2020年5月31日日曜日

「む」と「ん」



明日からいよいよ授業の開始である。
授業を実施するにあたり、いくら何でも事前に教科書ぐらい見ておこうと思い、久しぶりに教科書を開いてみた。

明日の授業、一年生古典の教科書には最初に宇治拾遺物語「児のそら寝」の教材が出てくる。
その中に、「いざ、かいもちひせむ。(さあ、ぼたもちを作ろう)」という部分あるのだが、生徒にこれを音読させる場合、「せむ」を「せん」と読ませなければならない。
古文を読む原則として、助動詞「む」や助詞の「なむ」などの「む」で終わるものは、「ン」と読むからだ。
と、ここまでは良いのだが、ではなぜ「む」を「ン」と読むのかの説明となると、これがなかなか厄介なのである。

「む」が「ン」と読まれる現象は、由来が音便でありながら元の発音は廃れてしまい、元の表記のままで発音が変わるという、転呼(仮名がその置かれた位置、条件によって本来の発音とは異なって発音されること)と同じ性質を示すものである。
これは、「ム」と「m:」と「ン(/N/)」が日本人にとつて非常に紛らわしい発音であつたために、音便化させている意識のないままに発音が変化した現象だと思われる。

要するに、かつては「む」を「ム」と発音していたのだが、日本人にとって「む」と「ん」は紛らわしい発音であったため、「む」は「ん」と音便化したのだが、文字の「む」の方は、そのまま残ってしまったということだろうか。

さて、「む」と「ん」の表記については、こんなこともある。

「新宿」も「新橋」も同じ「新(しん)」なのに、なぜ「ん」の表記が「n」 と「m」 に分かれるのか?「Shimbashi」と「Shinjuku」のことである。
写真でも分かるように、JR山手線の駅「新橋」は「Shi」のあとは「n」ではなく「m」が入っているのだ。
それについてはこのような説明がなされる。
「ん」の後ろに「ば行、ぱ行、ま行」の音が続くときに「ん」は「m」になる。
「ば行」も「ぱ行」も「ま行」も発音するときは上と下の唇がくっつく。したがって、その前に「ん」があると、私たちは無意識のうちにその「ん」も口を閉じて発音している。「ん」は上下の唇がくっつかない。口を開けたまま発音する。そこで、これらの「ん」は 「n」 の表記となる。

これは発音する時の唇の問題であり、ローマ字の「ヘボン式」というやつに由来しているらしい。

日本人にはなかなか難しいところである。

2020年5月30日土曜日

今日も所用があって沼津に行ったのであるが、やはり沼津は夏であった。

この時期あたりから御殿場と沼津の気温の差が顕著になるのである。
午後四時現在、御殿場での室温は窓を閉め切っていても、22℃程度なのです。
快適、快適。

写真は今週の月曜日に、愛鷹の保養施設で撮った「蔦」。
蔦は下から上。あるいは横に延びていくのであるが、延びる方向の基準はイッタイ何なのだろう?

2020年5月29日金曜日

鶏ひつまぶし


妙なパンシリーズから「鶏ひつまぶし」である。
フジパン株式会社という名古屋にあるパン屋からの製品だ。
名古屋名物「ひつまぶし」からのネーミングだろうが、この製品、はっきり言って失敗である。

食べたとたん、「どこがひつまぶしじゃあ。」となるのは、おそらく ワタシひとりではあるまい。
また、「ひつまぶし」の前に「鶏」がくっ付いているのだが、その「鶏」感もまったくといっていいほどない。
ショッパイだけの佃煮のような物体が入っているだけなのである。(写真右)
裏書してあるデータを見てみると、「小麦粉」の次に「山椒入り蒲焼きチキン風味フィリング」などと、分けのわからんことが書いてあるが、おそらく、この「ナンチャラカンチャラフィリング」というのがこれであり、「ひつまぶし」と名付けた根拠なのだろう。
しかしながら、「鶏」感がないのは致命的である。

このセンスのないパッケージを見た時に、(これも意味不明だが、ジャニーズ系ぽい若者たちが写っている)もう少し注意すべきであった。

まあ、このようにさんざん悪口が書けたので、これはこれで良かったのかもしれないがね。

2020年5月28日木曜日

今の図書館

ちょこっとだけT高に行って、帰りがけに御殿場の図書館に寄る。

図書館閉鎖のため、二ヶ月以上借りていた本を返却するために寄ったのであるが、現時点では図書館に入館するのもナカナカ大変である。

まず、入り口には「現在、入館の人数制限をしています。」の張りがある。
さらに、長机があって、そこには係員と消毒薬。
そして係員に氏名・住所を記入するように促され、入館カードを持っての入館となる。
おまけに「入館は三十分以内にして下さい。」の言葉。
係員は優しく応対してくれたのだが、チョイト気分は暗くなってしまった。

2020年5月27日水曜日

給付金

水曜テニスを行なっている三島のテニスコートが、コロナ騒動のため使用禁止となってしまったため、沼津の愛鷹コートにてテニス。
同じ静岡県なのに、その自治体によって禁止の有無があるというのは、何か妙である。

自治体によって異なると言えば、「特別定額給付金」の申請書が、自治体によってスタイルが違っているのも何か妙だ。
これは全国一律でも何の問題もないだろうに。
何でこのように非効率的なことをするのだろう。
不思議だ。

2020年5月26日火曜日

ジミー・コブ




ジャズドラマーのジミー・コブが亡くなったというニュースがインターネットで流れていた。
年齢は九十歳を過ぎていたので、プレイヤーとしては、殆んど目にしたり耳にすることはなかったのであるが、ワタシにとって彼は印象深いドラマーであった。

右のアルバムはウエス・ウエスモンゴメリー(ワタシがジャズを聴くきっかけをつくってくれたギタリストなのです)の代表作「フルハウス」である。
このアルバムで、ウイントン・ケリー、ポール・チェンバースとともに実に心地よいバックアップをしていたのが彼である。
また、世紀の名盤(ジャズ史上もっとも売れたアルバム)マイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」でも彼はドラムを叩いている。

この間のマッコイ・タイナーに続いて、今度はジミー・コブ。
ジャズの歴史を創ってきた人たちが、だんだんいなくなってしまうなあ。


2020年5月25日月曜日

ガテンがいく







「ガテンがいく」という言葉がある。
NHKの番組にある「ためしてガッテン」の「ガテン」だ。
また、時代劇などのセリフで登場する「合点だ(承知した・任せておけ)」「合点承知(心得た・任せておけ)」である。

この「ガテン=合点」には次のような意味があるという。



  • 和歌などを批評してよいものに点を付けること。 (和歌・連歌・俳諧などを批評して、そのよいと思うものの肩につける「〽」「○」「・」などの印。また、その印をつけること。)
  • 回状などに承知の意を表すために自分の名の肩に点を付けること
  • 承知・承諾

うーん、もともとは和歌の世界から出てきた言葉のようだ。




2020年5月24日日曜日

のり巻きパン

近所のスーパー(最近このフレーズが多いのです)で、ワタシの触手に微妙に反応するパンがあった。

その名を「のり巻きパン」という。
パッケージには「NORI ROLL」と書いてある。
パンに、海苔、ハム、チーズ風味の何かをくっつけてあるパンだ。

「NORI ROLL」、おおー、なんという響き。
そこそこネーミングはオシャレではないか。
ただし、ネーミングに比べ、そのルックスは決してオシャレとは言い難
い。(写真下)
色は茶色と黒であるし、形状もカレーパンとかアンパンには遠く及ばない。

しかしながら(ここは、しかしながら という逆接となるのです)、パンに海苔を巻くというこの斬新な手法、結構インパクトを持っているのである。
そして味も良い。
もう一度購入するかと言われたら、おそらく「買ってもいいね。」と言うだろう。

まあ、よく考えてみると、餅に、海苔、ハム、チーズは有りだもんね。






2020年5月23日土曜日

使用許可の申請

十月の展覧会会場の使用許可申請のために、芹沢光治良記念館まで出掛ける。

記念館は現在開館しておらず、事務所だけが開いている状態である。
従って、申請と言っても、果たして十月に開催できるかどうかは、まだ不透明である。

半年ぶりの記念館であったが、記念館の方たちの顔をみると何かホッとした気持ちになる。
さてさて、今年の展覧会はどうなることやら。

(写真は、秩父宮記念公園にあるブロンズ像の彫刻。)

2020年5月22日金曜日

三昧(さんまい)

火野正平の「心たび」という番組に、福井県若狭町の「三昧(さんまい)」を訪れる場面があった。
ここに登場する「三昧」とは、遺体の埋葬地のことで、番組では田んぼの真ん中に、島のようなところがあり、そこに大きな木が繁っているところを紹介していた。

さて、聞きなれない「三昧」であるが、よく考えてみると「贅沢三昧」とか「仕事三昧」などのように、身近な言葉として使用される。
どうもこの言葉、仏教関係の言葉らしい。
そこでウィキペディア。

もとは仏教語で、修行において重要視される特殊な集中心のこと。サンスクリット語のsamādhiの音訳で、三摩地(さんまじ)、三摩提(さんまだい)とも音訳される。修行の際に、ある一つの対象に対して、まっすぐ平等に働き、他の対象に気が移ったり乱れたりしないこころの状態をいう。この意味から、勉強三昧、洗濯三昧などというように日常用語として用いられるようになった。

どうも原意は「心を一か所にまとめて置くこと」らしい。
なるほど、これでガテンがいった。

2020年5月21日木曜日

甲子園の中止

昨日、甲子園大会の中止という高校球児にとって衝撃のニュースがあった。
これは米騒動(おおー、すごい事件が出てきたぞ)以来の事態であるそうだ。
高校生のやっているスポーツの中で、野球だけが特別視されるのは如何なものかという問題はあるのであろうが、(良い悪いは別として)社会的な話題として取り上げられることは事実である。

さて、この件に関してかつての高校球児(現在はプロ野球の選手)からのコメントがあったのだが、いくつかは非常に印象的なものであった。

「自分がその立場に身を置いたことを考えると選手の皆さんに掛ける言葉は正直、見当たりません。」

「悔しい、やりきれない、という気持ちをハッキリ口に出すことが大事だ。」

「今まで自分たちがやってきたことを発表する場を与えて欲しい。」

2020年5月20日水曜日

水曜テニスの復活

朝晩はまだ結構冷える御殿場である。
現在もファンヒーターをつけて暖をとっている次第。

今日は久しぶりの水曜テニス。
近隣のテニスコートは、まだ使用禁止の状態らしいが、三島はどうにかやることができた。

やはり、身体を動かすことができるというのは有難い。
本来なら筋肉痛のはずだが、身体が運動に飢えていたのか、心地よい疲労があるだけである。

2020年5月19日火曜日

何回目かの二の岡神社

御殿場では有名な場所でありながら、意外と人が訪れないのが、二の岡神社である。

ただし、今回のコロナ騒動による自宅待機期間においては、チョットだけ参拝者が増えたようだ。

はっきりした創建はよく分からないようであるが、写真下の説明によると、神社には応永二十九年(1422)、大森道光が寄
進した石灯篭があり、少なくともその時代には現存していたと考えられる。

さて、人気はないが、映画やドラマのロケでは頻繁に利用されたようである。
ネット検索をしてみると、

黒澤明監督の『七人の侍』、北野武監督の『座頭市』、中居正広主演『私は貝になりたい』、テレビドラマ『JIN-仁-』などで使用。
最近では、auのテレビCM『秋のトビラ・三太郎の出会い』でも使われているということだ。

おおー、おおー、黒沢作品『七人の侍』でも使われていたんだね。

2020年5月18日月曜日

清水の舞台

チョイト前の「ぶらタモリ」という番組で、京都の清水寺を取り上げていた。

清水寺と言えば、京都の観光地の中でも一二を争う名所である。
番組では境内の一般的にはよく知られていない場所も紹介、「おおー、なるほど。」感が強いものであったが、ワタシが特に「おおー」と思ったのは、清水寺の舞台の件であった。

思い切って物事を決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺塔頭・成就院に残る『成就院日記』の記録によれば、実際に飛び降りた人が元禄7年(1694年)から元治元年(1864年)の間に未遂を含み235件に上り、生存率は85.4パーセントであった。
ウーン、結構飛び降りた人間がいたんだね。
また、生存率も85.4パーセントも驚いた。

明治5年(1872年)に京都府は「舞台飛び落ち」は封建的な悪習であるとして禁止する布令を出し、舞台欄干周囲に柵を張るなどの対策を施したことで、「飛び落ち」は影をひそめたそうである。

2020年5月17日日曜日

網戸の修理

網戸の網が破れていたので、自分で修理をしてみた。

自慢ではないが、昔から「お前は不器用だ。」と言われていた。
その不器用きわまりないワタシが、網戸の網を張り替えてみたのである。

実は網戸の修理は簡単。
道具さえあれば誰にもできるものであった。
しか材料費も安い。
一枚の網戸であれば、網が三百八十二円、網を固定するゴムが百九十五円である。
今回は初めてだったので、ゴムを押し込むローラーと網を切るカッターも購入したので、プラス六百円程度であろうか。
何れにしろ、こんなに安くすむとは思わなかった。

何でも業者に頼むと、一枚二千円から三千円らしいから、これは自分で修理すべきである。

2020年5月16日土曜日

寒さの戻り

寒さの逆戻りというか、急に温度が下がってきて今日はファンヒーターをつけてしまった。

部屋の温度は二十度以上あるので、一週間前であれば「おおー、今日はあったかいわい。」と、ヒーターなどつけなかったのであろうが、人間の感覚というのはオカシナもので、雨など降り、天気もどんよりしていると、何か寒さを感じてしまい、チョットでも暖かくしようとするのである。

2020年5月15日金曜日

学校の再開

授業の再開はどうやら来週の月曜日になりそうだ。
(今日の静岡県知事の会見で、県立高校の再開が五月二十五日だと明言していたので)

やれやれと言ったところか。

自分の人生において、ここまで家に籠ったことはなく(籠ったといっても二十四時間すべて籠っているわけではないが)、籠り明け?がきわめて心配である。
ワタシも、再開に備えてそろそろ心の準備をしておかねば。

2020年5月14日木曜日

今日はビートルズのこと

ビートルズの音楽と物語は発見と謎の連続であり、それは未知の驚きとスリルにみちている。

ビートルズの記念すべきデビュー曲であるのが「ラブ・ミー・ドゥ」である。
この曲がレコーディングされたのは、1962年というから今から半世紀以上も前のことだ。
この曲についてジャズ評論家の中山康樹(彼はジャズ評論家であるが、ビートルズに関しての研究もスゴイのです)は言う。

「この曲は記念すべきデビュー曲である。だが、それがどうした。凡曲である。凡演である。聴くべきところはほとんどない。もちろん本書はビートルズ礼賛本の一種ではあるが、だからといって神聖化に加担する気はない。ダメなものはダメと声を大にしたい。ビートルズだから、ましてやデビュー曲だからといってありがたがることも自分自身に嘘をつくこともない。この曲をダメと断じる耳があってはじめて他の曲がいかに偉大であるかが理解できるのだ。」

ウーン、ここまで言われると、さすがのビートルズもきっと落ち込むだろう。
もっとも彼ら(今はポール・マッカートニーとリンゴ・スターしか生存しておりませんが)は、そのようなことはとっくに超越しているだろうが。

さて、ワタシも確かに「ラブミー・ドゥ」については、飽きてしまう曲だと思っていたのだが、後日あるテレビ番組で、ジャズピアニストの中山千尋がこんなことを言っていたのである。

彼女は、桐朋学園(音大)からアメリカのバークリー学院に進み、バークリー学院を主席で卒業の才媛である。
今はジャズだが、当然クラシックをがっちり勉強してきている。
その彼女がいうには、ビートルズの曲というのはクラシック音楽では曲を作る時に「こうしたらダメだ」ということを、すべてやっている曲があると。
しかし、そこに面白さがあり、凄さがあるとも。
その説明の例として、デビュー曲の「ラブ・ミー・ドゥー」をあげていたのである。

この言葉によってワタシの頭はハッと覚醒した。
確かに「ラブ・ミー・ドゥー」は退屈してしまいそうな曲なのだ。
そして、中山康樹のいう「凡曲・凡演」の理由もこれではっきりした。
この曲は作曲におけるダメなことをすべてやっているのだから。
しかしながら、この曲は、耳に残る曲でもあるのだ。
耳につくとでも言ったほうが良いのかもしれない。なにはともあれ耳から離れないのである。
ビートルズはやっぱり凄い。

ワタシも教師の端くれとしてこう思った。
「世の中でダメといわれていることにもう一度じっくり目を向け、さらに耳を傾けねば。」

2020年5月13日水曜日

オオバ紅ガシワ

所用があって沼津まで出掛けたのであるが、沼津はもう完全に夏であった。

この時期から真夏にかけては御殿場という高地の恩恵を十分にこうむることになるのです。
何と言っても御殿場は静岡県の軽井沢なのですから。

写真は先週撮った「大葉紅柏(オオバ紅ガシワ)」。
この植物については、2014年5月22日のブログにこのように書いてあった。


先日の散歩の際に見かけた葉である。
秋でもないのに葉が赤い。
一体これは何者?
ただし、カメラの被写体としてはとても面白い。
特に、太陽に透けた時の葉は魅力的である。

家に帰って、葉の画像だけを頼りに調べてみた。
感じとしては「紫蘇の葉」に似ているので、おそらくコレ系であろうと察しをつけたのだが、大当たり。

正体は「大葉紅柏(オオバ紅ガシワ」。
灯台草科オオバ紅ガシワ属だという。

観賞用だと思うがナンカ食えそうな気もするね。



2020年5月12日火曜日

被害妄想

世の中は、コロナウィルス騒動が、収束するか否か の時期に差し掛かってきているような気がするのだが、まあ気がするというだけで、実際のところは分からない。
相手が目に見えないものだけに、ワレワレもどう戦えばよいのかが釈然とせず、実に厄介な思いをしているのだろう。

さて世の中がこのような状態であると、必然的にワレワレも必要以上に神経質に、あるいは必要以上に妄想的になってしまうようだ。

部屋の中をふと見ると、「コロナサロンヒーター」の文字、またテーブルの上を見ると、「パンデミック」の文字、いやいや、これは「パンデミック」ではなくて、「パン・ド・ミ」であった。
英語の文字だけ見ると、なんか「パンデミック」と見えてしまったのです。
こういうのを「被害妄想」というのでしょうね。



2020年5月11日月曜日

蛇石

名勝「蛇石」。

一名弁天石といふ。
ここに弁財天を祀る。
人この大石に上るときは川瀬
(沼田の西を流るる川里。若しくは「よし川」と呼ぶ)に大蛇あらはれしといふ。

ウォーキング中に見つけた「蛇石」である。
立て札には上のように書かれていたのであるが、要は写真の石は「蛇石」とか「「弁天石」とか言うらしい。
そして、かつて村人がこの石の上に上ったところ、大蛇が現れたということか。

話の前後が書かれていないので、全体の把握ができないのであるが、まあ、伝説というのはこんなものであろう。

2020年5月10日日曜日

浄化センター

一昨日の「四季の小径」の続きである。

今日は朝から雨降りであったが、昨日、一昨日と好天が続いていたので、小径をウォーキングするにはピッタリであった。

さて、ワタシは黄瀬川の左岸を裾野方面に下っていったのだが、その行き止まりでは写真のような風景見られる。

対岸には随分立派な建物があった。
あとで調べてみると、そこは「御殿場市浄化センター」。
つまり、御殿場市の下水道の処理をする施設とのこと。
橋がなかったので、この時は行くことができなかったのだが、次回には是非行ってみたいと思っているのです。

2020年5月9日土曜日

パーチクリン

教員生活を始めて四十五年間、三か月も授業のなかったことなど一度も経験がない。
三か月というのはやはり長いなあ。

さてこのインターバルのせいかどうか、最近、頭がパーチクリンになってしまっていて、先週は日にちをほぼ一週間勘違いしていたし、今週は(というか今日であるが)カメラをもって外に出て、パチリパチリと少なくとも二十枚以上撮ったつもりだったのが、家で確認してみると、カメラの中にSDカードが入っておらず、「イッタイワタシは何をシテキタンダ」となってしまった。

お願いだからワタシに仕事をさせてください。

2020年5月8日金曜日

異空間

普段していないウォーキングをすると、意外な発見がある。

昨日のウォーキングは、御殿場・岩波間の農道から旧246号線につながる道を歩いたのであるが、途中写真のような標識版を見つけ、標識通り黄瀬川を川に沿って下ってみた。

ここは所謂河岸段丘とでもいうのか、現在ワタシが暮らしている地域とはまったく異なった風景を見せてくれる。
蛇行する川があって、田んぼがあって、さらに見慣れない林が続いていた。

それは、チョイト異空間に入ってしまったような不思議な感覚であった。

2020年5月7日木曜日

気になっていた場所

朝の良い天気に誘われて、前から気になっていた場所に、ウォーキングを兼ね、カメラを持って出かけてみた。

写真はその場所であるが、手前に田植えをしたばかりの田んぼがあり、田んぼの向こうにはかなり目立つ色をした民家。
さらにその向こうには富士山、という所謂絵に描きたくなるよう風景の場所である。

ワタシがその場所に到着した時には、富士山は半分雲で隠れてしまっていたのだが、これはこれで趣きがあるように感じられた。

2020年5月6日水曜日

神の思し召し

今の日本、戦争を体験していない人間がほとんどを占めるようになってきたわけだが、その人間が体験する最大の厄災が今の新コロナウィルスによる騒動だろう。

少なくとも、二月初めには「まさかここまで」とは思っていなかった。
それがあれよあれよという間に、日本国民(日本国民と言うより全世界の人々と言ったほうが良いのかもしれぬ)のほとんどすべてが影響を受けてしまう厄災となってしまったのだ。
イッタイこれは何なんだ。
ワタシには信仰というものはないが、「神の思し召し」なのか。


2020年5月5日火曜日

こいのぼり

五月五日である。
子供の日には「こいのぼり」であるが、「こいのぼり」について、何年か前に「沼津朝日」という地方紙に投稿した原稿があったので、今日は怠慢をこいて、それを再びここに載せてみる。



「江戸っ子は皐月(さつき)の鯉の吹流し口先ばかりで腑(はらわた)は無し」

(江戸っ子は言葉が荒いが、腹の中には何もなく、さっぱりとしている。)という川柳がある。この川柳でもわかるように、江戸時代に生まれた「鯉のぼり」、当時は「鯉の吹流し」であった。それが今では「鯉のぼり」、これは一体どうしてなのだろう。
「鯉のぼり」の「のぼり」は「幟」である。
沼津にも「幟道(のぼりみち)」の地名があるが、その「幟」だ。
「幟」というのは、「吹流し」ではない。「幟」は日本における旗の形式のひとつで、長辺の一方と上辺を竿に括りつけたものを指す。本来は神を迎える招代(おぎしろ)として立てられたが、後に標識として用いられるようになったという。「幟」の代表的なものは、大相撲の本場所などに建物の外に力士の名前を書いて立てられるアレである。


一方「吹流し」とは、布などでできた筒を高所からぶら下げ、風向きや風速を目視で確認するための設備、とある。一般的には道路や空港などに設置されているものだ。
したがって、その形状からいうと、五月の日本の空にあがる鯉は、「鯉の幟」ではなく、「鯉の吹流し」と言うべきなのだ。まあ、「べきだなのだ」とここで主張しても何の意味もないが。)現在では「鯉の吹流し」などとは、まず言わない。
さて、長年の「悩み」を解決すべく、今回この理由をじっくり調べてみた。そしてたどり着いた答えが、「鯉の滝登り」との混用であった。つまり、「幟」と「登り」の混用だ。


中国の「後漢書」によると、黄河の急流にある「龍門」と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが、鯉のみが登り切り、龍になることができた。これにちなんで「鯉の滝登り」が立身出世の象徴になったのだと。
要するに、本来「鯉の吹流し」というべきところを、「鯉の滝登り」という縁起の良い故事をふまえ、さらに「幟」の意味も加味した「鯉のぼり」にしたのだろう。
これが、民俗学の「み」の字も知らない私の、乱暴な推測である。


(写真は四月に御殿場の平和公園で撮った「こいのぼり」)

2020年5月4日月曜日

獅子と狛犬

須走の浅間神社にある「岩の上の親獅子」である。
写真には写っていないが、「親獅子」があるからには、「岩の下の子獅子」も当然存在している。
「獅子は自分の子をがけ下に突き落とす」の話を、ここでは現出しているのだ。
(何故ここにこんなものがあるのか、よくわかりませんが。)

獅子といのは中国の想像上の動物らしい。
また、「親獅子の子落とし」は、「石橋」という能の物語をもとにした歌舞伎が元だという。

ところで、「獅子」と「狛犬」はどう違うのか?
いろいろ調べてみると、「狛犬(こまいぬ)」は日本の獣であり、その語源はいろいろあるようだ。
朝鮮の高麗(こま)から伝わったので「高麗犬」とか、魔除けのために置かれたことで拒魔(こま)犬とか。
一方、「獅子」は前に書いたように、中国から伝わった想像上の動物であり、現在は両方合わせて『狛犬』と認識されているということである。

2020年5月3日日曜日

カップル道祖神

写真は、御殿場の高値地区にあった道祖神。
男女の二対像と思われる。
だいぶ年期が入っていて、しかとは分からぬが、どうも手を繋いでいるように見える微笑ましい道祖神である。

手を繋いだ道祖神というのは、それほど珍しいわけではなく、ワタシもかつて、長野県の安曇野で過去に見ことがあるような気がする。

後ろの網は、隣がゴミ捨て場所であり、鳥よけの網である。

2020年5月2日土曜日

ゴールデンウィーク

所用があって沼津まで出掛けたのであるが、沼津では道を歩いている人が半袖であった。
御殿場では夜になると暖房が欲しい温度なんですがね。

相変わらず休みがが続く。
例年であれば文字通りの「ゴールデンウィーク」、風も心地よく、休みを堪能している頃なのに。

さて、ワタシが教えているT高の生徒諸君はどんな生活をしているのだろうか。
いくらなんでも、これだけ休みが続くとストレスもたまるだろう。
先が見えるならば「もうちょっとだ、頑張れ」とでも言えるのだが、今回のこの悪辣なウィルス騒動はチットモ先が見えない。
困ったものです。

2020年5月1日金曜日

ラブ・サイケデリコ

THE GREATEST HITS「ラブ・サイケデリコ」という男女二人組のロックデュオが昨日の夕刊に取り上げられていた。
妙なグループ名だなあと思いつつも、興味があったので早速ユーチューブで視聴してみた。

まず好感が持てたのはその音楽性である。
なんとなく昔懐かしい感じがして、違和感なく聴くことができた。
言ってみれば、「いきものがかり」のシニア版とでも言うべきなのだろうか。
(イヤイヤ、1997年、青山学院大学の音楽サークルで結成だというからまだ四十代なので、シニアは失礼か)

歌っている歌詞は、英語と日本語がゴチャゴチャになっており、なにが何だかよく分からない部分もあったが、ボーカルの女性の英語がきわめて上手い。
これは彼女が帰国子女だからということである。

何はともあれ、ユーチューブで一度視聴することをお勧めします。
「ラスト・スマイル」という曲が魅力的ですぜ。