色はレモンのような黄色であり、「食べたらきっと酸っぱいだろうな」と思われるのだが、これが酸味もなく、実に爽やかな味がして美味い。
はるかは福岡県の果樹園で日向夏(ひゅうがなつ)の偶発実生として発見された品種。
偶発実生(ぐうはつみしょう)とは、自然に落ちた種や、捨てられた種などから 種子親を超える特性(糖度が高い・種が無い・色が早く付くなど)を持つ 偶然発見された品種のことをいうのだと。
何はともあれ、見た目と味のギャップに心を奪われ、ワタシは沼津の西浦まで購入に走ったのである。
色はレモンのような黄色であり、「食べたらきっと酸っぱいだろうな」と思われるのだが、これが酸味もなく、実に爽やかな味がして美味い。
はるかは福岡県の果樹園で日向夏(ひゅうがなつ)の偶発実生として発見された品種。
偶発実生(ぐうはつみしょう)とは、自然に落ちた種や、捨てられた種などから 種子親を超える特性(糖度が高い・種が無い・色が早く付くなど)を持つ 偶然発見された品種のことをいうのだと。
何はともあれ、見た目と味のギャップに心を奪われ、ワタシは沼津の西浦まで購入に走ったのである。
生徒にとっては学年最後の試験である、そのせいかどうか分からないが、必死さも窺われるのであった。
それにしても、いつも教えている生徒を前に五十分の間、黙って立っているのはツライ。
これだったら授業をして五十分喋っている方がよほど楽だろう。(これは、変な教師根性がついてしまったからなのだろうか?)
清掃と言っても、今回は対してキレイにするところもなく、作業自体はニ十分弱の極めて簡単な清掃であった。
何だか清掃という行事をこなすための清掃だったような気がするなあ。
「七日食べたら鏡をごらん」というのは、「昆布屋さん」の看板であり、おそらく「昆布屋さん」であることから「昆布」を食べると「髪の毛」の「ツヤがよくなる」とか、「量が多くなる」ことを意味するであろう。
ただ、よく分からないのは、その横に掲げられた「お父さん預かります」である。
この通りには若者向けの「チョコレート屋」だとか「北一硝子」のようなアクセサリーが置いてある店が多いゆえ、若者にとって邪魔な「お父さん」は、「ウチの昆布屋で預かって昆布茶でも飲ませておきますよ」と言うことなのだろうか。
それにしてもドキッとする看板である。
来週は三月となるのに、御殿場の気温は今日も低い、天気予報では明日の夕方には「雪」の予想も出ているのだがなあ。
写真は、御殿場の平和公園にある、所謂「狛犬」の中の一体。日本の「狛犬」とは大分異なる格好をしている。
おそらくタイとかカンボジアとか、東南アジア系の「狛犬」なのではなかろうか。
仏教にそれ程詳しくないワタシが言うのも烏滸(おこ)がましいが、「親鸞はエライ」。
九才で得度した「親鸞」はその後比叡山に修行に入る。しかしながら二十年の修行の後、彼は自力修行の限界を感じるようになる。そして、29歳の時に叡山と決別して下山、法然の専修念仏の教えに触れ入門を決意する。
要は、比叡山という仏教の総本山みたいな格式のある寺?を見限って、庶民の中に入って行く決意をしたのである。これは法然の「お金をかけて仏像を作ったり、戒律を厳しく守り、修行に耐えたりするのではなく、誰もが等しく唱えられる念仏だけが救済の道」という考え方に同調したからだ。
以前、比叡山の「千日回峰行」をなし終えた阿闍梨が、テレビ出演をしていたのだが、その時ワタシは、たしかに「すごいなあー」の感はあるが、同時に「私は特別な修行をしたのだ」感も見られて、「何か違うなあー」と思ったのである。
その寒さの中、水曜テニスを敢行。
まあ、敢行と言っても御殿場とは異なり沼津はだいぶ暖かいので、御殿場の態ではない。
今日は「2」の数字が三つ並ぶ2月22日なので「猫の日(にゃーにゃ―にゃー)」だとか「忍者の日(にんにんにん)」」らしい。
何でも記念日にすればイイってことでもないよな。
リハビリは、理学療法士の施術を受け始めてから凡そ一年、完全に回復したのかというと、まだまだ肩をハードに使えないので、回復とは言えないだろう。
かと言って、現在テニスをすることは出来ているので、まあ、良しとしなければなるまい。
完全回復はまだまだ先のことだ。
人は気温が上がると、やはり外へ出たくなるのであろうか。
もっとも、よく見ると外を歩いている人は、老人と思われる人がそのほとんどであり(ワタシも車を降りるとおそらく同様だろう)、そして時間的な理由もあるのか(午前十一時頃)、若者の姿はあまりみられなかった。
「かつ丼」と言えば、日本人の国民食のような人気メニューであるのだが、右の写真のようにトンカツに、玉ねぎ入りの溶き卵をのせたものが一般的であろう。
しかしながら、北陸地方から長野にかけての地方でよく食べられている「ソースかつ丼」というのもあり、さらに愛知県には「ソース」に「味噌」を混ぜた「味噌カツソース」のかかった「味噌かつ丼」というのもある。(名古屋の「矢場とん」で食べた「味噌かつ丼」は衝撃的に美味しいものでした。)
さて、件の購入した「かつ丼」は、折からの「卵の高騰」により、卵の量が異常に少なかったのが残念であった。
しかしながら、途中に見かけたのは、梅は梅でも「蠟梅」の花であった。
「蠟梅」は花の質感が「蠟(ろう)」でコーティングしたようなので「蠟梅」という名前が付けられたと言われているが、別の説では花の咲く時期が「蠟月」と呼ばれる太陰暦の十二月(現在ではおよそひと月半ずれる)の頃だから、ということである。
よって、およそ五十分かけて勤務先まで出かけ、五十分の授業をやり、また五十分かけて家に戻ってくるという、効率の良いというか悪いというか、何だか分けの分らない授業なのである。
楽と言えば楽なのだが、張り合いがないと言えば張り合いがないのである。
それにしても、第三水曜日の沼津愛鷹コートはイヴェントがあるらしく、十二面あるコートのすべてが使用されていて、大いに賑わっているのであった。
もっとも平日のテニスコートなので、プレイしているほとんどの人は(おそらく定年退職後の)、シルバー世代であるのだろうが。
それほど積もるようには思えないが、こればかりは明日になってみなければ分からない。
朝食時に水を入れた鍋をもとうとした途端、上腕二頭筋あたりに痛みが走った。
やはり、今日のように急に温度が下がる時には注意が必要なのでああろう。
明日の水曜テニスに影響がないと良いのだがなあ。
かつて「池袋」は「駅袋」と揶揄されるように、駅にくっついた「西武百貨店」や「東武百貨店」という大型百貨店があるため、駅から外へ賑わいが広がらない袋のような所であったと。
うんうん、確かにワタシのイメージもそんな感じである。西武や東武と言った有名百貨店は行ったことがあるが、その他の場所に行った覚えはほとんどないなあ。
かすかな印象は、昔「池袋演芸場」があって(今もあるのだろうか)、そこに落語を観に行ったことぐらいだろうか。
「きさらぎ」には諸説あるようだが、「着てさらに着る」、つまり二月は寒いので「着物を着た上にさらに着物を着る」の意が一番合っているような気がする。
また、「如月」という漢字は中国語に基づくようで、中国語でも二月は「如月」と表記するようだ。
では何故中国語で「如月」なのかと言うと、(ここから先はワタシの推測だが)「如」という漢字には「真理とか原点」の意味があるので、一年において月の原点(旧正月というように中国では二月が一年初めの月)としての「如月」ではないかと思う。
果たして正しいかどうかは分からないが。
果たしてどれ程融けたのかと、それを確かめに二の岡神社まで出かける。
写真は神社の駐車場にあった大型自動車(除雪車)の轍(わだち)である。
降れば、それなりに風情があって悪くはないのだが、近所の道路のことを考えると、これはチョイと厄介ものなのである。
ただし、これは御殿場だけのことであって、長泉町にある勤務先まで車を運転して行くと、すぐに雪は雨に変わっていた。
帰りも同様、我が家にたどり着く五分前までは雨降りであり、我が家に近い急坂を上るとそこは一気に雪国 に変化したのである。
何てえトコだ、御殿場は。
木曜日は五限・六限の授業のある日であったのだが、今日は午前中の授業のみということで休日となった。
天気も上々であったので、梅の花を見つけに平和公園まで出かける。
まだ早いのか、あるいはもう遅いのか、よくは分らかったがチラホラと花は見ることが出来た。
明日は、静岡県でも雪の予報が出ているが果たして如何に?
やはり、野外で運動するのは気持ちが良い。
ただ、その代償としての「筋肉痛」も、もれなく付いてくるのである。
さらに今日はオマケとして「肩の痛み」も付いてきた。
世の中、なかなか厳しいのである。
今日はチョイと失敗をした。
いつも「エスプレッソ(普通のブレンドのやや濃いもので量もそれなりにたっぷり入っている)」と注文しているのだが、このエスプレッソには単に「エスプレッソ」と「エスプレッソ・ショット」というやつがあって、(普段は「エスプレッソ」なのだが)今日は気取って「エスプレッソ・ショット」を注文してみたのである。
さて、実際注文したものが手元にきて見てみると、なんとデミタスカップ(小さなカップ)に入った少量(二口か三口で飲み干せてしまう)の珈琲だったのである。
いくらなんでも二口三口では少なすぎる。
ああ、気取ったワタシが馬鹿だったのである。
これはF高時代の教え子が録画してくれて、それをDVDにおとし、ワタシのところへ送付してくれたものである。(M君お手数をかけました。)
さて、その録画を見てワタシは反省しきり。
どうも講義の質が落ちているのである。
というよりも、ワタシのパワーが最後まで持たなかったというべきか、一時間半喋ることが辛そうなのである。
これが歳を取るということなのだろうか。
何故「尖塔」かというと、空に向かって鋭角に伸びていくもの、例えば「尖塔」とか「送電塔」を今年の写真のテーマに使用と思ったからである。
はたして、これからどうなるやら、これはチョイとわからないが、今は取り敢えず「尖塔」なのである。
通りかかったのは十一時半頃であったので、この時点で予約しても入店できるのは二時間半後の午後二時ということになる。
人気店とはいえ、ワタシなんぞはとてもここまでは待てない。
近頃は、食事にも忍耐が必要なのだ。
うーんこれはと一旦御殿場まで引き返して再度出発、いっぺんに二つのことが出来なくなってしまったワタシ・・・と、へこむことしきりであった。
これが歳を取るということなのだろう。
ワタシにとって、だらッとするということは、食うことと、トイレ以外はまったく何もしないということなのである。
これぞ理想の生活なのだが、こんなことをしていると、明らかに脳が退化していく様子が感じられる。
やはり、人間というのは、何かしらの目的を持って行動していないとダメなんだろうなあ。
ナント、今日は五時半起きの六時半出発だったのである。
ここのところ怠惰な生活を送っていたワタシにとっては、これは正に地獄であった。
しかしながら、よく考えてみると正規の教員であった頃、これは当たり前のことであり、今日のように一日八時間働くことも普通だったのだ。
うーん、ワタシは(年とったとは言え)すっかり堕落してしまったのである。