東京ではとうとう感染者が四千人を超えた。だからというわけでもないが、引きこもっている。ワタシの場合、特に用事のある外出がないために引きこもっているに過ぎないが。
「東京都のコロナ感染者で過去最高、東京オリンピックの金メダルも過去最高」、どこかのメディアが使いそうなフレーズが現実となっている今日この頃である。
東京ではとうとう感染者が四千人を超えた。だからというわけでもないが、引きこもっている。ワタシの場合、特に用事のある外出がないために引きこもっているに過ぎないが。
「東京都のコロナ感染者で過去最高、東京オリンピックの金メダルも過去最高」、どこかのメディアが使いそうなフレーズが現実となっている今日この頃である。
夕方の情報番組を見ていると、コロナ感染について医療従事者と一般の人との意識の差について触れていた。
中でも大きな違いは「中等症」についての意識の差である。
軽症から一歩進むと「中等症」となるのであるが、一般的には「隔離・入院」くらいの意識なのだろうが、医療従事者の感覚では「肺炎が広がって多くの人にとって人生で一番苦しい経験」だという。
ふーん、ワタシもよく理解していなかったなあ。
彼は47歳の時に歌うことをやめ、長年夢見ていたジャズピアニストへの道を歩み出した。米ニューヨークの音楽大学で若い学生にまざり、ゼロからの船出をした。
渡米後はピアノ練習が一日十時間に及んだが、なかなか上手くはいかなかった。
彼のコメントの中で次のように言う。
「頑張りさえすればうまくいくんだ」という精神でやっていたけれど、身体がついていかなかった。ああ、そうか僕はもう高い跳び箱を跳べないんだ、と思った。愕然として泣きました。ジャズは知ればしるほど不思議が増え、登れば登るほど頂上が見えなくなる。
うーん、なんとなく分かるなあ。
頑張ってもどうしようもない、ジャズという音楽はそういうものなんです。
金メダルをとって頂点に立った選手のコメントは比較的「勝者によくあるコメント」が多く、あまり興味は持てないのだが、多少期待されていたのに一回戦で敗退した選手コメントには何か「人生の機微」が表れている。
人生なんていうのは理想通りにはいかないもので、努力が自分を裏切ることはいくらでもあるのである。
今日は陽ざしもそれほど強くはなかったので、疲労も前回の真夏日から比べると、だいぶ少なかった。(老人には何よりも嬉しいのです。)
台風8号が接近してきている。
このまま台風が進むと、今晩遅くには関東から東北にかけて、何れかの地域に上陸しそうである。さて、如何に?
それにしても最近の人名には少々驚く。
今日見たオリンピック女子スケートボードでも次のような名前の選手が登場した。さて、ナント読むのでしょうか。
オリンピックは昨日始まったばかりなのに、柔道・水泳・スケートボードで金メダルと、日本はいきなり佳境を迎えているようである。
開催の是非はともあれ、出場した選手には全力で頑張って欲しいと思う。
ところで、同時期に始まっている高校野球では残念な事態が起こっている。高校野球の地方大会において、有力校が部員のコロナウィルス感染のため、試合を辞退せざるを得ないケースが出てきているのだ。
おそらく、彼らは細心の注意を払って、試合前の日々を過ごしてきたであろう。それでも感染してしまうコロナウィルスの恐ろしさよ。
もしワタシが当事者たちの監督であったならば、彼らにかける言葉はまったく考えられない。
ここ何日か暑くツライ日であったが、今日は比較的身体は楽である。気温自体は室温で二十九℃程度なので、昨日とはそれほど異なってはいないのだが、陽ざしがないのが身体が楽な原因なのだろうか。
京都に「白峰神社」というスポーツ少年に人気の神社がある。
なぜ人気かというと、ここの境内には摂社として「精大明神=蹴鞠の神」が祀られており、蹴鞠=サッカーであり、スポーツ守護の神として崇められるのである。
さて、それはソレで良いと思うのだが、本宮の「白峰神社」に祀られているのは怨霊となった崇徳天皇と淳仁天皇である。つまり「白峰神社」は怨霊を鎮めるために建立された神社なのだ。それがどこでどうなったのか、その摂社が怨霊鎮めとはおよそ関係のない、むしろそれとは対極にあるようなスポーツ少年に対してご利益のある神社として有名になったのである。
確かに今日の下界は暑かった。これがテニスコートとなると、日陰もなく体感温度は三十五℃を超しているのではなかったろうか。しかしながら、わが老人テニスクラブのメンバーはワタシ以外は不死身なのです。一番若いワタシが「もうこれ以上できません」と弱音を吐いても、まだプレイするのだから。
さて、今日テニスの師匠から「浄瑠璃は何故、浄瑠璃」なんだ?の質問があった。そこで早速ネット検索。
答えはこうである。浄瑠璃とは三味線を伴奏とする語り物音楽の一種。室町時代に発生した語り物の一つに牛若と浄瑠璃姫とのロマンスを扱った《浄瑠璃物語》があり、これが好評を得たため、この種の語り物を〈浄瑠璃〉と総称するようになった。因みに、「浄瑠璃」とは仏語で清浄、透明な瑠璃(青色の美しい宝石)の意。また清浄なもののたとえ
ふーん、意外と簡単な答えだったなあ。
こう暑いと当然ながら何をやるにしてもテンションが下がる。温度が上がるとテンションは下がるのである。
読書する気もせず、音楽を聴く気もせず、こうしてブログを書くことも辛うじて手を動かす次第である。
ところで、一般的によく混同される言葉が「テンション」と「モチベーション」なのだそうだ。「テンション」はどちらかと言うと身体的で一時的なもの、それに対して「モチベーション」は精神的で中・長期的名ものであると言う。
うーん、何となくそんな感じは持っていたのですがね。
流石に今日は御殿場も暑い。
ただし、暑いといっても30℃は超していないので、まだましな方かもしれぬ。当地は日陰で風通しの良いところにいれば、比較的快適なのであります。
昨年はメデタク?静岡県の浜松市が最高気温の日本一を記録した(埼玉県熊谷市とタイの41.1℃)。さて、今年はこれ以上の記録が出るのであろうか。
現在(午前十一時)の御殿場の室内での気温が二十七℃、湿度は六十パーセントである。今日は風もあり、非常に快適と言ったところだろうか。
これからが高原御殿場の良い時期である。
さて、今日は図書館から借りてきた「すごいジャズには理由(わけ)がある」岡田暁生+フィリップ・ストレンジと「京都異界紀行」西川照子でも読むとするか。
運動神経とは、運動の指令が脳から筋肉まで送られるときの「情報の通り道」のことであり、脳から命令が出て運動につながるまでの神経のシステムを神経系と言うそうだ。
我々の神経系は、脳と脊髄(せきずい)からなる「中枢神経系」と、そこから出る信号を末端まで送る「末梢神経系」に分かれており、運動神経は、この末梢神経系の一部に必ずある。運動神経がなければ、手を思い通りに動かして文字を書くことも、箸でご飯を食べることもできない。そして運動神経の有無に個人差はなく、誰にでも同じように備わっているものということである。そうなると、運動に苦手意識のある人は、「脳からの指令を伝達するスピードが遅いはずだ」と思われるが、脳から筋肉に情報を伝える「伝導速度」にも個人差はないということである。
ではスポーツの上手い下手はどこで決まるかというと、それは生まれ持った才能ではなく、そのスポーツをやる上で必要な動きを練習してきたかどうかという、後天的な環境の違いによって決まってくる、つまり、練習を積んで、脳の神経回路をたくさん作ったかどうかによって決まるのだそうだ。
ふーん、知らなかったなあ。
パッケージの写真からはシュークリームを意識したパンのように思えたのであるが、実際のパンは「シュー」感も「クリーム」感もそれほど感じることはなく、「これはチョイと失敗したぞ」の感だけが残ってしまった。
それにしても「冷やしてもおいしい」の宣伝文句は、何か虚しく感じられたなあ。
これは御殿場とか静岡県だけの問題ではなく、どうも全国的な状況であるようだ。
昼の情報番組を見ていると、「今日も各地でゲリラ雷雨が発生中」というタイトルの特集を組んでいた。「火事や死者も」とあるので、今回は「雷」要注意らしい。
相手が「雷」ともなると、これはなかなか立ち向かえない。
ところで、「雷」文字の成り立ちであるが「雷」という文字は、本来は「靁」という字で、「雨」と「田」を三つ重ねた「畾」とを組み合わせて作られた文字であるという。 「雨」の字は「黒雲から降ってくる雨粒」を象ったもので「雨」を表し、これが気象を示す文字として用いられるようになった。一方「畾」は、「ゴロゴロ」という音を太鼓の音のように表現したものではないかと考えられ、それが「畾」となったということである。
ここのところ運動不足が続いていたので今日はテニスをやりたかったのだが、まあ、しょうがありませんね。
相変わらず不安定な天候の毎日である。
そしてここのところよく聞くフレーズが「ゲリラ豪雨」だ。今日も車を運転している途中にその豪雨がやってきた。やはり日本は熱帯に近づいているのでしょうね。
「生」コーラとは何ぞや?ワタシがツベコベ言うよりも、ここにメーカーの宣伝文句を引用してみる。
コーラは、一般的に複数のスパイスと柑橘類の香りによって、独特のおいしさを生み出しています。今回、“生きかえる気分になれる超爽快なペプシ”を目指すうえで、着目したのがスパイスです。数十種類ものスパイスの中から選び抜いた“生コーラスパイス”を新たに配合し、非加熱製法で作りあげることで、生コーラスパイスのフレッシュな味わいが最大化されることを見いだしました。 これにより、口に入れた瞬間のガツンとくる“飲みごたえ”はそのままに、喉を通った後にスッとひく“後ギレ”が強化され、“ペプシ史上最高レベルの爽快感”を実現。これこそ「生きかえるうまさ」を楽しめる自信作です。パッケージは、うまいコーラの象徴である「グラスに注がれたコーラ」を描き、さらにラベルの上部に“光”が差すシーンをデザインし、「生きかえる」ような飲用気分を表現しています。
うーん、ワタシはコカ・コーラよりもペプシ・コーラの方が好みであり、よく飲むのだが、普通のペプシ・コーラとの違いは良く分からなかったなあ。
考えてみれば六月の下旬あたりから、雨天の連続で、まったく身体を動かしていなかった。やはり週に一度でも身体を動かさないとイケナイ、なんとなくコンディション不良となるのだ。
人間の身体というものは、そう出来ているような気がする。
考えてみれば、ワタシもよく分からずに「蒲焼、蒲焼」と騒いでいた。これではイカンと早速調べてみる。
まず「蒲焼」とは、鰻などの長身の魚に用いる料理法。語源については諸説あるが、斎藤彦麿(ひこまろ)の『傍廂(かたびさし)』のなかの、ウナギを裂かずに口から竹串(たけぐし)を刺して焼いた形が蒲(がま)の穂に似ているので蒲(かば)焼きの名ができた、という説が適切らしい。
なるほど、「蒲の穂」か。
写真は何年か前に食べた「沼津うなよし」の「うな丼」。それにしても、「うな丼」食べたいなあ。
ビュッフェが幸せだったことは、画家として世に認められたのが極めて若い時(二十歳でパリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞する。)であったことだろう。
成功してからは、フランスの旧領主の館などを手に入れ、優雅な生活をしていたようだ。ただ、ビュフェはあまりにも早い時期に名声を得すぎたためか、後年の作品にはややマンネリ化の傾向が指摘されるなど厳しい見方もある。
ワタシ自身ビュッフェの絵は、好きか嫌いかでいうと「好き」である。今回の展覧会は「具象画家ベルナール・ビュッフェ」と言うタイトルであったが、ワタシの感覚から言えば「具象と抽象の間の画家ベルナール・ビュッフェ」である。
このドッチツカズが良いのですがね。
ここは「堂ヶ島」と言って西伊豆海岸の名所である。晴れてさえいれば美しい風景が目の前に現れるのであろうが、基本的に雨降りの天気ではこの程度が限界であろう。
それにしても、御殿場からはきわめて遠い、この先の松崎などはかつては「陸の孤島」などと言われたこともあったものなあ。
「近代を通じて、宗教的知識は科学的知識による攻撃にさらされ続けてきた。しかし、宗教的なものは今も社会に根を張り続けている。人間はつねに科学的にものを考えるほど単純な存在ではないからだ。」
また、こうも言う。
「『宗教』を表す『religion』は『固く縛る』『固くむすぶ』が語源で、宗教的な結合は、ほかにも様々な形で生き残っている。そして、その一つがスポーツである。例えば箱根駅伝が年中行事と化しているのは、それを通して新年の幸福を占ったり願ったりする国民的な儀礼になっているからだろう。」
そうか、箱根駅伝は宗教的結合のようなものか。
先週と同じ轍は踏むまいの判断であったと思うが、こんな時は皮肉なもので、それ以降天気は回復、降雨はまったくみられなかった。
世の中というのはこんなものなのだろう。
しかし、二週連続して運動ができないのは辛いなあ。最近はただでさえ運動不足なのだから。
自分の担当する普通科のテストが火・水・木とあり、今日も担当クラスの監督をしたのだが、本日は自分の担当クラス以外に福祉科のテスト監督をやることとなった。
福祉科の監督というのはいつも担当しているクラスの倍の人数の監督であり、初めて見る顔ばかりの監督であったのだが、これはこれで結構面白かった。
それにしても、ワタシが担当する普通科進学クラスと比べると、なんと逞しい体躯の生徒の多いことか。まあ、将来介護関係の仕事をする生徒も多いのだから、これは頼もしい限りとみるべきなのだろう。
人災とする理由のひとつは、土石流発生の前に熱海市の「避難指示」が無かったことであり、もうひとつは土石流の発生地点における「盛り土」の問題である。
「避難指示」については微妙な問題であり、いろいろな識者の意見を聞いていても、はっきりとした熱海市のミスとは言い切れないようだ。また、「盛り土」問題は施工関係者のコメントがないので、よくは分からない。
いづれにしろ時間が経過すればハッキリとしてくるだろう。
相変わらずスッキリしない天気が続いている、今週は予報によると、このような感じがずっと続くようだ。
現在の勤務校は、熱海地区から通ってきている生徒も結構在籍しており、学校要覧で調べてみると。二・三年生だけでも災害現場に近い熱海中学出身の生徒が十七名ほどいた。
土石流災害のニュースを見ると、大いに心配である。
ニュースでは、その「土石流」発生の映像(ツイッター提供)が、何回も流されていたが、そのスピードといい、パワーといい、とても人間が抗えるレベルのものではなかった。
御殿場でも雨量が五百ミリ近くになっており、熱海の「土石流」も、」決して他人事ではないような気がした。
「ついに来た。ロスレスあるいはハイレゾによる音楽サブスク高音質配信時代の到来だ。インターネット経由で好きな音楽を好きな時に定額で楽しめるサブスク配信、今や多くの音楽ファンが親しんでいるはずだ。」
ジジイには少し分かりにくいところもあるが、要は、これまでのインターネット配信は圧縮音源で行なわれてきたが、これからは高音質が期待できるハイレゾ方式で配信する時代が来た、ということらしい。
さらに彼は言う。
「この新様式に馴染めず、配信はダメ、ちゃんとブツを買わなきゃと異議を唱えてきた旧世代リスナーの場合『だって、ほら配信は音が悪いから』というのはお定まりの主張だった。がその根拠が一気に揺らいだ。」
うーん、まさにその通り。このあと彼は音楽配信を肯定するのではなく「ブツにこだわり続ける」宣言をするのであるが、ワタシもこの意見には賛同するのである。
さて、今日から文月(ふみつき)である。語源辞典で調べてみると、次のようにあった。
文月の語源は、短冊に歌や文字を書き、書道の上達を祈った七夕の行事に因み、「文披月(ふみひらきづき)」が転じたとする説が有力とされる。 その他、文月の語源には、陰暦七月が稲穂が膨らむ月であるため、「穂含月(ほふみづき)」「含月(ふくみづき)」からの転とする説。 稲穂の膨らみを見る月であるため、「穂見月(ほみづき)」からの転とする説もある。
まあ、五月(さつき)だとか十二月(しわす)に比べると、古典での呼称はマイナーであるが、いろいろな説があったのですね。