さて、今年のコロナ騒動ほど(たぶん)人類すべてに影響を与える事件が起こった年はあるまい。現時点でもこの厄災はまったく収束する気配を見せていない。展望がもてないとは、まさにこういうことを言うのであろう。
ただ、だからと言って顔を下に向けても仕方がない。
ここはひとつ日本人得意の「しょうがない精神」を発揮することにしましょう。
さて、今年のコロナ騒動ほど(たぶん)人類すべてに影響を与える事件が起こった年はあるまい。現時点でもこの厄災はまったく収束する気配を見せていない。展望がもてないとは、まさにこういうことを言うのであろう。
ただ、だからと言って顔を下に向けても仕方がない。
ここはひとつ日本人得意の「しょうがない精神」を発揮することにしましょう。
時代劇などを見ていると、「かたじけない」という感謝の言葉がでてくるのであるが、今日は「かたじけない」について書いてみる。
かたじけないは、「忝い」「辱い」と表記して、文語「かたじけなし(この語は『竹取物語』にも見られる)」の口語で、「ありがたい」が一般的なのに対し、あらたまった丁寧な言い方である。「忝い」は、「おそれ多い」「もったいない」など感謝をする気持ちを、一方「辱い」は「恥ずかしい」という気持ちを表している。
本来、相手の身分や言動と自分を比べた時に引けを感じ、「恐れ多い」といった感情を表す語で、それが転じて「ありがたい」「もったいない」という感謝の念を表す言葉となった。「恐れ多い」という意味の「かたじけない」は、「ありがたし」の「がたし」の例から、「難しけ(難気)なし」が語源と思われるということだ。
どうだろう、T高校の受験生諸君、重要単語の「かたじけなし」すでにインプットしていただろうか?
見出しには「74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろっている。」牧師ミツコとある。
書籍の説明には、スッと伸びた背筋ではつらつとし、牧師の家庭に生まれ、自身も牧師となり、夫と共に40年以上教会を運営、夫を見送ったあとは公営住宅に一人暮らし。年金7万円の生活で「十分」、今あるものに感謝して生きる・・・とある。
うーん、スゴイなあ。
煩悩のかたまりのようなワタシには、とても真似が出来ない生活です。
「似非(えせ)」という言葉がある。
意味は①似ているはが本物ではない。にせもの。②つまらない、とるにたりない、質の悪い、の意。
一月になると「伊勢物語」の講義をするのだが、「伊勢物語」の「いせ」とは、「似非」の「えせ」から派生しているという説もあるようだ。
富士山を見ることができて、御殿場は平穏無事であるのだが、コロナ騒動は依然として収まる気配が感じられない。東京都では今日の感染者が九百人を超えており、いよいよ千人越えをする勢いである。
我々の住んでいるこの地球というものが、途轍もない脅威の時代に突入したのでは、と思われる今日この頃である。
いつもであれば、スーパーなどに行くと、煩いほどの「クリスマスソング」が流れており、何か気ぜわしい、この時期独特の雰囲気があったのだが、どうも今年はそうでなかった。
勿論これは「コロナ騒動」のせいなのであろうが、煩いほどの「クリスマスソング」がないのは、これはこれでサミシイのかもしれない。
人間と言うのは、どうも我儘な生き物である。
ジョン・コルトレーンは、主に激しい一面の演奏(ソプラノサックスで吹く「マイ・フェイバリット・シングス」などで代表される)が評価されてきた。
以下、ウィキペディアから少し引用してみる。音楽評論家のアイラ・ギトラーは、切れ目なく続くサックスの音を「シーツ・オブ・サウンド」と形容し、1950年代末期にコルトレーンがモード・ジャズの領域に進むと、更に激しさは増していった。しかしコルトレーンは、デビュー当時からバラードも好んで演奏し、その最高傑作が「バラード」ある。コルトレーンの作品としては異色作だが、情感のこもった優しい演奏で(ライナーノーツにはリリシズムあふれるとある)、今もジャズを聴き始めたばかりのリスナーに薦められることが多い。本作に関してしばしば伝えられるエピソードは、「サックスのマウスピースの調子が悪く、速いフレーズを弾けなかったため、苦肉の策としてバラード・アルバムを作った」というものであるが、実際のところは、プロデューサーのボブ・シールが、よりファン層を広げるために着想したようである。
さて、この曲はあまりにも有名な曲であるのだが、このコルトレーンの演奏以外にはほとんど聴いたことがない。もし、コルトレーンが演奏していなかったら、おそらく世の中には知られることのなかった曲だろう、誠に持ってこれは謎だ。
因みに、「セイ・イット」部分の歌詞は次のようになる。
言っておくれ、何度も何度も繰り返して、
何度も何度も繰り返して。
君が僕のものだといつまでも言っておくれ。
もし、興味がわいた方は、ジョン・コルトレーン「セイ・イット」で、是非ユーチューブ検索をしてみてクダサレ。
さて、何日か前の「チコチャンなんたらかんたら」という番組では、フライドポテトがやめられない理由を、次のように説明していた。
まず、「止まらない、やめられない」という食べ物には2つの大きな理由があるという。
ひとつ目は「油で揚げている」こと、そしてもうひとつが「ナトリウム(塩分)とカリウムの無限ループなのだと。
油は、口に入れると、唾液によって「脂肪酸」に分解され、舌がその脂肪酸を感知すると、脳に味を伝える能力が格段にアップ。食べ物の甘みやうまみを強く感じるようになる。つまり、油で揚げるとよりおいしく感じ、幸福感を得ることができるのだそうだ。
そして、人間にとって必要不可欠な栄養素であるカリウムと塩分のナトリウム、これが、フライドポテトが止まらなくなる最大の原因であるという。この2つの栄養素は、適切な割合を保つことで、細胞や血圧を正常に機能させている。
じゃがいもには、カリウムが豊富に含まれていて、これを食べると体の中にカリウムがどんどん増えてしまう。すると、正常なバランスに戻すために、ナトリウム(塩分)を求める。つまり、塩の付いたフライドポテトを食べたくなるという状況が生じるのだ。
結局、フライドポテトを食べると、 カリウムの量が増え、塩分が欲しくなり、塩が付いたフライドポテトを食べてしまうという、無限ループが生まれるのである。
この間、何かのテレビ番組で、最近、天気予報の精度が落ちていることを話題にしていた。
その理由というのが、「航空機からの情報が入ってこないから」であった。
つまり、コロナ禍によって航空機の利用が、極端に減ってしまった。利用が減ると航空機が空を飛ばなくなってしまう。航空機が空を飛ばないと空の情報が入ってこない、というわけだ。
コロナは思わぬところに害を及ぼしているのです。
写真を撮ったのが先々週だったか、まだ多少紅葉が見られたときである。
おそらく最近の寒さによって、これらの葉っぱは、みな色が変わったり落葉していることだろう。
USBメディアの安売り広告が出ていたので購入にでかける。
月曜日の午前中にも拘らず、店には人がいっぱい。何でこんなに人が出ているのだろうか不思議である。もっともワタシもその「人」の一人ではあるのだが。
日本という国は、2011年の東北大地震あたりから大雨に大風さらに大雪、トドメハ疫病(コロナ禍)と、これは平安時代末期(小説「羅生門」で表現されている時代)の末法思想が流行ったような時代になってきてしまったのだろうか。
さて、時をコロナが跋扈している現代に戻すと、残念ながら清明のようなヒーローは出てこないが、その代わりをしているのが竈門炭治郎なのではあるまいか。我々はアニメの中のヒーローに「現代の鬼退治」を期待しているのである。
「狼藉」の意味は、「狼藉者」などで使用されるので何となく理解はしているのだが、ハテ、「狼」と「藉」の意味は一体何だろうか。
こんな時はすぐに「語源辞典」である。
「語源辞典」には次のようにある。狼藉の意味は、乱暴なふるまい。物が乱雑に散らかっている様子。狼藉は、中国の通史「史記 滑稽列伝」による漢語である。「藉」には「敷く」や「踏む」「雑」などの意味があり、「狼藉」は、狼が寝るために敷いた草の乱れた様子から、物が散らかっている様子を意味した。この語が日本に入り、派生的な用法として「乱暴なふるまい」も意味するようになった。
そうか、元は「散らかっている様子」なんだね。
先日、富士吉田まで出かけたおりに購入したパンが「チーズとくるみのクーロンヌ」というパンであった。
「クーロンヌ」とは「クラウン」、どうやらフランス語で「王冠」を意味する言葉らしい。どう見ても「王冠」には見えないのだが、見る人が見れば「王冠」なのでしょうね。
フランスパンの生地にチーズとくるみを入れてU字型に成形したものであって、噛み心地に秀でるというか何というか、この「食感」が良いのである。
ワタシの大好きなパンであるのだが、このタイプのパンにお目にかかることは滅多になく、富士吉田のスーパーに入っている「山梨さえき」?というパン屋さん?でいつも購入している。(「山梨さえき」がパン屋さんかどうかは不明)
こんなこともあるのです。昔だったら更新できないことにイライラして、だれともなく文句を言ったのだが、最近はほとんどイライラしなくなってしまった。これが歳をとるということなのでしょうか。
そもそもこのブログの元はブログ・スポット(「グーグル」が提供するブログサービス「Blogger」のドメイン=インターネット上の住所らしい)なので、このような事態になってしまったのです。
コマーシャルの文句にはこうある。「豆乳入りのしっとりとしたパン生地でパティとオーロラソースをはさんで焼き上げました。」さらに「大豆ミートパティにはお肉の代わりに大豆ミートが使用されています。」とも。
製造会社の「Pasco」というのは、愛知県にある「敷島製パン」であり、この会社は時々「オッ」というような意表を突くパンを作ってくるのだが、今回のパンは「聊か真面目」と言ったら失礼になるが、肉の代わりに大豆を使用した健康志向のパンなのである。
食べた感じは普通のハンバーガーのパテとそれほど変わらないような気もする。大豆を肉の代わりにする手法は日本の精進料理にもあるので、日本人であれば、それほど抵抗なく食べられるのではなかろうか。
ワタシは特に河内とは縁はないのだが、河内弁と言えば1976年に発売され、大ヒットした「河内のオッサンの唄」というフォーク系の歌手「ミス花子」が歌う曲がワタシに強烈な印象を与えている。
これは是非ユーチューブで聴いてほしいのだが、参考までに以下歌詞をあげてみる。
「河内のオッサンの唄」
おー、よう来たのワレ まあ上がって行かんかいワレ ビールでも飲んで行かんかいワレ 久しぶりやんけワレ 何しとったんどワレ 早よ上がらんけオンドレ何さらしとんど 河内のおっさんの唄 河内のおっさんの唄 これから暑いのワレ 仕事がエライのワレ もっと飲まんけオンドレ何さらしとんど 明日は休みやんけワレ 男はもっと飲まなあかんどワレ しっかりしとらんけワレ何さらしとんど 河内のおっさんの唄 河内のおっさんの唄 今日の競馬は取ったんけ 今日は良う荒れたのうワレ ワイは全然さっぱりあかんかったやんけ おまんとこのおかん元気け 連れて来たったらいいのにワレ ごっつう久しぶりやんけ おいカカア、もっとビール持ってこんかい 何されしてけつかんじゃい 裏の家かてもっと良う働くど あんた今冷やしてまんね あんまりうるそう言わんといてか うちかて忙しいんやでワレ 河内のおっさんの唄 河内のおっさんの唄 オイ、ワレ男っちゅうもんわな 酒の一升も飲んじゃってさ 競馬もやっちゃってさ その為にさ思いっ切り働くんじゃいワレ てやんでべら坊めやんけ やんけやんけやんけやんけそやんけワレ ワレワレワレ そやんけ やんけやんけやんけやんけそやんけワレ ワレワレワレ そやんけ 河内のおっさんの唄 河内のおっさんの唄 オイ、ワレもう帰るんけ 気ぃ付けて帰ったらんかい 前のドブ川にはまったらあぶないどワレ また元気で仕事しようやんけワレ 働いて働いて銭ためて 蔵建てたろうやんけ やんけやんけやんけやんけそやんけワレ ワレワレワレ そやんけ やんけやんけやんけやんけそやんけワレ ワレワレワレ そやんけ 河内のおっさんの唄 河内のおっさんの唄 |
ただし、「この色は明らかに紅くはないのでこれは紅葉と言ってはイケナイ」などと、無粋なことを言う人は誰もいないだろう。
このあたり(色彩感覚)のいい加減さが日本人の良いところだと思う。青信号とて「あれは青ではなく緑だ」とも言わないのである。
水素自動車(FCV)のメリットはわかりやすい。走行時のエミッションフリーはいわずもがな、EVの欠点である充電時間も、水素充填という給油の延長で考えられる。だが課題も多い。まず、LCA=ライフサイクルアセスメントでみると現状EVよりも劣る。水素の生成方法にもよるが石炭火力の電力で作る水素は、(いまのところ)発電電力を5~10%程度のロスでエネルギーにできるバッテリーにかなわない。
実はワタシ、水素自動車を運転したことがあるのです。
この件に関しては、2015年8月18日のブログを見てほしいのです。
この間、何かのテレビ番組で「静岡県には油田がある」ことを知った。
静岡県牧之原市にある相良油田(相良油田)は、1872年(明治5年)2月に、海老江の谷間で油くさい水が出ることと聞いた、元徳川藩士の村上
現在、石油採掘は停止しているが、井戸そのものと簡単な試験ができる程度の設備は保存されている。 日本では太平洋岸唯一の産油地だったが、産油量の激減や日本国外からの安い原油の輸入などのため、1955年に採掘停止になった。世界的にも希な軽質油で、精製せずにそのままで自動車が動くほどだった。
ふーん、太平洋岸では唯一の油田だったんだね、しかも精製しないで使えるとは。
一見、試験の監督は何もしないで立っているので、楽なように思えるのであるが、ワタシにとって試験監督ほどツライことはない。
つまり、試験時間の五十分の間、ジーっとだまって、さらにつっ立っていなければならないのだ。これだったらベラベラ喋って授業をやっている方が百倍もいいのである。
まあ、そうは言うものの監督も今日で終了。生徒の試験も今日で終了。
生徒たちは、あの煩わしい「コロナ」さえなければ、明日からは年末の、慌ただしいけれどワクワクするような日々を送れたのでしょうがね。
例年、図書館のあまり広くない教室で講座を開講していたので、コロナ騒動の今回は無理だろうなと思っていたのだが、今年度に限って、御殿場市民会館の広い会議室を使用しての開講となるそうだ。
最初に講師を引き受けてからもう六回目となる。イヤハヤ、よくもまあここまで続けてきたものだ。
因みに、今年は「伊勢物語」を講義予定なのです。
表題は「現代を映す女性キャラ」とあるが、ここでその記事をチョットだけまとめてみる。
「鬼滅の刃」には多くの女性キャラクターが活躍している。すなわち、伝統的に男性キャラが主だった少年漫画であるが、近年の人気作品に共通するのは、主人公と最初から同じ景色を見ている女性キャラがいる。
「鬼滅の刃」では、主人公の妹「禰豆子」だったり、鬼殺隊の「胡蝶しのぶ」とか「甘露路蜜璃」である。彼女たちは「男らしくないと」と気負う主人公たちに理知的に接し、戦闘能力も兼ね備えている、さらにこれらキャラクターには、女性性というものに絡め取られた女性の苦悩も表現されているのだ。すなわち、女性読者はいろいろな姿を自分に重ね合わせて読むことが出来るのである。
ふーん、最近は少年漫画と言えども、兎にも角にも女性を味方にしなければ始まらないのですよね。
しょうがないので、インターネットニュースに載っていた中国の「コロナウィルス封じ込め(11月29日の新規感染者は18名だという)」作戦にふれてみる。
日本では「三密」での回避が打ちだされたが、中国の方針は「四早」だったという。
「四早」とは、早期発見・早期隔離・早期診断・早期治療のこと。日本でもそのようなことは当然分かっていることだと思うが、社会主義国家では議会を通さず法律に近い規制が作れる。震源地の武漢では、封鎖前後だけで三十、一日一本のペースで「新しい規制」が発令されたそうだ。
制度の是非はともあれ、国家規模で「四早」を徹底できたことが大きかったのだと。
こうすればこうなるということが分かっていても、それが実行できないのが今の日本なのだろう。
以前、N東高に勤務していた時に、海浜教室で二回ほど訪れたことがあり、まったく馴染みのないところではなかった。
かつては土肥に辿り着くまで、ずいぶん時間がかかった印象(その昔は陸の孤島と言われていたのです)があるが、現在は伊豆中央道、修さらに修善寺道路から天城道路と、有料道路は使うものの、三島から一時間ほどで着いてしまう。
これこそ文明の力ですな。
途中には温泉が数多くあり、温泉大好きのワタシとすれば、「次は絶対入浴だぞ」の気分で通過したのである。
いよいよ冬の到来か?
十月の写真展の際に、差し入れしていただいたアップルパイで、大変美味しいものがあった。これはいつかまた食べたいと思っていたのだが、今日時間ができたので、三島の光が丘というところまで出かけてみた。
お店は二坪か三坪くらいの極めて可愛らしいものであったが、店内には焼き菓子やケーキ類が所せましと並べられている。さっそく「アップルパイを下さい。」と言ってみたのだが、「ウチではアップルパイは作っていません。」の返事、どうもワタシが勘違いしていたようで、かつて食べたものは「パイ」ではなく「タルト」のようであった。ワタシはさらに「ではアップルタルトを下さい。」と勢い込んで言ったのだが、「今日は作っていません。」との冷たい返事。
「ガーン」であるが、仕方がないので冷蔵ケースの中にあった「チョコバナナタルト」というやつを買って引き揚げてきたワタシなのである。
花札の中には「雨」という札(上の札の右から二番目)があり、これには11月の札であり、絵には小野道風と蛙が描かれている。
小野道風と言えば平安時代の能書家であり、幼いころ柳の枝に蛙が何度も何度も飛びついているのを見て、自分も「蛙同様に努力しなければ」と思い、これ以来努力を重ねて有名な書家になったという逸話を持つ人物である。
さて、ここで疑問であるが、博打に使われていた札に何故「道徳の見本」のような、小野道風が登場してきたのだろうか。
いろいろ調べてみると、この11月の札、明治時代までは小野道風ではなく斧定九郎(おのさだくろう)という歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に登場する悪役浪人であり、架空の人物だったそうだ。しかしそれが(明治政府の意図なのかどうか)、悪人が努力の人となったようである。
博打であれば、悪人「斧定九郎」の方が適しているような気がするのですがね。
この本は、日本人でも「実は分かっていなかった語」を抜き出して、面白おかしく説明する、こんな按排の本であった。
例えば「シカとする」とは、任侠用語であり、花札の鹿と紅葉が描かれている札(上の真ん中の札)のことなのだそうだ。この札の中の鹿はソッポをむいており、さらにこの札は十点だという。つまり「シカと」とは「鹿十」であり、ソッポを向いて無視することが、「シカとする」となる。
他にも「ピカ一」は、花札の中では「光もの(たぶん、山に月とか松に鶴が描かれているもの)」が、際立って点が高い(二十点)ことから「群を抜いていること」を「ピカ一」と言うようになったのだとか。
フーン、なるほどね。