昨日、初めての試合が行われた北海道の新球場、エスコンフィールド北海道、なかなか興味深い場である。
毎年年末に北海道に通っていたワタシにとっては、新千歳空港から札幌に向かう途中、北広島という停車駅があり、「おお、ここにエスコンフィールドができるのだ」と気になっていたのである。
さて、ここに来てその全貌が明らかになり、今までの日本にはないような球場と言うことで、これは是非行ってみたいなあ・・・である。
昨日、初めての試合が行われた北海道の新球場、エスコンフィールド北海道、なかなか興味深い場である。
毎年年末に北海道に通っていたワタシにとっては、新千歳空港から札幌に向かう途中、北広島という停車駅があり、「おお、ここにエスコンフィールドができるのだ」と気になっていたのである。
さて、ここに来てその全貌が明らかになり、今までの日本にはないような球場と言うことで、これは是非行ってみたいなあ・・・である。
桜の木の下には、全くと言って良いほど花びらは散っておらず、これぞ「満開」なのだろう。
ここのところ、寒暖の差が大きい日が続いたので、それが一気に花が咲くキッカケになったのかも知れない。
何れにしろ「富士霊園の桜」は満開である。
今日はテニス日和、御殿場ではアウターが必要だったのだが、沼津愛鷹のテニスコートでは半袖のシャツで十分であった。
テニス中にフト横を見ると、T高校の軟式テニス部が練習をしていた。
思わずチョイとだけ声をかけてみたのだが、FSだけのクラスで授業をしているワタシが分かるはずはないよなあ。
近所の家に咲いていたモクレンである。
古代中国では、モクレン(シモクレン)はハクモクレンとともに、花の気高い印象から宮廷の庭園や寺院に植えられていたそうだ。
また、モクレン(シモクレン)などのつぼみを風乾したものは「辛夷()」とよばれ、蓄膿症や鼻詰まりなどの鼻炎や、頭痛、熱、咳などに対する生薬とされることがあるという。
漢方薬になるとは知らなかったなあ。
「花曇り」という言葉があるが、今日は其の「花曇り」である。
「花曇り」とは、桜の花の咲くころ急に気温が低くなる現象をいい、寒冷前線通過後の寒気や北東気流による冷気などが侵入すると起こりやすい。空一面が鼠色に見える曇天を言う。(「花曇り」は正式の気象用語ではないということである。)
咲満る 花に淋しき 曇り哉 正岡子規
雨降りだと外に出ることも躊躇われ、どうしても家の中に籠ってしまう。
元来、籠ることは嫌いではなかったのであるが、ここのところ学校での授業もなく、仕方がなく家にいるので、精神的には宜しくないようだ。
かと言って、傘をさして散歩というのも何だしなあ。
運よく午後の時間のアキがあったので、無事リハビリを受けることが出来たのだが、本当に「歳はとりたくない」のである。
まあ、こんなことはこれから益々増えていくのだろうが。
これはきっと「順調に歳を重ねている」ということなのだ。
雨は降ったが気温は高く、我が家の窓から見える御殿場の桜も五分咲き以上になってきたようだ。
この辺りの桜の名所は小山町の富士霊園であるが、チョイと標高の高いところなので、そちらの方はまだのようである。
(写真は月曜日に撮った紅梅。)
御蔭で水曜テニスも無事行なうことが出来たのである。
今日は朝からWBCの決勝戦の放映があり、テニスの最中も周りはその結果を気にする人ばかりであった。
結果はメデタクも日本チームの優勝、アメリカというメジャーのスター軍団に勝利できたのだから、これはもう本物のである。
太宰治の「富嶽百景」にも書かれているが、堂々とした富士山というのは、何だかエラそうで親近感は湧かない。
妙な言い方だが、こちらが恥ずかしくなってしまうのである。
それに対して何気ないところからフッと姿が見える富士山には実に親しみを感じるのである。
仕方なく帰宅したのだが、その途中に見つけたのが写真の「土筆(つくし)」である。
ここのところ冬の揺れ戻しがあり、寒い、寒いと思っていたのだが、実は御殿場にも春が来ていたのだ。
ナンカ美味そうな「土筆」だなあ。
「ハイ」は「ハイボール」なのだろうが、いったい「タコ」とは?
これは1982年に企画制作された「サントリー樹氷」のCMで、女優の田中裕子が「タコなのよ、タコ。タコが言うのよ。」と言うフレーズが評判を呼び、当時の流行語になったことを踏まえ、「タコハイ」のネーミングを決めたということだ。
さてさて、「タコハイ」は目論見通りにヒットするのだろうか。
ここの所雨降りはあまりなかったのであるが、今日は朝から雨降り。
午前中に肩のリハビリ、午後はJリーグの静岡ダービー(残念ながら静岡県の2チームは2部に降格したのです。)を観る。2部に降格してもダービーの観客はイッパイなのだから、選手は感謝ければイケナイのです。結果は良いのか悪いのか分からないが、引き分けでした。
来年度の自分の教科持ち時間を確認して、どのクラスを受け持つかという会議である。
ワタシのように非常勤講師の場合は、それ程の持ち時間がないのであまり気にはしないが、これから一年間を共にするクラスを決定するので、多くの時間を受け持つ時には、かなり気になることだろう。
ウィキペディアによると、「古今伝授」とは勅撰和歌集である『古今和歌集』の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたものである。
狭義では、藤原俊成・定家の嫡系子孫である御左流二条家(二条派)に伝えられたもの。さらなる狭義では、二条家断絶後、二条派の東常縁(とうのつねより)から宗祇に伝えられ、以降相伝されたものを指す。
とある。
つまり、「古今和歌集」は日本初の勅撰和歌集である。(勅撰和歌集とは天皇命令によって編纂されたという意味で、905年醍醐天皇の命を受けた紀貫之ら4人の撰者いより著された歌集。)しかし、成立後100年も経つと歌の本文や解釈に疑問が生じ、様々な解釈が行われるようになった。
そこで解釈を統一しようと考えられたのが「古今伝授」である。
「文学作品は作者の手から離れると一人旅を始める」という観点から考えると、様々な解釈があっても良いと思うのですがね。
身体がだるいというか、力が入らないのである。いったいこれは何なんだ。
まあ、明日は水曜テニスなのでこれで試してみることにしよう。
昼の情報番組はWBCの話題で持ち切りなのであるが、ここまでの日本チームで活躍した選手のランキングを示していた。
一位大谷選手、二位ヌートバー選手、三位ダルビッシュ選手、おいおい違うだろう。
ワタシに言わせると、一位は吉田選手であるし、二位は近藤選手である。
やはり、地味な選手はダメなんだろうかね。
写真は山形の温泉街で見つけた旅館野の塀にあった透かし彫り、この地区で行われている加勢鳥(かせどり)である。
加勢鳥とは(ケンダイ)という藁蓑をかぶった若者に手桶から祝いの水をかけ、五穀豊穣や商売繁盛などを祈る、江戸時代初期から伝わる伝統の民俗行事であり、奇祭である。
ところで、「持ち切り」とは同じ話題やうわさが、ある期間中ずっと続くこと。
語源は語源辞典を引いてみると、次のようにあった。
「持ち切り」は動詞「持ち切る」の連用形が名詞化したもの。
「持つ」は保たれるの意、「切る」は動詞の連用形に付いて、「し終える」「し通す」の意を表す。したがって、「持ち切る」で、始めから終わりまで同じ状態が続く、終始するの意となる。
つまり「持ち切り」は、終わりまで同じ状態で続くことの意であるが、とくに話題がしばらくの間ある事に集中するの意で使われることが多い。
ふーん、「持ち切り」の「持ち」は「保たれる」かあ。
「新しい学校のリーダーズ」
昨日、肩のリハビリ施術中に理学療法士の先生(と言ってもまだ二十代の若者である)から教わった、これからバズるであろう音楽ユニットである。(彼とは施術のおよそニ十分の間会話をする。会話の内容は多岐に渡るが、昨日は芸能の話であった。)「新しい学校のリーダーズ(あたらしいがっこうのリーダーズ)」は、日本のダンスボーカルパフォーマンスユニットである。
グループのコンセプトは、「模範的なヤツばかりが評価されるこの時代、くだらない不寛容社会から、個性と自由ではみ出していく」。
うん、うん、何だか面白そうだ。
ワタシもこれから注目していくことにしよう。
ネコヤナギの由来は、やわらかい銀白色の毛に覆われた花穂がネコの尻尾を思わせることから。
ウィキペディアによると、別名でカワヤナギ、エノコロヤナギともよばれる。地方によって呼称が異なり、「ネコネコ」「ネコジャラシ」「ネコノマクラ」「ニャンコノキ」といったネコと結びついた呼称や、「イヌコロ」「エノコロ」「インコロ」「イノコロヤナギ」といったイヌと結びついた呼称が知られるほか、東北では「ベコ」「ベコベコ」「ベコヤナギ」といったウシと結びついた呼称が見られる。
イヌやが出てくるとは驚いた。
「帰らざる 猫に雨降る ねこやなぎ」 加藤楸邨
やはり教員てえのは生徒とのコミュニケーションがあってナンボだよな。
今日は嬉しい報告も生徒から受けた。
三年生のS君がやってきて、福岡教育大に合格したと。
福岡教育大と言えば、あの「武田鉄矢」と同じだね。
良い教員になることを期待しています。
この辺りは雪が特に多いところで、ここから山形に近づくにつれて雪は減っていく。
そう言えば、以前担任した生徒が山形大学の工学部(米沢にある)に進学した時、一番驚いたこととして雪の量を挙げていた。
何でも、雪が二メートル近く積もって、二階にある自分の部屋には窓から出入りをしたそうだ。
最近のニュースを観ていると、日本各地で石段にどこからか寄付されたであろう雛人形を並べて、観光客を呼び込むような行事が盛んに行われているようだ。
しかしながら「雛人形を再び活かす」という観点からみれば「グッド」なのだが、どこもかしこも「石段に雛人形ではチョイとな」と考えてしまうのである。
ワタシの考え方は捻くれているのだろうか。
監督中に教室にあった本をチラ見すると、かつて海外で仕事をすることが多かった著者が、外国人から不思議に思われることとして、「日本人のほとんどが無宗教な のは何故?」ということを挙げていた。
著者によればこのような国民は世界でも少ないと言う。
うーん、ワタシも無宗教である。
だからと言って、今まで苦労したことはないし、むしろ(食事等などの)宗教的な拘束からは逃れることもできるし、快適に感じていたのだが、所謂グローバルな視点から考えるとこれはマイナスとなってしまうのだろうか。
三年生が卒業してしまったので、担当はひとつのクラスのみであり、採点も楽なのです。(もう人生下り坂なわけで、これからは出来るだけ楽を目指したいものだ。)
朝は暖かったのだが、夕方になって急に冷え込んできた。
寒気が去るのにはもう少し時が必要なのだろうか。
ただし、やや風が強く、「花粉飛び放題」の天候であり、家に帰ってきてからの「目の痒さ」も尋常ではなかった。
ところで、「尋常ではない」の「尋常」とは何かというと、「尋」は長さの八尺(約2.4メートル)のことであり、「常」は一丈六尺(約4.8メートル)のことである。
何れも、それ程長くない距離のことで、「尋常」とは「わずかな長さ、普通のこと」の意である。したがって、「尋常ではない」は「普通でない」ということだ。