「あばら屋の唐黍ばかりがうつくしい」
「あばら屋」の「唐黍(もろこし)」である。
確かに「唐黍」が陽射しの中にぶる下げられている姿は目立つ姿であるし、その黄色は、非常にインパクトのある色である。
ぶる下げられた「唐黍」は、このあと「種」になるか、家畜の「餌」になるかしかないようであるのだが。
御殿場M高時代の同僚であったK先生から連絡があり、記念館まで出かける。
久しぶりの会話、気分は二十年前にタイムスリップしていた。
2014年9月30日火曜日
2014年9月29日月曜日
「さくらさくらさくさくらちるさくら」
「さくらさくらさくさくらちるさくら」
咲く桜と散る桜である。
桜という花は、咲く時に風情があるし、散る時にもまた風情があるといことか。
いやいや、山頭火のことだ。
そんなことではないだろう。
咲く桜があり、その後には必ず散る桜がある。
風情というより、むしろ「無常」ではなかろうか。
桜は咲いて、そして散っていく。
繰り返し、繰り返し、桜は咲き、散っていくのだ。
咲く桜と散る桜である。
桜という花は、咲く時に風情があるし、散る時にもまた風情があるといことか。
いやいや、山頭火のことだ。
そんなことではないだろう。
咲く桜があり、その後には必ず散る桜がある。
風情というより、むしろ「無常」ではなかろうか。
桜は咲いて、そして散っていく。
繰り返し、繰り返し、桜は咲き、散っていくのだ。
2014年9月28日日曜日
「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」
「日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ」
対象は「お地蔵さま」である。
「地蔵」については、「は」の字日記、8月6日の日記に写真を載せ、詳しく書いたのであるが、この写真の石仏に関していうと、これは明らかに「地蔵」ではないような気がする。
では、どうしてこの写真を?
と、問われるかもしれないが、その理由は、この写真のほうが句にフィットしたからである。
小山町に近いお寺の脇に、ひっそり座っていた。
顔が実に不思議な石仏で、何か微笑んでいるような気がしたのである。
ただ単に石仏では面白くなかったので、パソコンを使って変化させてみた。
対象は「お地蔵さま」である。
「地蔵」については、「は」の字日記、8月6日の日記に写真を載せ、詳しく書いたのであるが、この写真の石仏に関していうと、これは明らかに「地蔵」ではないような気がする。
では、どうしてこの写真を?
と、問われるかもしれないが、その理由は、この写真のほうが句にフィットしたからである。
小山町に近いお寺の脇に、ひっそり座っていた。
顔が実に不思議な石仏で、何か微笑んでいるような気がしたのである。
ただ単に石仏では面白くなかったので、パソコンを使って変化させてみた。
2014年9月27日土曜日
「ほっとさいたかひょろひょろコスモス」
「ほっとさいたかひょろひょろコスモス」
山頭火の句にしては、おしゃれな句である。
おそらく、「コスモス」のカタカナがそう感じさせているのであろう。
実はこの写真、以前の写真展に使用した写真である。
今回の「ずんぶり浸る展」のために、別の写真を用意したのであるが、ためしにこの写真を横に置いたところ、圧倒的にこちらの方が良かった。
そんなこんなで、再びの「コスモス」である。
今日もいろいろな方が見えた。
実家の近所のお姉さんだったY子さん、スキー・テニス仲間のO先生、F高時代の同僚Iさん、N西OG初代写真展受付け嬢のSさん、皆さんに感謝、感謝。
山頭火の句にしては、おしゃれな句である。
おそらく、「コスモス」のカタカナがそう感じさせているのであろう。
実はこの写真、以前の写真展に使用した写真である。
今回の「ずんぶり浸る展」のために、別の写真を用意したのであるが、ためしにこの写真を横に置いたところ、圧倒的にこちらの方が良かった。
そんなこんなで、再びの「コスモス」である。
今日もいろいろな方が見えた。
実家の近所のお姉さんだったY子さん、スキー・テニス仲間のO先生、F高時代の同僚Iさん、N西OG初代写真展受付け嬢のSさん、皆さんに感謝、感謝。
2014年9月26日金曜日
「いちりん挿しの椿いちりん」
「いちりん挿しの椿いちりん」
「いちりん挿し」は壁などにぶる下げて、あるいは机の上などに置いて、一輪、二輪の花を活ける花瓶である。
従って、句全体のイメージは、花瓶に活けられている一輪の椿の花なのであろう。
「花瓶に活けられた椿」、うーん、季節はもう夏に近いころであった。
当然、椿の花など見られない。
また、過去にも「花瓶に活けられた椿」など、写真には撮っていない。
句のイメージがあっても、それを写真に撮ることができないのだ。
考えに考えた末にできたのが、右の写真である。
椿の花をできるだけクローズアップして、さらに花の輪郭をパソコンの操作で、はっきりさせてみた。
するとどうだろう、これが意外とはまったのである。
書のほうは、短冊型にアクリル板を切り抜いて、朱で字をのせたのだという。
二つ並べてみると、おおー、なかなか良いではないか。
「いちりん挿し」は壁などにぶる下げて、あるいは机の上などに置いて、一輪、二輪の花を活ける花瓶である。
従って、句全体のイメージは、花瓶に活けられている一輪の椿の花なのであろう。
「花瓶に活けられた椿」、うーん、季節はもう夏に近いころであった。
当然、椿の花など見られない。
また、過去にも「花瓶に活けられた椿」など、写真には撮っていない。
句のイメージがあっても、それを写真に撮ることができないのだ。
考えに考えた末にできたのが、右の写真である。
椿の花をできるだけクローズアップして、さらに花の輪郭をパソコンの操作で、はっきりさせてみた。
するとどうだろう、これが意外とはまったのである。
書のほうは、短冊型にアクリル板を切り抜いて、朱で字をのせたのだという。
二つ並べてみると、おおー、なかなか良いではないか。
2014年9月25日木曜日
「指のしなやかさ春の日ざしの」
「指のしなやかさ春の日ざしの」
この句には、ぴったりの写真があった。
今年のゴールデンウイークに、沼津御用邸で行われた筝曲部の野外演奏、ここで撮った写真である。
筝を弾く女性徒の指、なんとしなやかなのだろう。
山頭火自身、写真のように筝を弾く指などまったくイメージしていないのだろうが、句と写真を並べてみると、これは「ドンピシャ」であった。
図々しい言い方をすれば、山頭火の句は、この写真のために作られた句のようであるのだ。
ちょっと言い過ぎか?
この句には、ぴったりの写真があった。
今年のゴールデンウイークに、沼津御用邸で行われた筝曲部の野外演奏、ここで撮った写真である。
筝を弾く女性徒の指、なんとしなやかなのだろう。
山頭火自身、写真のように筝を弾く指などまったくイメージしていないのだろうが、句と写真を並べてみると、これは「ドンピシャ」であった。
図々しい言い方をすれば、山頭火の句は、この写真のために作られた句のようであるのだ。
ちょっと言い過ぎか?
2014年9月24日水曜日
「投げ出した脚をいたわる」
「投げ出した脚をいたわる」
山頭火の句だ。
これは、勿論「山頭火自身が旅を続けることによって、痛めた脚を労っている図」である。
しかしながら、我々は、それぞれが、それぞれなりのアプローチを試みた。
書の方は「投げ出した」にポイントを絞って、その「投げ出した」感をより強く表現するために、あえて利き腕ではない左手で書を書いたという。
最初は右手で何枚も書いてみたが、納得のいくものが現れず、思い切って左手にしたところ、書き出して二枚目に満足のいくものが生まれたのだそうだ。
書の素人からすれば、フーンといったところだが、まあそれが書なんだろう。
さて、私の写真の方は「投げ出した脚」の「脚」に拘(こだわ)ってみた。「脚」は「足」ではなく、「脚」なのでる。
したがって、靴を履く「足」の部分はいらないのだ。
それが膝を中心とした部分に焦点をもってきた理由である。
こんなことを「フムフム」と言って、納得していただけると、恩幸、これに過ぎたることありません。
山頭火の句だ。
これは、勿論「山頭火自身が旅を続けることによって、痛めた脚を労っている図」である。
しかしながら、我々は、それぞれが、それぞれなりのアプローチを試みた。
書の方は「投げ出した」にポイントを絞って、その「投げ出した」感をより強く表現するために、あえて利き腕ではない左手で書を書いたという。
最初は右手で何枚も書いてみたが、納得のいくものが現れず、思い切って左手にしたところ、書き出して二枚目に満足のいくものが生まれたのだそうだ。
書の素人からすれば、フーンといったところだが、まあそれが書なんだろう。
さて、私の写真の方は「投げ出した脚」の「脚」に拘(こだわ)ってみた。「脚」は「足」ではなく、「脚」なのでる。
したがって、靴を履く「足」の部分はいらないのだ。
それが膝を中心とした部分に焦点をもってきた理由である。
こんなことを「フムフム」と言って、納得していただけると、恩幸、これに過ぎたることありません。
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