「のり弁」という弁当は、おそらく弁当の中で最も安価な弁当だろう。
落とし主は、なけなしのお金をはたいて「のり弁」を買ったのに、それをぶちまけてしまったのか。
実に気にかかるのである。

斉藤齋藤についてウィキペディアで調べてみた。
1972年生まれ、一浪して早稲田大学に進学したが、卒業後定職につかず、フリーターとなる。
2001年に図書館で読んだ小林恭一「短歌パラダイス」に出会い歌作を始める。
後「短歌人」に入り「新人賞」を受賞。

とある。
NHK教育テレビの「NHK短歌」に登場して注目を浴びたそうである。
うーん、今度一度じっくり読んでみよう。

2015年6月4日木曜日

さらに、よく分からない看板。

世の中には意味のよく分からない看板があることは、前のブログで触れたのであるが、右の2つの看板もある意味、よくわからない。
これは、国道138号線の高架下にある看板なのだが、高架下の空き地駐車場の管理者が設置した看板である。
ほぼ同じところにあるにもかかわらず、一方は「御殿場市身体障害者福祉会」とあり、もう一方には「御殿場市社会福祉協議会」とある。
この2つの組織は、同じものであろうか、それとも異なったものであろうか。

 一応、この2つをネットで調べようとしたのだが、管轄事業であるとか事業内容がどうもよく分からない。
調べようとすると、パスワードが必要となる。
ええー?
こんなことにパスワード?
事業内容が調べたいだけなのに、と唸ってしまうのである。

「こりゃあ、役人の天下り先なのですかね。」と思わず勘ぐってしまった私でした。

2015年6月3日水曜日

素人の面白さ

御殿場の湯沢交差点近くにあるレストランである。
トタンの壁に文字で書かれているように、食事とお酒の店だ。
トタンに塗られたブルー(何ブルーだろうか?)とアルファベットのバランスが良いので、思わず撮ってしまった。

水曜日の夜は「笑ってこらえて」という番組がある。
この番組の面白さは、芸能人ではなく、番組が「素人」中心の組み立てとなっているところである。
最近は芸があるはずの芸能人より、「素人」の方がはるかに面白いと思うのだが。

2015年6月2日火曜日

再び、行き止まり。

一昨日も書いたのだが、この看板、やはり妙だ。
「行き止まり」の表記に「き」と「まり」がないことが妙なのは前回書いた。

この看板、実は、もうひとつ妙なところがある。

大体「行き止まり」を知らせるのは、「行き止まり」の箇所が分かりにくい時に、「このまま進むと、行き止まりですよ。」の合図として、「行き止まり」箇所のかなり手前で知らせるはずだ。
何故なら、「行き止まり」が分かりにくいからである。

しかしながら、この看板はフェンスに括り付けられているのだ。
フェンスがあるということは、「行き止まり」に決まっている。
オマケにフェンスの向こうは、御殿場線の線路である。
どう考えても、だれが考えても、そして「行き止まり」の看板がなくても、「行き止まり」なのだ。
どうしてここで「行き止まり」と断る必要があるのだろう。

うーん、実に妙だ。


2015年6月1日月曜日

LIVE GENIC

夕刊に一面全てを使った新聞広告で、「namie amuro LIVE GENIC」の広告が出ていた。
これは、歌手安室奈美恵のライブ日程コマーシャルであるが、分からないのが「LIVE GENIC」の「GENIC」である。

よく「PHOTO GENIC(写真向き・写真写りが良い)」という言葉は聞くが、「GENIC」とは何ぞや?

「genic」を辞書で引くと、接尾語で「~を生じる」とか「~に適した」の意がある。
このことから考えると、「LIVE GENIC」は「ライブ向き」とか「ライブに適した」という意味にでもなるのだろうか。
安室奈美恵は、歌もダンスも上手だものね。